平安時代についてわかりやすく【9】源平合戦(治承・寿永の乱)

前回↓

平安時代についてわかりやすく【8】院政、皇位を譲った後の政治

平安時代末期の院政。仏教大好き白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇。平清盛をはじめるとする、平氏の栄華にも注目です。

に続いて、今回は「平安時代-源平の争乱編-」です。

※長くなったのでページを分けました。記事下のボタンクリックで、2ページ目に移動します。

目次

「平氏にあらずんば人にあらず」。

この言葉通り、平氏は栄華を極めます。しかし「おごれる人も久しからず」。平氏の世も長くは続きませんでした。

源平の争乱

源氏と平氏の戦いは、現在にまで影響を与えています。

例えば、紅白。学校の赤白帽子に、紅白歌合戦。白地に赤丸の日本の国旗も、実は源平合戦と関係しているとかいないとか。

平安時代まで、赤地に金の日輪「錦の御旗(にしきのみはた)」が与えられていました。

(画像は錦の御旗 – Wikipediaより)

官軍を主張する平氏は、御旗の色の赤旗をかかげ、対する源氏白旗をかかげました。源氏は、御旗にちなんで白地赤丸の旗を使用。

その後、代々武家政権は源氏の末裔であると名乗り(たがり)、今に至るとのこと(wiki調べ)。

1177年:鹿ケ谷の陰謀

ここまでの流れ

平氏が政治の実権を握ると、中央の官職は次々と平氏関係者に独占されていきます。

(画像は「系図で見てみよう (天皇家/後白河帝以降)」権中納言の歴史語りより)

かつて重要ポストについていた貴族たちから募る、不満の声。

前回説明した「平治の乱」で、幽閉された「後白河上皇」と「二条天皇」を結果的に助けた清盛。

しかし、1161年、後白河天皇に「憲仁親王(高倉天皇)」が生まれると、彼を立太子する動きに二条天皇が怒り、院政を停止

後白河上皇と二条天皇が対立する中、清盛は二条天皇を支持することに。清盛の妻「時子(ときこ)」が二条天皇の乳母だったからとも言われています。

ただ、1164年の蓮華王院造営や、三十三間堂の千体千手観音立像安置など、清盛は後白河上皇に対する配慮も忘れず、上手く立ち回っていたようです。

(画像は「圧倒的スケールで出迎える美しき千手観音立像群に釘付け」J-TRIP Smart Magazine関西より)

1165年、二条天皇が崩御すると、徐々に院政派が力を取り戻していきます。清盛の出家後、同じく出家した後白河上皇(法皇)とは良い関係だったようですが・・。1169年、延暦寺の僧たちが尾張国知行国主「藤原成親」の流罪を訴え、起こした強訴「嘉応の強訴(かおうのごうそ)」を巡って、政治的な対立状態に。

勢力を増していく清盛に対して、後白河上皇、院政は徐々に苛立ちを感じ始め、1176年、二人の関係を留めていた「滋子(しげこ)」(建春門院)の死を期に、対立は深まります。※後白河上皇の妃「滋子」は、平清盛の妻「時子」の異母妹で、高倉天皇の母。

平氏の擁立する高倉天皇には皇子がおらず、「今、高倉を譲位させれば、大きな顔をしている平氏を遠ざけられる・・」と思ったかどうかはわかりませんが、後白河上皇側は、院近臣を重要な役職に就けていきました。対する平氏側も左・右大将に一族を就け、人事を巡るバトルに。

鹿ケ谷の陰謀

※ここから「鹿ケ谷の陰謀」です。

1177年、法皇の院近臣である「藤原成親(ふじわらのなりちか)」「西光(さいこう)」「俊寛(しゅんかん)」らは、鹿ケ谷の山荘で平家打倒をたびたび計画していましたが、「多田行綱(ただゆきつな)」(源行綱)の密告により発覚。

西光は拷問を受けた後、斬首。
俊寛は薩摩国の鬼界ヶ島に流され自害。
成親は備前国に流され、食事を与えられずに死亡しました。

ちなみに、後白河上皇は処分を受けませんでした。これが「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」です。が、「平氏側のでっち上げた事件だったのでは?」という説もあります。

1179年:治承三年の政変

「鹿ヶ谷の陰謀」の後、平清盛の子「重盛(しげもり)」が病死。すると、後白河法皇の院近臣の一人が、重盛の知行国を没収。

今まで抱いていた不満が爆発し、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉院政は停止され、平氏に反対する関白以下多数の貴族が解任されました。平家による独裁状態となります。これが「治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)」です。

