平安時代についてわかりやすく part4「藤原氏による摂関政治(後期)編」

前回の「平安時代-寛平/延喜/天暦の治編-」に続いて、今回は「平安時代-摂関政治(後期)編-」です。

天皇による親政が終わり、再び摂関政治です。

藤原北家による摂関政治(後期)

天皇の幼少期は摂政として、成人後は関白として政務を行う摂関政治。

平安時代、貴族の間では夫が妻の家に通い(夜這い)、できた子供は妻の家出育てる「招婿婚(しょうせいこん)」が一般的でした。そのため、摂政関白となるには、天皇との外戚関係が重視されました。

大まかな説明

887年に「阿衡の紛議」で存在感を見せ付けた藤原基経の四男、藤原北家藤原忠平(ふじわらのただひら)」の子孫によって、摂関の地位が独占されます。

人事権に対して摂関が大きな力を握っていたため、やがて貴族の地位が固定。「国司(受領)」を希望する者が金銭を納める「成功(ずりょう)」や、私的な「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」からの収入により、摂関家には莫大な富が集中することに。

「昨年の行事や儀式をそのまま行うことが良い」といういかにも平安な考え方にのっとり、目立った改革は行われませんでした。

貴族の生活は「源氏物語(げんじものがたり)」のような、恋愛中心の生活・・だった?貴族は日常の儀式や作法を細かく記録するために、日記をつけるように。その大量に残された日記によって、当時の生活を詳細に知ることができるそうです。

藤原氏略系図

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(画像は「藤原氏の系図」かねさはの歴史より)

氏長者を巡る争い

969年「安和の変」で他氏排斥を完了した藤原北家の皆さんは、今度は氏の中のトップ氏長者(うじのちょうじゃ)」を巡って争いを開始。

「藤原兼道(ふじわらのかねみち)」と「兼家(かねいえ)」
道隆(みちたか)」と「道兼(みちかね)」
伊周(これちか)」と「道長(みちなが)」の争いを経て、最終的には道長が勝利。子の「頼道(よりみち)」と共に、摂関家全盛期を迎えます。

平安時代の年表⑦摂関政治(後期)

天皇系図

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(画像は「天皇系図」宮内庁より)

967年:村上天皇崩御、冷泉天皇即位

冷泉天皇(れいぜいてんのう)」(在位967-969年)は、村上天皇の第二皇子。母は藤原忠平の子「師輔(もろすけ)」の娘「藤原安子(ふじわらのあんし)」。

969年:安和の変

村上天皇崩御の後、醍醐天皇の皇子左大臣の「源高明(みなもとのたかあきら)」が、藤原氏らによって謀反を密告されました。詳しい内容はわかっていないそうですが、結果として彼は大宰府へ左遷されます。「安和の変(あんなのへん)」です。

醍醐源氏排斥をもって、藤原氏の地位は完全に確立。他氏排斥の完了

同年:冷泉天皇譲位、円融天皇即位

円融天皇(えんゆうてんのう)」(在位969-984年)は、村上天皇の第五皇子で冷泉天皇の同母弟。

摂政には「藤原実頼(ふじわらのさねより)」が就任。実朝が亡くなると「藤原伊尹(ふじわらのこれただ)」が引継ぎます。

伊尹が亡くなると、(兄)「藤原兼通(ふじわらのかねみち)」と(弟)「藤原兼家(ふじわらのかねいえ)」の間で争いがおき、ひとまず兼通が関白に。

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(画像は藤原兼家 – Wikipediaより)

984年:円融天皇譲位、花山天皇即位

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(画像は花山天皇 – Wikipediaより)

花山天皇(かざんてんのう)」(在位:984-986年)は、冷泉天皇と懐子(藤原伊尹の娘)の第一皇子。

986年:花山天皇出家、一条天皇即位

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(画像は一条天皇 – Wikipediaより)

兼家の陰謀で、花山天皇が出家。代わって7歳で即位したのが「一条天皇(いちじょうてんのう)」(在位986-1011年)。円融天皇と詮子(藤原兼家の娘)の第1皇子です。

摂政・関白には藤原兼家が就きました。彼の死後は、長男の道隆が引き継ぎます。道隆が病で倒れると、弟の道兼が関白に就任するも、病で死亡(七日関白)。

道隆の子である伊周と、彼の叔父の道長争い道長が勝利

995年:藤原道長、氏長者となる

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(画像は藤原道長 – Wikipediaより)

