飛鳥時代についてわかりやすく-天智天皇編-

前回の「飛鳥時代-聖徳太子編-」に続いて、今回は天智天皇編。
ついに蘇我氏が倒れます。

スポンサーリンク

飛鳥時代

飛鳥時代のできごと「天智天皇編」

推古天皇が長生きしたため、聖徳太子は天皇(大王)になれずに622年、その生涯を終えました。しかし、蘇我ファミリーによる「中央集権国家作り」は続きます。

乙巳の変

蘇我馬子の後を継いだ「蘇我蝦夷(そがのえみし)」。「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」の時代まで、彼も父と同じように大きな力をふるっていました。やがて、息子の「蘇我入鹿(そがのいるか)」も力を持つようになるのですが、聖徳太子の死後、蘇我一族の暴れっぷりは増します。そしてある時、入鹿が事件を起こしました。

推古天皇が亡くなった628年、跡継ぎを巡って争いが起きます。wikiによると、順当に行けば、次の天皇は聖徳太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」のはずでした。血統的にも蘇我氏と近く一見問題のないように思えますが、彼は入鹿によって自害に追い込まれます。

彼が消された理由については、いくつかの説があります。
・蘇我氏と対立する勢力が、彼(山背大兄王)を後押ししたため。
・彼が若く未熟であった。
・彼には人望があり、それを蘇我氏は嫌った。
・彼は有能だったので、コントロールできなくなることを恐れた。

いずれにせよ、蘇我氏は山背大兄王ではなく、「田村皇子(舒明天皇)」を即位させる強硬策に出ます。そして643年、蘇我入鹿が仕向けた兵100名によって、聖徳太子の宮殿であり山背大兄王一族の住む「斑鳩宮(いかるがのみや)」を襲撃させました。

舒明天皇が崩御した後は、彼の奥さんが「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」として即位しました。
Empress_Kogyoku-Saimei.jpg
(写真は「皇極天皇/斉明天皇」/ 斉明天皇 – Wikipediaより)

もう蘇我氏を止める者は、誰もいません。

そんな中、立ち上がったのが「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」(614~669年)。神事や祭祀を司った豪族です。姓は連。いつの世も、「腐った政治を変えたい!」と考える人はいるんですね。いや、もちろん野心もバリバリあったでしょう。
Fujiwara-Kamatari.jpg
(写真は「藤原 鎌足(中臣鎌足)」/ 藤原鎌足 – Wikipediaより)

日本史における最大氏族「藤原氏」の始祖でもあります。そして、そんな彼とタッグを組んだのが、ご存知「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」(626~671年)。
Emperor_Tenji.jpg
(写真は「天智天皇」/天智天皇 – Wikipediaより)

二人の出会いは、こんな感じ。
ある日、飛鳥寺で「蹴鞠(けまり)」の催し物がありました。そこに、たまたま居合わせた二人。競技の最中、鞠を蹴った中大兄皇子の靴が、ポロリと脱げます。その靴を拾った鎌足。彼は年下の皇子に、礼儀正しく靴を捧げました。そして、二人の恋が始まる・・のは薄いBL本ですね。笑

ちなみに、前回貼った天皇家系図を見てもらうとわかるのですが、中大兄皇子は皇極天皇の息子なのです。

「?」

蘇我氏がプッシュしている皇極天皇の息子が、蘇我氏に立ち向かう・・・どうやら訳がありそうです。

wikiによると、
皇極天皇を即位させた蘇我氏ですが、どうやら彼らが真に擁立しようとしていたのは、息子の「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)」でした。が、周りの目もあり、とりあえず皇極天皇を立てた。しかし、順当にいけば次の天皇は、古人大兄皇子ではなく、聖徳太子の息子「山背大兄王」。

そこで先に書いた通り、643年に襲撃して、山背大兄王を潰してしまいました。これでもう、次の天皇は古人大兄皇子でほぼ決定。再び、蘇我氏の傀儡です。

どうでしょう?
文字だけ見ると「?」となるのですが、前回の系図を見てください。
蘇我氏の擁立した「古人大兄皇子」は、「中大兄皇子(後の天智天皇)」のお兄さんです。そう、古人大兄皇子が消えれば、中大兄皇子が天皇になるチャンスもある。また、このままのほほんとしていたら、中大兄皇子は入鹿に殺されるかもしれません。

