奈良時代の文化についてわかりやすく【3】天平文化と農民の暮らし

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奈良時代の政治についてわかりやすく【2】藤原氏と律令、お坊さんと煩悩

奈良時代の政治についてまとめました。藤原氏の浮き沈み、聖武天皇による大仏、失明してまで日本に戒律を伝えた鑑真、社会事業の行基、謎の怪僧道鏡などキャラの濃い人物が登場します。

に続いて、今回は天平文化や農民の暮らしを紹介します。

目次

奈良時代の文化・社会

妻問婚

妻問婚(つまどいこん)」は、夫が妻の家に通う婚姻形態のこと。前回説明しました。

住居

奈良時代、農民の主流はまだ「竪穴住居」だったようですが、宮殿などでは「掘立柱建物」が採用され、徐々に農民の住居にも取り入れられたようです。

税の負担

めちゃめちゃ苦しかったそう。飛鳥時代の税を参考にしてください。

農民の辛い暮らしを伺える歌として、万葉集に収録されている山上憶良の『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』が有名です。

貧窮問答歌

作者は、聖武天皇の教師だったと言われる「山上憶良(やまのうえのおくら)」。彼が地方の現状をみて、詠った歌と言われています。

貧窮問答歌の一部を紹介。

天地は 広しといへど 吾が為には 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾賀為には 照りや給はぬ 人皆か 吾のみ然る わくらばに 人戸はあるを 人並に 吾も作るを綿も無き 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる 襤褸にみ 肩にうち懸け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竃には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 鵺鳥の 呻吟ひ居るに いとのきて 短き物を 端截ると 云へるが如く 楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術無きものか 世中の道 世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 

山上憶良頓首謹みて上る

天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。他の人も皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、低くつぶれかけた家、曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、「短いものの端を切る」ということわざと同じように、鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。
この世の中をつらく身も痩せるように耐え難く思うけれども、飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから・・・。

農民の悲哀~貧窮問答歌より

農民の逃亡

あまりにも重い負担により、逃げ出す農民も出てきました。

税負担などを軽くする目的で、戸籍を偽る「偽籍(ぎせき)」。

与えられた土地から離れているが、税などは負担している「浮浪(ふろう)」。

土地を離れ税も負担していない(居場所がわからない?)「逃亡(とうぼう)」。

税逃れなどの目的で、国の許可なく勝手に出家した「私度僧(しどそう)」など。

その他

疫病、干ばつなどによる飢饉、天候に左右されやすい農業など、農民の暮らしは「安定」とは程遠かったようです。

天平文化と奈良時代の作品たち

平城京を中心とする、皇族・貴族にみられた華やかな貴族文化を「天平文化(てんぴょうぶんか)」と言います。

中央集権により富は中央に。唐や西国からもたらされた国際色豊かな文化、仏教文化などが特徴ですが、この文化を楽しめたのは一部の人間だけでした。

天平文化と奈良時代を代表する作品を紹介します。

歴史書

『古事記』

上・中・下の全3巻からなり、天地創造、国生み、天孫降臨、神武天皇の東征、日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話など、すべての始まりから推古天皇までの物語を、漢字で表した国内向けの書物。

天武天皇が「『帝紀』と『本辞』とかいうやつ、あれ嘘ばっかりらしいから新しく作ろや」と言ったかわかりませんが、「稗田阿礼(ひえだのあれ)」という抜群の記憶力の持ち主の協力を得て、作成されました。もちろん、天皇の正当性を主張するため、ちょこちょこ手を加えたりもしたのでしょう。

