平安時代についてわかりやすく【10】弘仁・貞観文化

前回↓

平安時代についてわかりやすく【9】源平合戦(治承・寿永の乱)

今に語り継がれる源平合戦(治承・寿永の乱)。平安時代末期、源頼朝の挙兵から、石橋山の戦い、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い、源義仲の上洛、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、壇ノ浦の戦い。年表に沿って説明します。

に続いて、今回は「平安時代-弘仁・貞観文化編-」です。

弘仁・貞観文化

弘仁・貞観文化とは?

弘仁(810~824)」「貞観(859~877)」の元号が使われていた平安時代前期、9世紀頃の文化を「弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)」と呼びます。

平安貴族を中心とする文化で、滅亡直前の唐から晩唐文化(ばんとうぶんか)を吸収・消化した文化。文学では漢文学、宗教では天台宗や真言宗などの密教神仏習合(しんぶつしゅうごう)の強まりなどが特徴。

宗教

平安時代に入ると、奈良時代に深く関わりすぎた「南都六宗(奈良仏教)」が遠ざけられ、平安仏教と言われる天台宗真言宗などの密教が流行。

国家の安寧を願う加持祈祷(かじきとう)などの儀式は、現世利益を求める貴族や天皇からの支持を集めます。

ハンストで亡くなった早良親王をはじめ、非業の死を遂げた者の怨霊を鎮める「御霊会(ごりょうえ)」も、平安時代の人々の信仰を表しています。

天台宗 / 最澄

最澄(さいちょう)」が、「天台宗(てんだいしゅう)」を日本に伝えます。

(画像は最澄 – Wikipediaより)

「近江国(滋賀県)」出身の最澄は、(778年)12歳のときに出家。802年、唐への留学生に選ばれ、804年、空海らと共に九州を出発。

やがて唐の天台山で天台教学などを学び帰国。806年、国から正式に認められ、天台宗を開宗(wikiより)。

後に、同じく唐で学んできた弟子の「円仁(えんにん)」と「円珍(えんちん)」によって、本格的な密教を取り入れます。が、両者の派閥は弟子たちの代で対立。

円仁の門流は「山門派(さんもんは)」、円珍の門流は「寺門派(じもんは)」と呼ばれました。最澄と空海も、はじめ仲が良かったのですが、やがて対立。

天台宗の本山は比叡山延暦寺(えんりゃくじ)」。

(画像は延暦寺 – Wikipediaより)

「密教しかない真言宗を単科大学(college)と考えると、天台宗は総合大学(university)のようなもの」と一般的に表現されます(yahoo知恵袋より)。

以後、延暦寺は日本仏教界の、中心的なポジションに位置するように。

真言宗 / 空海

空海(くうかい)」は、「真言宗(しんごんしゅう)」を開きます。

(画像は空海 – Wikipediaより)

弘法大師(こうぼうだいし)」として知られる空海は、いわゆる天才。

「讃岐国(香川県)」出身の空海は、(792年)18歳で大学寮に入り、19歳で山林修行、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を執筆。

最澄と同じ804年に、留学層として入唐。密教を学び、2年後に帰国。

真言密教を元に真言宗を開き、本山を高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)」とします。

(画像は「根本大塔」金剛峯寺 – Wikipediaより)

平安京に位置する、嵯峨天皇から賜った東寺教王護国寺)は、真言宗の根本道場。

(画像は東寺 – Wikipediaより)

天台宗の密教を「台密(だいみつ)」と呼ぶのに対して、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」と呼びます。

空海は、優れた能書家「三筆(さんぴつ)」としても有名。「弘法にも筆の誤り」の、弘法大師です。残りの二人は、橘逸勢(たちばなのはやなり)と嵯峨天皇

空海にはいろんな伝説がありますが、教育上よろしい伝説はさておき、私が気になったのは「空海が男色を広めた」という話。

古文の授業でホモセクシャルの話がよく出てきますが、特に僧の話は印象的。空海と仏教と男色、興味深いです。

神仏習合

仏教の教えと、日本古来の神道などの考えが混ざり合う「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」。