本人たちの志は今となってはわかりませんが、状況から考えるに、中臣鎌足と中大兄皇子の利益は一致していたのでしょう。やがて二人は、蘇我氏を倒す計画を練ります。途中、蘇我一族の「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)」も仲間に入りました。内部スパイってやつです。

そして運命の645年
朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の使者が、朝廷にやってくる「三国の調の儀式」というものが行われます。これは、蘇我氏を殺害するために仕組んだ儀式という説あり。

舞台は「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」。
Asuka_Itabuki_no_Miya.jpg
(写真は「舞台となった板蓋宮」/乙巳の変 – Wikipediaより)

儀式が始まります。
蘇我入鹿は猜疑心からか、手元の剣を手放しません。中大兄皇子は下っ端に命じて、宮殿の門を閉めさせます。

スパイの石川麻呂が、文書を読みはじめました。

計画では、石川が読んでいる最中に、子分の2人が入鹿を殺す手はず。ただ、万が一のために中大兄皇子は長槍、鎌足も矢を持って隠れます。

案の定、子分はビビりました。
「飯に水をかけて飲み込んでも、吐き出す有様」
・・どんな有様だよ。笑

文書を読む石川麻呂も、予定通りに子分が出てこないので、全身汗びっしょり。手も声も、震えだします。不審に思った入鹿が「なんで震えてんねん」と問うと、「天皇がお近くにおられて、緊張しています」とナイスな返し。

ここで、中大兄皇子が動く。
「俺がやる!」と飛び出し、それを見た子分らも飛び出して、入鹿の頭と肩を斬りつけました。それでも入鹿は起き上がろうとしたので、子分が片脚をバッサリ

まだ入鹿は動く。
皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか」と問う入鹿。すると、中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と一言。それを聞いた皇極天皇(中大兄皇子の母)は、殿中へ退き、入鹿は斬り殺されました。

彼の遺体は、大雨で水のたまった庭に投げ込まれ、障子で覆いをかけられました。

以上、「乙巳の変 – Wikipedia」より。
Irukaansatsuzu.jpg
(写真は「乙巳の変」/乙巳の変 – Wikipediaより)

 その後、入鹿の父の蘇我蝦夷自ら館に火を放ち、蘇我氏本宗家(宗家=本家)は滅亡しました。

以上の出来事が、「乙巳の変(いっしのへん)」です。

大化の改新

 蘇我氏滅亡後、皇極天皇はの軽皇子に皇位を譲りました。
彼が「孝徳天皇(こうとくてんのう)」。元号は「大化(たいか)」。一応、日本で初めての元号とされています。

そして、「宮」を飛鳥から「難波(なにわ)」に遷しました。この頃はまだ、天皇が変わるたびに都を遷していたようです。蘇我氏の地元からも離れました。
しかし、この遷都を豪族たちは歓迎しませんでした。

※まだ、飛鳥時代です。
Naniwa-no-miya-ato,_zenkei.jpg
(写真は「難波宮史跡公園(大阪市)」/難波宮 – Wikipediaより)

Preceding_naniwanomiya.jpgPreceding_naniwanomiya2.jpg
(写真は「前期難波宮模型(大阪歴史博物館)」/難波宮 – Wikipediaより)

ん?
中大兄皇子は、すぐ天皇になっていないようです。
彼がすぐ天皇にならなかった理由として、

・入鹿を自身の手で殺した手前、すぐ天皇にはなり辛い。
・母が生きている最中に、天皇に就くとバッシングを受けそう。
・鎌足が、孝徳天皇の方が扱いやすいと考えたため。

など、いくつかの憶測がありますが、真相は謎です。

さて、新しい天皇を迎え「中大兄皇子」は皇太子、「中臣鎌足」は内臣(うちつおみ)となりました。唐から帰国していた僧の「(みん)」と学者の「高向玄理(たかむこのくろまろ)」も加え、左大臣に「阿部内麻呂内(あべのうちまろ)」、右大臣に「山田石川麻呂(やまだのいしかわまろ)」を任命し、政治が動き出します。

いよいよ「大化の改新(たいかのかいしん)」の始まりです。

646年、「改新の詔(かいしんのみことのり)」発布。

第1条:公地公民制(こうちこうみんせい)
王族や豪族たちによる土地・人民の所有を禁止する。
※しかし実際には、かなり後まで私地私民が続いています。ちなみに、現在では公地公民の存在自体が疑問視されているらしい。

