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鎌倉時代の政治についてわかりやすく【9】得宗専制政治と追い詰められた御家人の怒り

前回↓

鎌倉時代についてわかりやすく【8】元寇(蒙古襲来)、人でつくった盾

鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)について説明します。爆音轟く「てつはう」に、誰も名乗らない「集団戦法」。一度目の「文永の役」はボロボロ。しかし、二度目の「弘安の役」で屈辱を晴らします。

に続いて、今回は「鎌倉時代-得宗専制政治編-」です。

執権政治の次は「得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)」。
「御家人が質に入れた土地を、無償で返還せよ!」という法令が誕生。

得宗専制政治

得宗専制

鎌倉時代が成立した当初は、将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」が中心となって政治を行っていました。

続いて「執権の北条氏」+「有力御家人らの評定衆」の合議によって、意思決定を行った時代。

そして、元寇以降は、得宗に権力が集中した得宗専制の時代です。

手元の資料によると「得宗(とくそう)」は北条氏本家のことだそう。ネットで調べると、北条氏本家の当主(≒惣領:家督相続予定者)をさすのだとか。「得宗」の由来は、2代執権北条義時の法名・別称だと言われているみたいですが、真相は謎。

また、得宗家に仕えた人たちを「御内人(みうちびと)」と呼び、彼ら家臣が御家人に代わって、次々と要職に就き、幕府の政治に絡んでいきます。得宗専制政治の始まりです。

御内人は、北条氏(得宗)の下に位置します。

(画像は鎌倉幕府の権力推移図 | 世界の歴史まっぷより)

あれこれと理由を付け御家人は役職を解任され、代わって得宗家の家来にすぎない御内人が要職をゲット。

やがて、「得宗」と「御内人」による「寄合(よりあい)」で幕府の意思決定が行われ、北条氏一門が政治を独占する「得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)」へ。

役職を奪われただけでなく、(前回説明した)元寇での不十分な恩賞も重なって、御家人は激オコ。当然、揉めます。

霜月騒動

御内人のトップ兼得宗家の執事を「内管領(うちかんれい)」と呼びます。

8代執権・北条時宗、そして9代執権「北条貞時(ほうじょうさだとき)」のときの内管領が「平頼綱(たいらのよりつな)」です。

この平頼綱と争ったのが、有力御家人の「安達泰盛(あだちやすもり)」。

(画像は安達泰盛 – Wikipediaより)

幕府の実力者2人による権力争い。

元寇に振り回された時宗が亡くなって、一年後に起きた騒動。11月だったので「霜月騒動(しもつきそうどう)」と呼ばれています。

8代執権・時宗の死後、9代執権・貞時の外戚(母の異母兄であり養父)にあたる安達泰盛が、14歳の貞時に代わり幕府政治を担っていました。

それを良く思わない御内人サイドの人間、貞時の乳母父でもあった内管領の平頼綱が、泰盛討伐を企てます。

1285年11月17日、頼綱は貞時邸に兵を隠して待ちました。やがて泰盛が出仕したところで、彼を攻撃。

合戦へと発展し、安達側は敗北。この合戦により、多数の有力御家人が死んだそうです。

平禅門の乱

霜月騒動でライバルを倒した結果、実権を握った平頼綱。

やがて彼は、恐怖政治を行うようになります(9代執権・貞時も狙われていたそう)。

霜月騒動から8年後の1293年、貞時の命令で頼綱邸を襲撃させ、彼は自害しました。「平禅門の乱(へいぜんもんのらん)」です。

御家人の窮乏

9代執権・貞時の頃には、御家人の懐も限界に近づいていました。

主な理由は
元寇による恩賞を十分に与えられなかった
蒙古襲来に備えた長期の負担(奉公)に対して、十分な給与(ご恩)が無かった。元に勝利しても、得た土地や金銭が無かったため。

惣領制の下での分割相続
土地は増えないのに一族で分割相続を繰り返したため、御家人一人当たりの所領と、そこから得られる収入が減少。

貨幣経済の進展
宋銭の大量流入もあって、都を中心に貨幣経済が浸透。一方で、御家人の収入は減るばかり。お金を得るために、自身の所領を質に入れたり売却する者も現れます。

永仁の徳政令

御家人の借金がえらいことになり、こりゃいかんと幕府も手を打つことに。

その解決策が、1297年永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」です。

主な内容は
・御家人の所領売買・質入を禁止

・御家人が売却・質流れした所領を無償で返還しなければならない
相手が御家人の場合は、売却後20年未満のもの。相手が非御家人・凡下(庶民、農民、商工業者など)の場合は、売却後何年経っていようとも無償返還。

・越訴(敗訴した者の再審請求)の禁止

・金銭貸借についての訴訟を不受理

内容だけみると「ただで土地が戻って来たので、御家人ラッキー!」と思ってしまいますが、どうやらそうでもないらしい。

御家人はこの法令により、もう二度と所領を質に入れられないので、借入ができず。強制的に無償返還させられた商人たちは、「二度と御家人には金を貸さないぞ!」と決意。

新たに生まれた御家人の不満に応じて、翌年には「土地の売却・質入禁止」「越訴禁止」の項目が撤回されたりしましたが、根本的な解決になっていなかったので、結果として御家人の不満を解消することができず。

惣領制の変化

以上のような混乱の結果、所領の細分化を防ぐため、分割相続ではなく「単独相続(たんどくそうぞく)」が広がっていきます。

そして、女子に与えられる財産の縮小、または死後には土地を返還しなければいけない「一期分(いちごぶん)」が一般的となり、女性の地位が低下

元寇のあたりからは、「悪党(あくとう)」と呼ばれる、荘園領主などに反抗する新興武士も登場。

(画像は東京法令「日本史のアーカイブ」より)

年貢の拒絶、略奪などを行う彼らの勢力は、領主に不満を持つ百姓なども巻き込んで、各地へ広がっていきます。

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