当然、貴族、大寺社、地方武士などの反平氏勢力は、イライラが増すばかり。

1180年~1185:治承・寿永の乱(≒源平合戦、源平の戦い)

(画像は治承・寿永の乱 – Wikipediaより)

平氏と源氏の戦いで有名な「治承・寿永の乱(源平合戦)」。

平安時代のクライマックスです。

1180年

高倉天皇と平徳子(清盛の娘)の第一皇子「安徳天皇(あんとくてんのう)」が、わずか1歳で即位

平氏の傀儡としての高倉院政がはじまります。

5月:以仁王の挙兵

後白河上皇の皇子「以仁王(もちひとおう)」は、安徳天皇即位により「皇位継承の可能性が限りなく0」に近づいてしまいました。

おまけに荘園の一部まで没収された彼は、ある決断をします。

かつて清盛と信頼関係にあった「源頼政(みなもとのよりまさ)」(摂津源氏)と共に、挙兵を計画

(画像は以仁王 – Wikipediaより)
(画像は源頼政 – Wikipediaより)

挙兵を呼びかけるため、源氏大寺社反平氏勢力令旨(皇子の命令書)を出します。

しかし、直前で計画がバレてしまい、以仁王は園城寺へ逃げ込みます。そして、頼政と共に脱出。宇治川を挟んだ「橋合戦」などを経て、宇治平等院での防戦に。

やがて頼政側の仲間は次々に倒れ、もはやこれまでと、頼政は辞世の句埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりけるを残し腹切り自害。

以仁王は脱出しましたが、敵の矢に当たり落馬、討ち取られました(wiki調べ)。

しかし、この以仁王が諸国に伝えた「令旨(りょうじ)」が、各地の反平氏勢力に火をつけ、「治承・寿永の乱」の幕開けとなります。

6月:福原京へ遷都

※前回説明しました。

平氏の貿易港、現在の兵庫県神戸市に遷都するも、反対多数で平安京へ戻ることに。

8月:源頼朝、伊豆で挙兵

以仁王の令旨を受け取った者の一人「源頼朝(みなもとのよりとも)」が、8月17日に挙兵。

(画像は源頼朝 – Wikipediaより)

前回、1159年「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の子、頼朝。処刑を免れ、伊豆国へ流された彼の復讐劇。物語っぽい展開です。

同月:石橋山の戦い

(画像は歌川国芳『源頼朝石橋山旗上合戦』小田原デジタルアーカイブより)

源頼朝の流刑地となった「伊豆国(いずのくに)」。

彼はここで20年以上暮らし、その間に豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の娘「北条政子(ほうじょうまさこ)」を妻としていました。

(画像は北条時政 – Wikipediaより)
(画像は北条政子 – Wikipediaより)

知行国主はじめ、地方の支配者は「平氏の者」であふれていた時期。

かつての支配者だった豪族たちには、イライラが溜まっていました。そんな豪族の協力が得られるだろうと予想し、かつ源氏追討で自身にも危機が迫っていると感じた頼朝は、8月17日、北条時政らとともに挙兵

(画像は「治承4年の関東」石橋山の戦い – Wikipediaより)
(画像は「石橋山の戦い」石橋山の戦い – Wikipediaより)

手始めに、平時忠と懇意にあった伊豆国目代「山木兼隆(やまきかねたか)」を襲撃。討ち取ります。

次に「相模国(さがみのくに)」制圧を目指し、強力な助っ人「三浦軍との合流を予定」していました。

石橋山に陣を構える頼朝。しかし、三浦軍との合流前に「大庭景親(おおばかげちか)」率いる平氏方の軍勢に、夜戦を仕掛けました。

頼朝の300騎に対して相手は3000騎。結果、頼朝軍は敗北。数日間の山中逃亡の後、船で「安房国(あわのくに)」に逃れます。

これが「石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)」です。

10月:富士川の戦い

(画像は富士川の戦い – Wikipediaより)

やっと強力な助っ人(豪族)、三浦氏と合流した頼朝。

源氏は、以前説明した「後三年合戦」(で恩賞を支払った一件)あたりから東国武士に人気があったので、その他にも多くの「東国武士」が頼朝に従いました。※土地所有権を朝廷から任されている(頼朝が土地所有権を認める)とホラを吹いて、仲間を集めた説あり。