第2条:地方行政組織の整備や、駅伝制などの確立。

第3条:戸籍・計帳の導入と班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)。
が、これは明らかに後に作られた「大宝令」の影響を受けているそう。つまり、後から書いたもので、実現もしていません。

第4条:新しい統一的な税制について。
この4条は、この時期に定められたものとして妥当らしい。

改新の詔は、「日本書紀」に掲載されているのですが、その信ぴょう性については疑問視されており、wikiによると、藤原京から出土した木簡によって、内容がかなり盛られていたことがわかったようです。バレちゃうもんですね。

654年、孝徳天皇が崩御(死)されます。

650年には中国の何やらよくわからない思想が入ってきて、元号が「白雉(はくち)」に変わりますが、一応ここらへんまでの政治改革が「大化の改新」と呼ばれています。

蘇我氏中心の豪族政治から、天皇(大王)中心の政治に移り変わった時代でした。

白村江の戦い

古代日本における見事な負け戦、見ていきましょう。

孝徳天皇が亡くなった翌655年、皇極天皇が重祚(ちょうそ=一度退位した君主が再び即位すること)、「斉明天皇(さいめいてんのう)」として即位されました。

660年、前回書いた通り百済が滅亡
我が国に助けを求めてきたので、トモダチ作戦で朝鮮への援軍を決定します。

661年、中大兄皇子と母の斉明天皇自ら、朝鮮への遠征に備えて九州に出兵しましたが、斉明天皇が急死(暗殺説もあるらしい)。しかし、中大兄皇子は即位せずに政務を行いました(称制)。

そして663年、前回書いた「白村江の戦い」でボロ負けした我が国は、唐と新羅の侵略を恐れて「水城(みずき)」
800px-Ruins_of_Mizuki.jpg
(写真は「水城跡 概観」/水城 – Wikipediaより)

「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」
Hyakken-Ishigaki_stone_wall_(one_of_the_Onojo-Castle_ruins).jpg
(写真は「大野城跡」/古代山城 – Wikipediaより)

防人(さきもり)」
sakimori-parade.jpg
(写真は「さきもりパレード」/多摩ニュータウンタイムズより)

などを置いて守りに守り、
667年には都を飛鳥から近江の「大津宮(おおつのみや)」(現在の滋賀県にあったとされ、近江宮・近江大津宮などの呼び方も)に遷しました。
ootunomiya01.jpg ootunomiya02.jpg
(写真は「大津宮中枢部建物復原模型」/大津市歴史博物館より)

都を移した翌668年には、中大兄皇子が正式に「天智天皇(てんじてんのう)」として即位。

そして、同668年に高句麗が滅び、今度は朝鮮半島の支配をめぐって唐と新羅が対立。676年に「新羅」がちゃっかり「朝鮮半島ほぼ統一」してしまったので、唐は激おこぷんぷん丸。敵国と倭国が手を結んだら厄介なので、態度が急変。両国とも、倭国に対してやさしくなりました。

しかし、白村江で大敗した豪族たちの不満は、溜まる一方・・・
というところまで、前回書きました。

その他政治

白村江の戦いで負けた翌664年、中大兄皇子は「甲子の宣(かっしのせん)」を出します。

冠位を26階に増やし、下級官僚の階数も増やします。人気者の大海人皇子(おおあまのおうじ)」も立てて、私有民もちょっとだけ認めちゃう。白村江で負けてイライラしている豪族たちの不満を和らげるために、責任回避も兼ねて作った感じでしょうか。

そして前述の通り、667年に「大津宮」へ遷都。

668年には「天智天皇」として即位。

同年に「近江令(おうみりょう)」という体系的な法典を作ったとされていますが、原本は残っておらず、真実は闇の中。

669年、最愛の中臣鎌足が亡くなりました。
wikiによると、無くなる前日に「藤原」の姓を、天智天皇から賜ったそうです。

そして670年、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成。
庚午年籍は日本初の全国的な戸籍で、豪族から「公民・部曲・奴婢」を登録させ、永久保存させました。これにより、徴税や徴兵は行いやすくなりましたが、強気の支配体制に地方豪族の不満は高まります。

671年天智天皇も病気で崩御されました。

鎌足の2年後ですね。
亡くなる直前、弟の大海人皇子に後を頼もうとしたのですが、彼はそれを受けず、僧侶になると言って、吉野へ退きました。

天智天皇編はここまでです。

続きは>飛鳥時代「天武天皇編」

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク