古墳時代(大和時代)についてわかりやすく

前回の「弥生時代」に続いて、今回は「古墳時代」。
さっそくみていきましょう。

古墳時代(こふんじだい)」という呼び方は、旧石器時代・新石器時代のような、考古学上の時代区分だそうです。他にもヤマト王権を中心に考える「大和時代(やまとじだい)」という区分の仕方もありますが、wikiによると、研究の進展で現在では一般的ではなくなってきたようです。

古墳時代の時代区分は人によって捉え方が違うようで、手元の資料では3世紀後半7世紀後半。wikiでは3世紀半ば~7世紀末頃までと書かれていました。

古墳時代というからには、「古墳」がキーポイントなんだと思っていましたが・・古墳以外にも、大きなお墓を作ることができた権力者たち。それを束ねる「大王」そして、「ヤマト王権」。さらには、以後の日本文化にも大きく関わる「中国や朝鮮文化の伝来」も重要そうです。

古墳時代とヤマト王権

成立時期

ヤマト王権は、政治連合でした。奈良県の大和だけでなく、各地の豪族(王)も含めた集団です。

本題に入る前に。なぜ「ヤマト」なのか?
wikiで調べたところ、かつては「大和朝廷(やまとちょうてい)」とも呼ばれていたらしいのですが、研究が進んだ結果「大和とか朝廷って、不適切なんじゃね?」という専門家の意見が大きくなり、今ではカタカナで「ヤマト」と言われるようになったそうです。

ちなみに、ヤマト王権以外にも「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの言い方もあるそう。「ヤマト政権」の方が音的にしっくりくるので、時々使うかもしれません(笑)

さて、ヤマト王権の成立時期ですが、正直わからないらしいです。wikiによると、266年~413年は「空白の4世紀」と言われ、詳しくわからないそう。※「4世紀」は、正式な区切り方だと301~400年のこと(wiki調べ)。

「空白」の理由は単純で、「中国に史料が残ってない」から。邪馬台国が266年に「晋」に朝貢を行ったっきり、誰も中国に貢物を持って行かなかったんですね。一応、後で書かれた「日本書紀」や「古事記」には当時のことが書かれているらしいんですけど・・古事記って「イザナギとイザナミから淡路島が産まれて」とかのお話ですから。やっぱり、ある程度客観的な史料の方が、なんとなく信頼度が高い気はします。

とは言っても、大体の時期は予想できるようで、wikiによると、ヤマト王権の成立時期は3世紀後半頃と書かれていました。

ただし!
もし「邪馬台国が奈良県大和にあった説」が正しいのであれば、話は変わってきます。何故なら、「ヤマト王権=邪馬台国」という考え方ができるから。

ネット上でも、かなり熱い議論が交わされています。調べれば調べるほど混乱するので、詳しく調べていません(笑)。個人的には、「空白の4世紀」よりも、漫画『ワンピース』の「空白の100年」の方が、気になります(笑)。

前方後円墳

「ヤマト政権」と前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」は、どうつながるのか?
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(写真は『大仙陵古墳』/前方後円墳 – Wikipediaより)

実は、こういうことらしいです。

弥生時代の後半くらいから、大きな古墳が目立ち始めました。つまり、古墳を作らせるほどの力を持ったリーダーが、増えてきたと言うことです。

しかし、古墳の形や死者と共に埋葬される「副葬品(ふくそうひん)」の種類は、地域によってバラバラ。例えば、「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」など。

ですが!古墳時代に入ってからは、急に全国的に似たような「前方後円墳」が多くなります。副葬品や埋葬の形式も似てくる。しかも、大きな古墳は近畿(特に奈良県大和とその付近)存在する。

このことから、小国の王たちを束ねるヤマト王権(拠点は奈良県の大和)の王「大王(おおきみ or だいおう」が、「俺らのチームは、前方後円墳で行くぜ!」と言ったか、政治連合に参加するメンバーが「やっぱり、前方後円墳って素敵ですよね」と言ったかはわかりませんが・・とにもかくにも、ヤマト王権のシンボルである「前方後円墳」が増えていきました。

いずれにせよ、日本の各地の豪族(小国の王)たちを従える大規模な政治連合のリーダー「大王」が、奈良県の大和地方を中心にブイブイ言わせていたことは、間違いありません。

ちなみに、古墳を規模が大きい順で並べると、第1位~44位までは全て「前方後円墳」だそうです。(手元の資料調べ)

なんだか、点と点がつながってきました。
あと、古墳で有名なのが「埴輪(はにわ)」。
古墳の上に並べられていたようです。
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(写真は『埴輪』/埴輪 – Wikipedia(左)/東京国立博物館(右)より)

↓机の上に並べられる埴輪の貯金箱。


(※画像はAmazonリンクです)

ヤマト政権(王権)

ヤマト政権は、先に説明した通り、奈良県を中心とする「地域連合国家」です。小国が集まっているということ。

そして、それを束ねるリーダーが「大王(おおきみ or だいおう)」。この大王の後孫が、今の天皇家。すごい歴史ですね。

ということは!
そうです。この「大王」から現在の「天皇陛下」までは、ずっと「世襲(せしゅう)」。つまり血縁関係による継承。

「実際に政治を動かしているのは、天皇ではない」という時代も続きましたが、天皇の「権威」は現在も失われていません。

ただ、この頃の「大王」は支配力、つまり「力」も持っていたんですね。

また、チーム「ヤマト」の証である「前方後円墳」の広がり方を見れば、おおよその勢力拡大順序がわかるらしい。古墳は重要だったんですね。

氏姓制度

ヤマト王権には「氏姓制度(しせいせいど)」がありました。小国の豪族などにランキングを付ける制度ですね。手元の資料によると、5世紀~6世紀にかけて作られていった、とあります。

豪族、つまり支配者の一族には「(うじ)」が与えられました。氏は複数の家によって構成され、氏のトップは「氏上(うじがみ)」と呼ばれました。

そして大王は各氏に、地位や性格に応じて「(かばね)」を授けました。姓は職掌(しょくしょう)つまり氏に与えられた役目、そして地位(家柄)を表しました。

「氏の例」
・蘇我氏(そがうじ)
・物部氏(もののべうじ)
・大伴氏(おおともうじ)
など。

「姓の例」
・臣(おみ)

葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
氏姓制度 – Wikipedia

・連(むらじ)

大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
氏姓制度 – Wikipedia

他にも
「伴造(とものみやつこ)」
「百八十部(ももあまりやそのとも)」
「国造(くにのみやつこ)」
「県主(あがたぬし)」
などがあります。

中でも、「臣」と「連」を賜った豪族が、ヤマト政権の中枢を担っていきました。
詳しくは「氏姓制度 – Wikipedia」。

そして、豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地、「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民を使って、経済や軍事的基盤としていました。

また、氏は「奴婢(ぬひ)」(奴は男奴隷、婢は女奴隷)と呼ばれる奴隷階級の隷属民も所有していました。この制度は、律令制の崩壊まで続いたそうです。(奴婢 – Wikipediaより)

律令制の崩壊後も、隷属的な身分の民は依然として存在し続けます。自由・平等・人権なんていうのは、本当に最近になって実現したんですね。いや、まだ実現していないとも言えますが。

鉄資源を求めて

広範囲にわたる政治連合を形成した背景には、「鉄資源」が関係していると考える研究者も少なくないようです。

当時、時代はすでに「鉄器中心」の生活へと変わっていましたが、日本国内での「大規模な製鉄所」は見つかっていません。

ということは!
鉄の入手ルートは「外国」に頼っていたことになります。そして、その入手ルートが、朝鮮半島に存在した(いくつかの小国からなる)「加耶」というわけです。近くに見える、「高句麗」「百済」「新羅」も、なんか聞いたことありますねぇ・・。
任那・加羅、百済、新羅.png
(写真は「375年頃の朝鮮半島」/伽耶 – Wikipediaより)

加耶からの鉄は、いつものように九州らへんを経由して輸入されます。でも当然、他の地域の人も鉄は欲しい。利権も欲しい。ずるい!となると、争いが起きます。

実際に争いが起こったか、話し合いで解決したのかはわかりませんが、結論としては「政治連合」を組んで、互いに手を結ぶところに落ち着いたということ。

なかなか説得力のある説ですね。

高句麗の南進

そんな風に、鉄を通じて「加耶」と密接な関係を取っていたヤマト政権ですが、4世紀後半になって「高句麗(こうくり or コグリョ)」が、南に領土を拡大してきました。
任那・加羅、百済、新羅.png
(写真は「375年頃の朝鮮半島」/伽耶 – Wikipediaより)