10月6日、頼朝は先祖ゆかりの地「相模国鎌倉」に入り、根拠地とします。※後の鎌倉幕府

同じ頃、甲斐国で「甲斐源氏(かいげんじ)」、信濃国で「源義仲(みなもとのよしなか)」(木曾義仲)が挙兵。

平清盛は、孫の「平維盛(たいらのこれもり)」を総大将とする追討軍を、東国へ送ります。

(画像は平維盛 – Wikipediaより)

平氏軍は途中、兵を集めながら進軍するも、飢えなどが重なり士気は相当低かったそう。

ちなみに、このときの平氏7万騎、頼朝20万騎という記録は誇張で、手元の資料によると実際は1/10程度だそう。

結局、平氏軍は戦わずして撤退するのですが、あの逸話が有名です。

平氏軍と源氏軍は、富士川を挟んでのにらみ合い。夜、平家軍の部隊が、源氏軍の後ろに回ろうと富士川の浅瀬に馬で乗り入れます。その時、水鳥の大群が一斉に飛び立ちました。その羽音にビビッた(源氏軍が攻めてきたと勘違いした)平氏軍は大混乱。うろたえ、逃げ惑い、撤退。

水鳥のエピソードには誇張があるという見方もありますが、とにもかくにも、戦わずして頼朝軍が勝利します。これが、「富士川の戦い(ふじがわのたたかい)」です。

その翌日、頼朝のもとに、九郎義経なるものが20騎あまりで尋ねてきます。彼が、後に語り継がれる有名人「源義経(みなもとのよしつね)」です。

(画像は源義経 – Wikipediaより)

頼朝は、の義経が駆けつけたことに感動して涙したといいます。※兄弟の出会いには諸説あるそう。

その後、頼朝は平氏軍を追って都を攻めようとはせず、しばらく鎌倉で力を蓄え、東国の反勢力を整えます。

12月:南都焼討

反平氏勢力は畿内でも活発化し、大寺社もそれに加勢。

そんな中、清盛は子の「平重衡(たいらのしげひら)」に命令し、興福寺、東大寺大仏などを焼き討ちにしました。「南都焼討(なんとやきうち)」です。

1181年

2月:平清盛、熱病に死す

南都焼討のバチが当たったのか、清盛が熱病で亡くなります。三男の「平宗盛(たいらのむねもり)」が後を任されました。

この年、降水量の減少で、西日本に「養和の飢饉(ようわのききん)」と呼ばれる大飢饉が発生。

飢饉に関して少し調べたのですが、悪い意味で刺激が強すぎたため詳細は省略します。

ちなみに、当時は死体があちこちに転がっているのが日常風景だったようで、便所も一般的ではなく、普及するのは糞尿が肥料として使えると気がついた、中世後半あたりだそう。”穢れ”に対する過剰な反応は、そうした日常も強く影響していたのかもしれません。

4月:墨俣川の戦い

めずらしく平氏勢が勝利した、おもしろい戦いです。

大仏を焼いた平重衡を総大将に、頼朝軍追討隊を再び東国へ送ります。しかし、今回は頼朝の叔父源行家(みなもとのゆきいえ)」が、墨俣川(すのまたがわ)で待ち構えていました。

この行家が、物語的にもおもしろいキャラ。

(画像は源行家 – Wikipediaより)

↑このひょうきんな顔。wikiによると、頼朝に恩を売るため、この役割を請け負ったそう。

前回の富士川と同じく、川を挟んでのにらみ合い。今度は、行家側が夜の奇襲を狙って川を渡る展開に。

ひっそり川を渡った行家勢。しかし、「なんか近づいてくる奴らいるけど、あれ、服濡れてね?味方じゃないよね」と平氏軍に見破られます。結果、ボロ負け

これが「墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)」です。

1183年

5月:倶利伽羅峠の戦い

(画像は「倶利伽羅峠合戦の図」嵐山町web博物誌より)

飢餓が若干落ち着いてきた、1183年4月。平維盛を総大将とする平氏軍は、北陸道へ向かいます。北陸道で勢力を伸ばしていたのが、頼朝の1ヵ月後に挙兵した源義仲(木曾義仲)。

(画像は源義仲 – Wikipediaより)

越前国に入った平氏軍は、義仲の兵が篭城する火打城を前にストップ

川をせき止め、周りを湖にしていた城を、攻めることができずに困惑。しかし、城に篭っていた平泉寺長吏斉明が平氏側と内通し「柵を壊せば、水が引きますよ」と教えたため、城は落とされました。「火打城の戦い(ひうちじょうのたたかい)」です。