藤原道長(ふじわらのみちなが)」は、「内覧(ないらん)」(天皇に関係する文書などを先に見ることが許された令外官)となり、やがて右大臣に任ぜられ藤原氏長者となります。

1000年:一帝二后状態に

1000年、道長の娘である彰子(しょうし)を一条天皇の中宮とします。既に、ライバル「藤原伊周(ふじわらのこれちか)」の妹定子(ていし)が皇后となっていましたが、強行し、一帝二后状態に。

この定子に仕えたのが、『枕草子』で有名な「清少納言(せいしょうなごん)」。彰子に仕えたのが、『源氏物語』で有名な「紫式部(むらさきしきぶ)」です。紫式部が自身の『紫式部日記』で、清少納言をディスっているのは有名なお話。

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(画像は清少納言 – Wikipediaより)

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(画像は紫式部 – Wikipediaより)

1011年:一条天皇譲位、三条天皇即位

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(画像は三条天皇 – Wikipediaより)

三条天皇(さんじょうてんのう)」(在位1011-1016年)は、冷泉天皇と超子(藤原道長の姉)の第二皇子。1012年に道長の次女、妍子(けんし)が中宮となりますが、「藤原済時(ふじわらのなりとき)」の娘、娍子(せいこ)も皇后としたため、二后状態に。

1016年:三条天皇退位、後一条天皇即位

後一条天皇(ごいちじょうてんのう)」(在位1016-1036年)は、一条天皇と彰子(藤原道長の娘)の第二皇子。8歳で即位し、道長摂政となりました。

1018年:一家三立后の達成

1018年、道長の娘で彼の叔母にあたる威子(いし)を、後一条天皇の中宮とします。皇后を3人出した道長は、「一家三立后(いっかさんりっこう)」を達成。立后の日、祝宴の場で詠んだ歌が有名なこれ↓

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

意味:この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない
~藤原道長 – Wikipediaより~

1019年:刀伊の入寇

女真族(満洲民族)とみられる海賊が、九州北部を襲った事件「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」。この事件で捕虜となった日本人を、高麗が救出してくれたというエピソードも。「刀伊」は、高麗語で夷狄 (いてき) を意味する言葉。

9世紀~11世紀にかけて、日本は新羅や高麗などの海賊から、数十回も襲撃・略奪を受けていたそうです。(wiki調べ)

1020年:法成寺建立

道長によって建てられた、摂関期最大級の寺院。

1021年:『御堂関白記』完成

道長が著した日記。

1028年:平忠常の乱

※詳細は後でまとめて紹介します。

1036年:後一条天皇崩御、後朱雀天皇即位

後朱雀天皇(ごすざくてんのう)」(在位1036-1045年)は、一条天皇と彰子(藤原道長の娘)の第三皇子。関白には道長の長男「藤原頼通(ふじわらのよりみち)」が就きました。

1021年には、道長の娘で後朱雀天皇の叔母に当たる嬉子(きし)が、東宮妃として入内します。

1045年:後朱雀天皇譲位、後冷泉天皇即位

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)」(在位1045-1068年)は、後朱雀天皇と嬉子(藤原道長の娘)の第一皇子。

1051年:前九年合戦(前九年の役)

1051~1062年まで、東北の太平洋側にある陸奥国で起きた戦争。九年と言いながらで実際は12年で、古事記などにもそう書かれていたため、かつては「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。しかし『太平記』などには「前九年の役」と書かれており、一般化した説が有力だそう。

※詳細は後でまとめて紹介します。

1052年:末法の始まり

末法というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことである。正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。

末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。

末法 – Wikipediaより

wikiによると、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が生きていた時代は、紀元前6世紀または紀元前5世紀らしいので、約1500年後にあたるこの時期が、「末法(まっぽう)」だと考えられていたようです。

1053年:平等院鳳凰堂建立

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(画像は「鳳凰堂(国宝)」平等院 – Wikipediaより)

藤原頼通によって、現在の京都府宇治市に建てられた寺院。

紫式部による長編物語『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルの一人と言われる嵯峨源氏の「源融(みなもとのとおる)」。彼の別荘だったものが宇多天皇に渡り、孫の源重信を経て、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものを、寺院として改めたのが平等院の始まり。(wiki調べ)

10円玉でも有名です。

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(画像は十円硬貨 – Wikipediaより)

1068年:後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位

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(画像は後三条天皇 – Wikipediaより)

摂関政治から「院政(いんせい)」へ・・。

続きは>平安時代「荘園と武士編」

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