『日本書紀』

国外向けの歴史書。全30巻からなり、中国の歴史書に習って時系列順に「編年体(へんねんたい)」で書かれています。こちらは持統天皇までの歴史。

文学

『万葉集』

庶民から天皇まで、様々な和歌がまとめられた歌集。

『風土記』

風土記(ふどき)』は、地方にそれぞれ伝わる歴史をまとめさせたもの。

・懐風藻

懐風藻(かいふうそう)』は、漢詩集です。当時は、漢詩文を作ることが教養の一つだったそう。

教育

官人養成のための大学が中央に、国学(こくがく)が地方におかれました。「蔭位の制(おんいのせい)」というチートもあり、健全な貴族社会が営まれていた模様。

仏教

仏教によって国を安定に導く鎮護国家の思想を中心に、国レベルで仏教が支持されました。鑑真や行基、道鏡、玄昉など、歴史に名を残した僧が登場するのも奈良時代の特徴。

お寺もたくさん建てられ、特に国家的な大寺院として「南都七大寺(なんとしちだいじ)」と呼ばれる「薬師寺(やくしじ)」「大安寺(だいあんじ)」「元興寺(がんごうじ)」「興福寺(こうふくじ)」「東大寺(とうだいじ)」「西大寺(さいだいじ)」「法隆寺(ほうりゅうじ)」が有名。

仏教の研究学派「三論宗(さんろん)」「成実(じょうじつ)」「法相(ほっそう)」「倶舎(くしゃ)」「華厳(けごん)」「(りつ)」が、「南都六宗(なんとろくしゅう)」と呼ばれています。

既に日本に根付いていた土着の信仰(神道など)と、仏教思想が融合・再構成された「神仏習合思想(しんぶつしゅうごうしそう)」が起こります。

日本人の得意技です。多くの日本人はあまり深く宗教に関わろうとしないですが、”緩い信仰”なら何でもウェルカムという心は、神仏習合思想に通じるところがあるのかもしれません。

建築

法隆寺伝法堂

(写真は『伝法堂』法隆寺 – Wikipediaより)

法隆寺夢殿

(写真は『夢殿』法隆寺 – Wikipediaより)

唐招提寺講堂

(写真は『講堂』唐招提寺 – Wikipediaより)

唐招提寺金堂

(写真は『金堂』唐招提寺 – Wikipediaより)

東大寺法華堂

(写真は東大寺法華堂 – Wikipediaより)

校倉造(あぜくらづくり)

(写真は『校倉造』正倉院 – Wikipediaより)

断面が三角形となる横材を井籠 (せいろう) 組に積上げて壁体とした校倉風の建築様式。

校倉造(あぜくらづくり)とは – コトバンクより

彫刻

塑像(そぞう)

(写真は『如意寺の仁王像・阿形』塑像 – Wikipediaより)

塑像は、木を芯にして粘土で塗り固めたもの。

東大寺法華堂の日光菩薩像 / 月光菩薩像

(写真は(左)月光・(右)日光菩薩像/天平時代の仏像5:日光・月光菩薩像より)

東大寺法華堂の執金剛神像

(写真は執金剛神 – Wikipediaより)

東大寺戒壇院の四天王像

(写真は左から広目天/増長天/持国天/多聞天/東大寺四天王と戒壇堂より)

新薬師寺の十二神将像

(写真は十二神将 – Wikipediaより)

乾漆像(かんしつぞう)

原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、あとで原型を抜き取ったもの。

興福寺の十大弟子像 / 八分衆像(そのうち1体が阿修羅像)

(写真は『乾漆十大弟子立像(かんしつじゅうだいでしりゅうぞう)法相宗大本山興福寺より)

東大寺法華堂の不空羂索観音像

(写真は『不空羂索観音像』不空羂索観音 – Wikipediaより)

唐招提寺の鑑真像

(写真は唐招提寺より)

絵画

正倉院の鳥毛立女屏風

(写真は『鳥毛立女屏風第1扇』正倉院 – 宮内庁より)

薬師寺の吉祥天像

(写真は薬師寺吉祥天像 – Wikipediaより)

過去現在絵因果経の上半分の釈迦の一生

(写真は絵因果経(一部) – Wikipediaより)

工芸品

正倉院宝物

螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)

(写真は『螺鈿紫檀五絃琵琶』正倉院 – 宮内庁より)

漆胡瓶(しっこへい)

(写真は『漆胡瓶』正倉院 – 宮内庁より)

白瑠璃碗(はくるりのわん)

(写真は『白瑠璃碗』正倉院 – 宮内庁より)

百万塔陀羅尼

(写真は『百万塔陀羅尼』国立国会図書館貴重書展より)

奈良時代は以上です。
ありがとうございました。

次回は>平安時代

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