平安時代についてわかりやすく【6】荘園公領制と武士の関係、課税対象の変化

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平安時代についてわかりやすく 【5】藤原氏による摂関政治(後期)

平安時代の摂関政治(後期)を流れに沿って説明します。藤原氏が他氏排斥を完了後、一族内で氏長者を巡る争いへと発展。『枕草子』の清少納言、『源氏物語』の紫式部のディスリ合いもこの時代。

に続いて、今回は「平安時代-荘園と武士編-」です。

戸籍の偽造や逃亡の増加、律令体制の崩壊により、人から税を徴収できなくなりました。そこで国(朝廷)は、「人」ではなく「土地」から税を徴収することに。

開墾による土地の私有を認めますが、やがて、それぞれの土地(領地)を守るため、武士が登場。戦いを重ね、勢力が増し、武士の政権へ。

律令体制のゆらぎと荘園

10世紀、中央は摂関政治の真っ只中。地方では、戸籍の偽造や農民の逃亡が相次ぎます。902年に行った班田を最後に、これまでの律令制度は崩壊

課税の対象は人から土地へ。「一定額を納めてくれれば、あとは好きに支配していいよ」と国司(地方を支配している役人)に自由を与えたことで、地方の政治はますます乱れます。

中央政治の混乱、地方政治が乱れる世の中。地方の豪族、有力農民たちは、次々に武士団を形成していきます。

地方政治の混乱

手元の資料によると10世紀初頭、ある地域における戸籍の「男:比が、「1:でした。男性に課される税から逃れるため「偽籍(ぎせき)」が当たり前の状態に。

重い税から逃れるため、逃亡浮浪(戸籍・計帳に登録されている土地から離れること)は当たり前。彼らの中から、貴族や有力農民、寺院の下につく者も現れます。

班田収授の崩壊と荘園の増加

地方政治が荒れる中、有力者の私有地である荘園を整理するため、902年に出された「延喜の荘園整理令」。

「成立の由来がはっきりし、国務の妨げにならない荘園は認める」(wiki調べ)という例外規定でしたが、荘園の公認を求める動きが活発化し、むしろ国務の妨げに。

以降、班田は行われなくなり、税は「荘園(しょうえん)」や「公領(こうりょう)」(=国衙領)などの「土地に対して課されるようになります。

荘園の増加により、中央政府の税収は減少。本来国の土地なのに、国家が経営する「公営田(くえいでん)」なるものも設置し、百姓に耕作させます。

朝廷が所有する「官田(かんでん)」、中央の官司・官人の財源確保のための「諸司田(しょしでん)」なども登場。

さらには天皇の「勅旨田(ちょくしでん)」、天皇が与える「賜田(しでん)」など、「荘園を”公的”に所有する」という、おかしな流れに。

荘園の変化

(画像は紀伊国桛田荘絵図より)

8世紀の「初期荘園(しょきしょうえん)」には、租税が課されていました。

しかし、10世紀以降の荘園では、租税の一部、または全てが免除される権利「不輸の権(ふゆのけん)」。検田使など、国の関係者の立ち入りを拒否する「不入の権(ふにゅうのけん)」など特権が認められていきます。

国司から不輸が認められた荘園を「国免荘(こくめんしょう)」。朝廷から不輸を認められた荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼びます。

国司による地方支配

受領と遥任

これまで、それぞれの国の行政は国司が担当、徴税・文書の作成は郡司が行っていました。が、ここで方針転換。

一定額の税を納めることを条件に、各地の地方官である「国司(こくし)」に統治を一任。国司の影響力が増大。

また国司の中でも、実際に「現地へ赴任する者」と「赴任しない者」に分かれます。

現地に赴任した国司の内、トップの者は「受領(ずりょう)」と呼ばれました。現地に赴任しない国司は「遥任(ようにん)」、赴任しない国司の代理人として派遣された者を「目代(もくだい)」と呼びました。

それまで徴税を行っていた郡司(元地方豪族など)は、「在庁官人(ざいちょうかんじん)」として、実務に従事。

国衙と留守所

国司が政治を任された区画を「国衙(こくが)」、中枢となる施設を「国庁(こくちょう)」、国庁のある都市を「国府(こくふ)」と呼びます。

国司のいない国衙は「留守所(るすどころ)」と呼ばれ、派遣された目代の指揮のもと、在庁官人が政務にあたりました。

国司の実態

988年、尾張国の郡司や百姓らが訴えた31カ条からなる「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげ)」。

この訴えから「公出挙(稲を強制的に貸し付ける)の加徴」「法外な安さで絹を買い上げ」「官人の給与や公的な費用の横領」など、当時の受領の悪行振りがわかるのだとか。

国司の中には、朝廷や寺社への私的な献金で官職を得る「成功(じょうごう)」や、同じ国の国司に再任してもらう「重任(ちょうにん)」も現れました。

人頭税から土地税へ

土地に対する税

受領から田地の耕作を請け負う有力農民が登場。彼らは「田堵(たと)」と呼ばれました。

戸籍や計帳を元にした課税方式から、土地を基準とした税へ。

税収の対象となる田地は、「(みょう)」という単位にわけられます。それまでの祖・庸・調・出挙にあたる「官物(かんもつ)」、雑徭にあたる「臨時雑役(りんじぞうやく)」が課されました。

