前回↓
平安時代の摂関政治(後期)を流れに沿って説明します。藤原氏が他氏排斥を完了後、一族内で氏長者を巡る争いへと発展。『枕草子』の清少納言、『源氏物語』の紫式部のディスリ合いもこの時代。
に続いて、今回は「平安時代-荘園と武士編-」です。
戸籍の偽造や逃亡の増加、律令体制の崩壊により、人から税を徴収できなくなりました。そこで国(朝廷)は、「人」ではなく「土地」から税を徴収することに。
開墾による土地の私有を認めますが、やがて、それぞれの土地(領地)を守るため、武士が登場。戦いを重ね、勢力が増し、武士の政権へ。
律令体制のゆらぎと荘園
班田収授の崩壊
8世紀後半には農民の逃亡、9世紀になると戸籍の偽造が相次ぐ事態に。
手元の資料によると、10世紀初頭のある地域における戸籍の「男:女」比は、「1:6」だったそう。男性に課される税から逃れるため「偽籍(ぎせき)」が増加。
重い税から逃れるため、逃亡や浮浪(戸籍・計帳に登録されている土地から離れること)は当たり前。
戸籍などに基づいて、農民(人)に田を貸し、税を徴収していた班田システムが成り立たなくなりました。
国家の財源確保
823年、不作が続いた大宰府管内に、財源確保のため「公営田(くえいでん)」を設置。年間6万人以上の百姓を使って耕作させました。
9世紀には天皇が「勅旨田(ちょくしでん)」、皇族も、天皇から与えられた「賜田(しでん)」と呼ばれる田地を持つように。
朝廷が所有する「官田(かんでん)」、中央の官司・官人の財源確保のための「諸司田(しょしでん)」なども登場。
中央政府の班田がうまくいかなくなったので、それぞれがそれぞれに財源を確保する流れに。
荘園の増加
国が財源確保のためにそれぞれ土地を確保する一方で、有力貴族や寺社も(開墾などにより私有地化した土地)「荘園(しょうえん)」を増やしていきました。
逃亡や浮浪した農民の一部は、こうした荘園で耕作しました。やがて、貴族や有力農民、寺院の下につく者も現れます。
荘園の整理
地方政治が荒れる中、有力者の私有地である荘園を整理するため「延喜の荘園整理令」(902年)を発布。
「成立の由来がはっきりし、国務の妨げにならない荘園は認める」(wiki調べ)という例外規定でしたが、荘園の公認を求める動きが活発化し、むしろ国務の妨げに。
以降、班田は行われなくなり、税は「荘園(しょうえん)」や「公領(こうりょう)」(=国衙領)などの「土地」に対して課されるようになります。
律令制の基本とされる「公地公民」(朝廷が全ての土地と人民を所有するシステム)が成り立たなくなり、律令制度は崩壊。
人から土地へ
課税の対象は人から土地へ。
「一定額を納めてくれれば、あとは好きに支配していいよ」という自由を国司(地方を支配している役人)に与えたことで、地方の政治はますます乱れることに。
摂関政治の混乱、地方政治が乱れる世の中。地方の豪族、有力農民たちは、次々に武士団を形成していきました。
荘園の変化
8世紀の「初期荘園(しょきしょうえん)」には租税が課されていましたが、10世紀以降の荘園では、租税の一部、または全てが免除される権利「不輸の権(ふゆのけん)」、検田使など国の関係者の立ち入りを拒否する「不入の権(ふにゅうのけん)」など特権が認められていきます。
国司から不輸が認められた荘園を「国免荘(こくめんしょう)」、朝廷から不輸を認められた荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼びます。
国司による地方支配
受領と遥任
これまでは、諸国の行政は国司が担当、徴税・文書の作成は郡司が行っていました。が、ここで方針転換。
一定額の税を納めることを条件に、各地の地方官である「国司(こくし)」に統治を一任。国司の影響力が増大。
また国司の中でも、実際に「現地へ赴任する者」と「赴任しない者」に分かれます。
現地に赴任した国司の内、トップの者は「受領(ずりょう)」と呼ばれました。現地に赴任しない国司は「遥任(ようにん)」、赴任しない国司の代理人として派遣された者を「目代(もくだい)」と呼びました。
それまで徴税を行っていた郡司(元地方豪族など)は、「在庁官人(ざいちょうかんじん)」として、実務に従事。
国衙と留守所
国司が政治を任された区画を「国衙(こくが)」、中枢となる施設を「国庁(こくちょう)」、国庁のある都市を「国府(こくふ)」と呼びます。
国司のいない国衙は「留守所(るすどころ)」と呼ばれ、派遣された目代の指揮のもと、在庁官人が政務にあたりました。
国司の実態
988年、尾張国の郡司や百姓らが訴えた31カ条からなる「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげ)」。
この訴えから「公出挙(稲を強制的に貸し付ける)の加徴」「法外な安さで絹を買い上げ」「官人の給与や公的な費用の横領」など、当時の受領の悪行振りがわかるのだとか。
国司の中には、朝廷や寺社への私的な献金で官職を得る「成功(じょうごう)」や、同じ国の国司に再任してもらう「重任(ちょうにん)」も現れました。
人頭税から土地税へ
土地に対する税
受領から田地の耕作を請け負う有力農民が登場。彼らは「田堵(たと)」と呼ばれました。
戸籍や計帳を元にした課税方式から、土地を基準とした税へ。
税収の対象となる田地は、「名(みょう)」という単位にわけられます。それまでの祖・庸・調・出挙にあたる「官物(かんもつ)」、雑徭にあたる「臨時雑役(りんじぞうやく)」が課されました。
名を請け負った者を「負名(ふみょう)」と言い、多くの名を経営する者は「大名田堵(だいみょうたと)」と呼ばれるように。
11世紀後半になると、田堵は土地の請負から支配へと性格を強めていき、「名主(みょうしゅ)」と呼ばれるように。彼らは自身の「名田(みょうでん)」で耕作する農民から、年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などを集め、国司や領主へ納めました。
荘園・公領と武士
寄進地系荘園
国司の命で、田地の経営・開発を行っていた大名田堵でしたが、国司の横暴な振る舞いに、各地でいざこざが起こります。
土地自体を私的なものにできれば良いのですが、田堵風情にそんな力はない。そこで、国司より偉い貴族や寺社に、名目上「寄進(きしん)」(≒寄付)してしまおうと考えます。
11世紀頃に生まれたこれらの荘園を「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」と呼びます。
寄進により、租税の一部またはすべてが免除される「不輸(ふゆ)」、外部権力者(国司が派遣した検田使などの役人)の立ち入りを拒否することができる「不入(ふにゅう)」の特権を持つ荘園が増加。
国司から不輸の権を得た荘園を「国免荘(こくめんのしょう)」、中央の太政官符や民部省符から税の免除を認められた荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼びます。
寄進を受けた貴族や寺社は「領家(りょうけ)」と呼ばれ、領家の力が国司に劣る場合やその他メリットがある場合は、さらに上級の「権門勢家(けんもんせいか)」などに寄進。彼らを「本家(ほんけ)」と呼びます。
荘園を支配する領主を「荘園領主(しょうえんりょうしゅ)」、領家と本家のうち、荘園の実質的な支配者を「本所(ほんじょ)」と呼びます。
大名田堵はどんどん開発を進めて「開発領主(かいはつりょうしゅ)」となり、やがて荘園領主から土地の管理を任され「荘官(しょうかん)」となり、下司(げし)、公文(くもん)、それら荘官を指揮する預所(あずかりどころ)などに任命されました。
公領
「公領(こうりょう)」(=国衙領)は、国司(受領)が請け負う公的な領地。
最終的には朝廷が支配する領地なのですが、班田制の崩壊による国司の徴税人化により、実質的には国司の私腹を肥やすため利用されるケースも少なくありませんでした。
後に出される整理令をきっかけに、国内を郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほ)という単位に整理。豪族や有力農民などを、郡司、郷司、保司に任命します。
荘園公領制
私的に所有する土地が荘園、国司が支配する公的な土地が公領。平安時代の荘園・公領は、複数の階層を通じて支配されていました。
このような、中世に見られる重層的な土地支配のことを「荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)」と呼びます。