途中、般若野で休んでいた平氏軍に、義仲の先遣隊が夜襲をかけた「般若野の戦い(はんにゃののたたかい)」を挟み、いよいよ倶利伽羅峠(くりからとうげ)へ。

一度後退した平氏軍は、平通盛、平知度の3万騎を、能登国志保山へ。本隊の7万騎を、加賀国と越中国の境、「倶利伽羅山(砺波山)」に進めます。

対する義仲の本隊も、倶利伽羅山へと向かいました。そして、そのうちの一隊を密かに平氏軍の背後へ回します。

夜、平氏軍が寝静まった頃合いを狙い、突如大きな音をたてながら仕掛けた奇襲。驚いた平氏軍は混乱の中、敵のいない方へと逃げ惑い、倶利伽羅峠の谷底へ

一仕事終えた義仲勢は、二手に分かれていたもう一方(3万騎)の平氏軍を倒しに向かいます。

しかし、先に向かわせていた1万騎はすでに敗走していました。その1万騎を率いていたのが「墨俣川の戦い」で服を濡らして奇襲を失敗させた、行家。※行家はちゃっかり、頼朝から義仲に乗り換えていました。

しかし、援軍として義仲の2万騎が駆けつけ無事勝利。

ちなみに、有名な「牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけて敵陣に放った」という戦術は、疑問視する声が大きいようです。

(画像は「火牛像」倶利伽羅峠の戦い – Wikipediaより)

これが、「倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)」です。

7月:源義仲の上洛

源義仲たちは平氏を追って、京都に攻め入ります。

平氏は安徳天皇を連れ三種の神器を手に、六波羅に火を放って都落ち。九州を目指し、西に逃れます。このとき、後白河上皇は比叡山に脱出しました。

ついに都に入った義仲。しかし、都は飢饉の直後。ただでさえ食糧不足で苦しむ民から、義仲のつれてきた兵たちは略奪乱暴狼藉を働きました。義仲に政治的な配慮が乏しかったこともあり、後白河上皇にも嫌われます。

ちなみに、後白河上皇に謁見する際、義仲と行家は二人並ばず、序列を争ったそう。その後、与えられた任国についても、行家は文句を言ったそうです(wiki調べ)。

安徳天皇不在の中、後鳥羽天皇が(神器なき)即位。

10月:寿永二年十月宣旨

流れが変わります。後白河上皇は義仲”平氏追討”を命じ、西に向かわせました。

その間、源頼朝は後白河上皇に丁寧な申状(文書)を送ります。

義仲と比較し頼朝を気に入ったのか、上皇は赦免と同時に東国の支配権を頼朝に与えました。「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」。

同月:水島の戦い

平氏追討のため平氏軍の拠点、讃岐の屋島へと向かった義仲軍。しかし、その手前の備中国水島あたりで平氏軍に敗れます。勝利した平氏軍は、これを機に力を蓄えました。「水島の戦い(みずしまのたたかい)」です。

その後、義仲の耳に、頼朝の弟「源義経」が兵を率いて都へやってくるとの情報が入ります。後白河上皇の手引きだと知った義仲は、上皇に怒りの抗議

11月:法住寺合戦

(画像は法住寺合戦 – Wikipediaより)

11月、後白河上皇義仲に対して「西に行って平氏軍を追討してこい。なに、頼朝軍と戦うだと?命令に背くということは、謀反でいいのだな?」と脅しをかけます。

このとき、上皇はしっかりと寺社などから僧兵を集め、武装化していました。上皇が呼んだ義経の軍も、すぐそこまできています。

義仲は「相手が法皇でも、敵に背中は見せられん」と、ついにバトル開始。義仲は後白河上皇、後鳥羽天皇を幽閉政権を握り、40人以上の官人を解任させました。

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コメント

  1. 福島信博 より:

    めがねたぬき

    大変判り易く分解して開設されているとおもいます。私自身日本史が好きで中卒の浅知識で、市販の歴史書などを参考にしていますが、御氏の内容記事は大変参考になりました。お礼申し上げます。
    ただ、できれば御氏の歴史観としての「私考」があればとおもいました。
    今後も良い参考記事をお願いします。 和歌山県65才 年金生活者。

  2. 名無しの高校生 より:

    とても、わかりやすかったです!
    定期考査の前日まで、源氏と平氏の戦いの内容が頭に入って来ず、諦めかけていた時に、こちらのサイトを見つけました。
    丁寧に、図ものっていて、すごく頭に残って、なるほどと思えました。
    おかげで、テストの点数も良かったです!
    鎌倉時代からも、こちらで勉強していこうと思います。
    これからも応援してます。