平安時代には、神社の境内に神宮寺がみられるように。

仏教山岳信仰が結びついた「修験道(しゅげんどう)」も発生します。

(画像は「熊野の深山にて修行中の修験者」修験道 – Wikipediaより)

建築

奈良仏教と異なり、平安仏教は比叡山や高野山などの山岳仏教が多かったため、寺院自体も地形に合わせた「伽藍配置(がらんはいち)」の形式をとりました。

室生寺金堂(むろうじこんどう)

(画像は「金堂」室生寺 – Wikipediaより)

室生寺五重塔(むろうじごじゅうのとう)

(画像は「五重塔(国宝)」室生寺 – Wikipediaより)

彫刻

頭部と胴体を1本の木から彫る一木造(いちぼくづくり)」の仏像が多数。

衣服のシワ「衣文(えもん)」には「翻波式(ほんぱしき)」と呼ばれる彫り方が用いられ、豊満で神秘的な雰囲気が特徴。

(画像は「衣紋模式図」祗是未在より)
(画像は「風早郷の仏たち」仏像紀行より)

元興寺の薬師如来像(がんごうじやくしにょらいぞう)

(画像は「元興寺の薬師如来立像」奈良の文化と芸術より)

神護寺金堂の薬師如来像(じんごじやくしにょらいぞう)

(画像は「神護寺『釈迦如来立像』(782~806)」Pinterestより)

観心寺の如意輪観音像(かんしんじにょいりんかんのんぞう)

(画像は「貞観彫刻8:観心寺如意輪観音像」日本の美術より)

室生寺金堂の釈迦如来像(むろうじこんどうしゃかにょらぞう)

(画像は「釈迦如来立像」Pinterestより)

室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像(むろうじみろくどうしゃかにょらいざぞう)

(画像は「女人高野 室生寺 2 弥勒堂、国宝釈迦如来坐像」白マム印 日本のこと日本のものより)

薬師寺の僧形八幡神像(やくしじそうぎょうはちまんしんぞう)

(画像は「薬師寺八幡神社の神像」奈良の文化と芸術より)

現存する最古の木彫神像の一つ。八幡神が僧の姿として表現された、神仏習合の例。

薬師寺の神功皇后像(やくしじじんぐうこうごうぞう)

(画像は「薬師寺八幡神社の神像」奈良の文化と芸術より)

絵画

園城寺の不動明王像(おんじょうじふどうみょうおうぞう)(黄不動)

(画像は「黄不動 曼殊院蔵」不動明王 – Wikipediaより)

神護寺の両界曼荼羅(じんごじりょうかいまんだら)

(画像は「神護寺(じんごじ)」神旅 仏旅 むすび旅より)

教王護国寺の両界曼荼羅(きょうおうごこくじりょうかいまんだら)

(画像は「両界曼荼羅(真言院曼荼羅、西院曼荼羅)のうち金剛界曼荼羅」東寺 – Wikipediaより)
(画像は「両界曼荼羅(真言院曼荼羅、西院曼荼羅)のうち胎蔵曼荼羅」東寺 – Wikipediaより)

書道・文学

唐風の書、「唐様(からよう)」が広まり、漢文学も重要視されました。空海、橘逸勢、嵯峨天皇ら三筆(さんぴつ)は、この時代。

風信帖(ふうしんじょう)

(画像は「『風信帖』(1通目) 空海筆」風信帖 – Wikipediaより)

空海が最澄に宛てた手紙。

凌雲集(りょううんしゅう)

814年、日本初の勅撰漢詩文集。

文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)

818年、勅撰漢詩文集。

経国集(けいこくしゅう)

827年、勅撰漢詩文集。

文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)

空海による漢詩文作成についての評論。

性霊集(しょうりょうしゅう)

空海による漢詩集。

教育

大学に付属する寄宿舎兼図書館「大学別曹(だいがくべっそう)」が有力氏族のために設けられ、学費も支援されました。

一方、空海が設立した「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」は、庶民に教育の機会を与えました。

平安時代の続き>平安時代「国風文化編」

コメント

タイトルとURLをコピーしました