名を請け負った者を「負名(ふみょう)」と言い、多くの名を経営する者は「大名田堵(だいみょうたと)」と呼ばれるように。

11世紀後半になると、田堵は土地の請負から支配へと性格を強めていき、「名主(みょうしゅ)」と呼ばれるように。彼らは自身の「名田(みょうでん)」で耕作する農民から、年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などを集め、国司や領主へ納めました。

荘園・公領と武士

寄進地系荘園

国司の命で、田地の経営・開発を行っていた大名田堵でしたが、国司の横暴な振る舞いに、各地でいざこざが起こります。

土地自体を私的なものにできれば良いのですが、田堵風情にそんな力はない。そこで、国司より偉い貴族や寺社に、名目上「寄進(きしん)」(≒寄付)してしまおうと考えます。

11世紀頃に生まれたこれらの荘園を「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」と呼びます。

寄進により、租税の一部またはすべてが免除される「不輸(ふゆ)」、外部権力者(国司が派遣した検田使などの役人)の立ち入りを拒否することができる「不入(ふにゅう)」の特権を持つ荘園が増加。

国司から不輸の権を得た荘園を「国免荘(こくめんのしょう)」、中央の太政官符や民部省符から税の免除を認められた荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼びます。

寄進を受けた貴族や寺社は「領家(りょうけ)」と呼ばれ、領家の力が国司に劣る場合やその他メリットがある場合は、さらに上級の「権門勢家(けんもんせいか)」などに寄進。彼らを「本家(ほんけ)」と呼びます。

荘園を支配する領主を「荘園領主(しょうえんりょうしゅ)」、領家と本家のうち、荘園の実質的な支配者を「本所(ほんじょ)」と呼びます。

大名田堵はどんどん開発を進めて「開発領主(かいはつりょうしゅ)」となり、やがて荘園領主から土地の管理を任され「荘官(しょうかん)」となり、下司(げし)、公文(くもん)、それら荘官を指揮する預所(あずかりどころ)などに任命されました。

公領

公領(こうりょう)」(=国衙領)は、国司(受領)が請け負う公的な領地

最終的には朝廷が支配する領地なのですが、班田制の崩壊による国司の徴税人化により、実質的には国司の私腹を肥やすため利用されるケースも少なくありませんでした。

後に出される整理令をきっかけに、国内を(ぐん)・(ごう)・(ほ)という単位に整理。豪族や有力農民などを、郡司、郷司、保司に任命します。

荘園公領制

(画像は「荘園について」学習教材の部屋より)

私的に所有する土地が荘園、国司が支配する公的な土地が公領。平安時代の荘園・公領は、複数の階層を通じて支配されていました。

このような、中世に見られる重層的な土地支配のことを「荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)」と呼びます。

ちなみに、耕作する農民にとっては、耕す土地が荘園だろうが公領だろうが「負担(納める税)は同じ」なので、どちらでもあまり関係なかったとのこと。

荘園・領地の把握と課税

荘園が公領を圧迫しているとみた後三条天皇は、「大田文(おおたぶみ)」と呼ばれる土地台帳で、荘園・領地を把握。「一国平均役(いっこくへいきんやく)」で荘園・公領の両方に対して、臨時の税を課します。

荘園・公領ともにきちんと整理された12世紀頃には、農民が年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などを領主に納めました。年貢は主に米、公事は租税以外の雑税、夫役は労役のことです。

武士団の形成

(画像は武士団 – Wikipediaより)

土地を巡る緊張感、治安の悪化により、ある意味必然的に「武士(ぶし)」(≒(つわもの))が登場します。

彼らは「地方の豪族」や「有力農民」でした。血縁関係のある「家子(いえのこ)」や従者である「郎党(ろうとう)」を率いて、武士団を組織します。

国司の任期終了後そのまま土着した子孫などが結びついて、「大武士団」を組織するケースもありました。東国においては、蝦夷討伐で前線にさらされる機会が多かったからか、京と距離が遠かったからか、良馬の産地だからか、武士団の成長が顕著でした。

武士団の成長と活用

桓武天皇の子孫である「桓武平氏(かんむへいし)」、清和天皇の子孫である「清和源氏(せいわげんじ)」が、武家の二大棟梁として有名です。

一族の血を引く頭(かしら)を「棟梁(とうりょう)」とし、地方に「(たち)」を築いて一族のつながりを強めます。

朝廷や貴族も武士を利用し、地方の治安維持には、盗賊を追捕する「追捕使(ついぶし)」、内乱時に兵を統率する「押領使(おうりょうし)」を派遣。

中央の治安維持には「検非違使(けびいし)」、貴族の身辺警護として従う(さぶらう)「(さむらい)」、その他、朝廷や院の警護としても利用され、武士の勢いは増していきます。

平安時代の続き>平安時代「源氏と平氏編」

コメント

  1. 初学者 より:

    日本史勉強中の者です。
    私の理解では、遥任=任地に赴かない国司のこと、目代=任地で国司の代わりを務める者のことです。

  2. 匿名 より:

    重任が重人になっていました。

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