ちなみに、耕作する農民にとっては、耕す土地が荘園だろうが公領だろうが「負担(納める税)は同じ」なので、どちらでもあまり関係なかったとのこと。
荘園・領地の把握と課税
荘園が公領を圧迫しているとみた後三条天皇は、「大田文(おおたぶみ)」と呼ばれる土地台帳で、荘園・領地を把握。「一国平均役(いっこくへいきんやく)」で荘園・公領の両方に対して、臨時の税を課します。
荘園・公領ともにきちんと整理された12世紀頃には、農民が年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などを領主に納めました。年貢は主に米、公事は租税以外の雑税、夫役は労役のことです。
武士団の形成
土地を巡る緊張感、治安の悪化により、ある意味必然的に「武士(ぶし)」(≒兵(つわもの))が登場します。
彼らは「地方の豪族」や「有力農民」でした。血縁関係のある「家子(いえのこ)」や従者である「郎党(ろうとう)」を率いて、武士団を組織します。
国司の任期終了後そのまま土着した子孫などが結びついて、「大武士団」を組織するケースもありました。東国においては、蝦夷討伐で前線にさらされる機会が多かったからか、京と距離が遠かったからか、良馬の産地だからか、武士団の成長が顕著でした。
武士団の成長と活用
桓武天皇の子孫である「桓武平氏(かんむへいし)」、清和天皇の子孫である「清和源氏(せいわげんじ)」が、武家の二大棟梁として有名です。
一族の血を引く頭(かしら)を「棟梁(とうりょう)」とし、地方に「館(たち)」を築いて一族のつながりを強めます。
朝廷や貴族も武士を利用し、地方の治安維持には、盗賊を追捕する「追捕使(ついぶし)」、内乱時に兵を統率する「押領使(おうりょうし)」を派遣。
中央の治安維持には「検非違使(けびいし)」、貴族の身辺警護として従う(さぶらう)「侍(さむらい)」、その他、朝廷や院の警護としても利用され、武士の勢いは増していきます。
平安時代の続き>平安時代「源氏と平氏編」
コメント
もしかしたらお節介な話かもしれませんが、「班田収授の崩壊と荘園の増加」の項目において、官田や公営田の設置(823年,879年)は延喜の荘園整理令(902年)より以前に行われたという理由から、時系列的に延喜の荘園整理令とその後の事項の順番を変えた方が良いように思われます。8世紀後半から9世紀にかけて、既に班田収授は実施が困難であったために桓武天皇の政策があったわけで、醍醐天皇による延喜の荘園整理令はその延長線上であります。サイトを閲覧する者の立場からして、延喜の荘園整理令を踏まえて公営田等が設置された、という誤解を招きかねないと懸念する経緯から、ここで述べようと思うに至りました。ですが、自分もまだ日本史の学習段階にあり未熟者なので、謝っている点がありましたらどうぞご指摘下さい。
ご指摘感謝いたします!
修正いたしました。
平安時代に土地の私有を認めてほしくて新田開発が進んだとありますが私有できたとしても課税はあります。私有なら税率は低かったのでしょうか。私有を求める農民の気持ちがわかりません。教えてください。
農民の気持ちは私もわかりませんが、米を作るためには土地が必要です。封建制の下では土地にものすごく価値があります。偉い人は土地を貸す(与える)ほど持っていました。強い人は命をかけて土地を守り、奪い合っていました。
身分や性別に関係なく開墾で手に入るチャンス(自由)があるのであれば、欲しがる農民はいたと思います。実力で奪い合うようになったのが、戦国時代でしょう。
税に関しては教科書を見てください。教科書が私の知識の基礎ですので、それ以上のお答えはできかねます。強い人に、名目上土地を献上するみたいな抜け道もあります。
「なるようになる」のが歴史だと思いますから「”もっと土地欲しい”と”もっと税納めて欲しい”のwinwin→開墾OK」「でも税高すぎ→徴税人より強い人に土地預ける」みたいに考えると、腑に落ちるかもしれません。
日本史勉強中の者です。
私の理解では、遥任=任地に赴かない国司のこと、目代=任地で国司の代わりを務める者のことです。
ご指摘大変助かります。修正いたしました。
重任が重人になっていました。
ご指摘ありがとうございます。
修正いたしました。