「加耶」「百済」「新羅」は焦ります。
結局、ヤマト政権(倭国)も、「加耶」と、仲良しだった「百済」を応援するため、高句麗との戦いに参加しました。おそらく、というか当然、朝鮮進出の野心もあったでしょう。

少し「高句麗」について説明します。
実は中国人の国らしいです。「南北朝時代」という、中国が真っ二つに割れた時代に、中国東北部で力を付けてきた高句麗。だんだんと領土を拡大して、朝鮮半島北部にまで進出してきたんですね。

さて、高句麗との戦いに加勢したヤマト政権。大きな収穫もありました。それが「馬」。乗馬の風習が無かった日本に、騎馬の技術が伝わりました。この頃の古墳からも、馬具が出土しているらしいです。

さらにヤマト政権は、同時に外交も行っていたようで、5世紀、南北朝に分かれていた中国の「南朝」の方に使いを送って朝貢していたようです。朝鮮南部と中国南部から、高句麗に睨みを利かせたかったのかもしれません。詳細については、中国の歴史書『宋書(そうしょ)』を読んでください(笑)。

が、結果的には高句麗に負けてしまったらしい。(空白の4世紀なので史料がない)

さて、朝鮮や中国との交流の中で「渡来人(とらいじん)」も日本にやってきました。彼らは「鉄器」や「焼き物」「機織り」「金・銀・銅などの工芸品」「土木技術」などを日本に伝えました。

他には「儒教」仏教。「暦」や「医」も伝わったそう。さらに「漢字」も使われるようになり、文書の記録も残せるようになりました。

文化らしい文化が始まる予感がします・・。

ワカタケル大王

先ほども出てきた中国の歴史書『宋書』によると、5世紀から約100年間の間に、倭から5人の王「倭の五王(わのごおう)」が、宋に朝貢したと書かれています。

讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人らしいのですが、wikiによると

「讃」→履中天皇
「珍」→反正天皇
「済」→允恭天皇
「興」→安康天皇
「武」→雄略天皇

の説があり、「済」「興」「武」については、ほぼ異論なし!とのこと。

この「(倭王)武=雄略天皇」が重要らしいのです。
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(画像は雄略天皇 – Wikipediaより)

ワカタケル大王(獲加多支鹵大王)」とも呼ばれます。

何故かというと、当時を記す主な文献は「日本書紀」「古事記」で、それ以外の証拠となると、外国の書物や、土から出てくる考古学的なモノが主です。

が、この「雄略天皇」は、中国の『宋書』に登場し、『日本書紀』では第21代に数えられる天皇として記載。そして、何よりの証拠(とされているの)が、1968年に埼玉県の「稲荷山古墳」で見つかった、「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」もしくは「辛亥銘鉄剣」。
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(写真は左が表、右が裏 / 稲荷山古墳出土鉄剣 – Wikipediaより)

この剣は471年(辛亥年)に作られたものだと考えられており、「ワカタケル大王」を含むいくつかの名前が刻まれていたため、重要な証拠となりました。ほぼ同時期のモノとされる、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)で見つかった「鉄刀銘」と合わせると、5世紀頃には少なくとも、熊本県から埼玉県までヤマト政権の勢力が及んでいたことがわかります。

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(写真は宮内庁より)

21代目が「雄略天皇」。

人々の暮らし

古墳時代の人々の暮らしはどんな感じだったのでしょうか?

まず豪族。彼らは、「居館(きょかん)」と呼ばれる、周りを柵や濠で囲った屋敷に住むようになりました。一方、一般的な民衆は相変わらずの竪穴式住居で、変更点と言えば、朝鮮の影響を受けて作った「かまど」くらい。

男性の服装は「上:衣、下:袴」
女性の服装は「上:衣、下:スカートっぽいやつ」

だったらしいです(主な参考資料は埴輪)。
中国や朝鮮を参考にしたのでしょうか。

そして、年に2回の重要なイベントがありました。豊作を祈る「祈年の祭り(としごいのまつり)」と、秋の「新嘗の祭り(にいなめのまつり)」です。「新嘗祭」は、たまにテレビのニュースでも取り上げられてますよね。

今回は以上です。
ありがとうございました。

次回は>飛鳥時代

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