飛鳥時代についてわかりやすく【1】聖徳太子と蘇我氏

前回↓

古墳時代についてわかりやすく~チームヤマトの証「前方後円墳」~

「古墳時代」は大王を中心とするヤマト王権の時代。前方後円墳に氏姓制度、朝鮮半島と鉄資源、重要人物ワカタケル大王、人々の暮らしについても触れました。

に続いて、今回は「飛鳥時代」です。

※長くなったのでページを分けました。記事下のボタンクリックで、2ページ目に移動します。

飛鳥時代(あすかじだい)」の「飛鳥」は、かつて奈良にあった地域の名前。現在の「奈良県高市郡明日香村大字飛鳥」あたりなんだそう(wikiより)。

その飛鳥で「宮」「京」を築いた時代が、飛鳥時代です。

(写真は「飛鳥の宮 復元模型」/奈良県立橿原考古学研究所附属博物館より)

前回古墳時代で少し触れた、ヤマト王権の「大王(後の天皇)」が、バチバチやり合った時代でもあります。

古代最大の戦いにもかかわらず、理由あって一時日本の教科書から消えた「壬申の乱」も、この時代。

聖徳太子・蘇我氏・推古天皇、そして天智天皇から天武天皇へと中央集権国家作りが進んだ時代。

実は盛りだくさんの時代です。

飛鳥時代

飛鳥時代は592年~710年までの118年間(wiki調べ)。または、聖徳太子が推古天皇の摂政になった593年から、持統天皇が藤原京に遷都した694年までの102年間だそう。

飛鳥時代への流れ

飛鳥時代に入ると、次から次に歴史上の重要人物が登場します。

私は「この人たち、どこから出てきたんだろう?」などあまりこだわらず、「クイーン卑弥呼は中国に文字の記録があったから特別だったんだ。飛鳥時代あたりから日本でも文字の記録が残ってるから、人物名がいっぱい登場するんだな。お話的には、前回(古墳時代に)奈良でブイブイ言わせてたヤマト王権の続きね」くらいで理解しています。ちなみに、飛鳥時代は考古学上だと古墳時代の後期に属します。

重要人物で飛鳥時代の流れをみると、

「聖徳太子&推古天皇&蘇我氏」

「天智天皇(中大兄皇子)&藤原鎌足(中臣鎌足)」

「天武天皇&持統天皇」

となります。
飛鳥時代、少し長くなりそうです。

天皇系図

天皇家が大暴れする飛鳥時代。

今に続く天皇家は、前回古墳時代で登場した、連合国家チーム・ヤマト(トレードマークは前方後円)のリーダー「大王(おおきみ)」の系譜。系図を載せますので、ややこしくなったら確認してください。

(写真は「歴代天皇系図」/家系図作成本舗より)

蘇我氏

蘇我氏も重要です。
教科書にいきなり登場する「蘇我氏(そがうじ、そがし)」の一族。

「蘇我氏くらいは調べとこうかな」と思ったので、簡単に紹介します。

まずは、蘇我氏の系図を見てください。

(写真は「蘇我氏略系図」/蘇我氏 – Wikipediaより)

見てのとおり、天皇の親戚が、ほとんど蘇我氏です

皇帝の妃の一族のことを「外戚(がいせき)」と言います。蘇我氏は天皇家の外戚として、大きな権力を握っていました。

気になる蘇我氏の出自ですが、『古事記』や『日本書紀』には「武内宿禰(たけしうちのすくね)を祖とする・・」などと書かれているようです。

手元の資料によると「葛氏から分立した氏族」だそう(※諸説あるようです)。葛城といえば葛城山。私も3回くらい登りましたが、蘇我氏は近畿地方の出身だったんですね。

系図でいうと「蘇我稲目(そがのいなめ)」の代から分立したようです。蘇我氏の具体的な活動が書かれているのは蘇我稲目から(wiki調べ)。蘇我氏は稲目から重要なんですね。

また、蘇我氏は「渡来人説」が強く、実際に渡来系氏族を従えていたそう。

そして
・神物や官物を納めた「斎蔵(いみくら)」
・朝廷の官物を収めた「内蔵(うちくら)」
・国内(政府)の官物を納めた「大蔵(おおくら)」
の「三蔵(みつのくら)」を管理しました。

さらに、以前古墳時代で登場した「氏姓制度」でいうと、蘇我氏の姓は「臣(おみ)」。臣の中の有力者が就くという「大臣(おおおみ)」だったそう。

ヤマト政権の中でも、最高の地位を占めた豪族。
権力の匂いプンプンです。

教科書では、
蘇我稲目(そがのいなめ)

蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我蝦夷(そがのえみし)

蘇我入鹿(そがのいるか)

ときて、入鹿が「乙巳の変(いっしのへん)」で殺害され、親父の蝦夷は自害!という流れ。ここで蘇我氏の時代は終わり。

蘇我氏の簡単な紹介でした。

物部氏

物語にライバルは付き物。
もちろん蘇我氏にもライバルがいました。
物部氏(もののべうじ)」です。

物部氏の系図ですが、見てもあまりピンとこなかったので省略します。笑

物部氏の姓は「連(むらじ)」。軍事を司る有力豪族として、(次に紹介する)大伴氏と同じ「大連(おおむらじ)」という役職に就いていました。

武士を「もののふ」と呼ぶ語源は、この「物部」からきているそう。ヤマト王権時代は、ブイブイいわせていたようです。

後で紹介する「磐井の乱」は、「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)」によって鎮圧されています。

物部氏の重要人物は、

物部麁鹿火(もののべのあらかひ)

(写真は「物部 麁鹿火(菊池容斎画)」/物部麁鹿火 – Wikipediaより)

物部尾輿(もののべのおこし)

(写真は「物部尾輿『前賢故実』」/物部尾輿 – Wikipediaより)

物部守屋(もののべのもりや)

(写真は「物部守屋(菊池容斎筆)」/物部守屋 – Wikipediaより)

の3人。
尾輿(おこし)と守屋(もりや)は親子関係ですが、麁鹿火(あらかひ)は違います。

大伴氏

ちょいちょい出てくる「大伴氏(おおともうじ)」。
教科書では蘇我氏・物部氏ほど目立ちませんが、力関係的には重要な氏の一つ。

飛鳥時代では、とりあえず「大伴金村(おおとものかなむら)」を押さえておけばよさそうです。

姓は大連。

(写真は「大伴金村『前賢故実』」/大伴金村 – Wikipediaより)

聖徳太子

(写真は「聖徳太子」/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)より)

聖徳太子(しょうとくたいし)」

王子様的人気を誇る、わが国の皇子。一昔前は、お札の顔でした。

「10人の話を同時に聞けた」
「馬小屋で生まれた→厩戸皇子(うまやどのみこ)」イエス・キリストか。

など、他にも伝説的なエピソードを持つお方。

が、一方で

・聖徳太子など、そもそもいなかった
・複数人の業績を「聖徳太子」一人がやったことにした
・いや、聖徳太子は実在したんだ!

などの説が議論されているそう。
これも歴史の楽しみ方の一つでしょう。今回は手元の資料通り、実在したテイで話を進めます。

聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)」は、厩戸王(うまやどおう)や厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた人物。「用明天皇(ようめいてんのう)」の息子で、「推古天皇(すいこてんのう)」の甥っ子です。※天皇系図でご確認ください。

ちなみに、用明天皇の母親は蘇我氏の一族で、彼の妻も蘇我氏の血を引いています。推古天皇は用明天皇の兄妹。つまり聖徳太子は、バリバリの蘇我ファミリーです!

当然、聖徳太子は蘇我氏と協力して政治を行いました。彼の心の内は知りませんが、少なくとも蘇我氏と共に政治を行うことは自然。「蘇我氏の言いなり」といった認識ではなく、「蘇我氏と協力して」という見方がしっくりきます。

彼のポジションは、推古天皇を支える「摂政」であり、皇位継承第一順位の「皇太子」。蘇我氏と同じく仏教を崇拝しました。

中国の様子

飛鳥時代は、中国や朝鮮との関係も深かったようです。

(写真は「隋の領域」/隋 – Wikipediaより)

中国では「(ずい)」(581~618年)が、589年に陳(ちん)を滅ぼして、統一王朝を成立させます。

ここから隋の攻撃開始。
朝鮮半島の「高句麗」に対して、数度大軍を派遣

(写真は「世祖 楊広」/煬帝 – Wikipediaより)

隋で有名な第2代皇帝「煬帝(ようだい)」は、暴君として知られています。

彼が100万人の民衆を動員させた「大運河建設」は、民衆から大きな反発を受けた政策。運河は分裂していた中国を繋ぐ有用な計画となりましたが、ドSすぎる政策でかなり嫌われていたため、最後は殺害されたそうです。

隋の次は「(とう)」(618~907年)。

(写真は「高祖 李淵」/李淵 – Wikipediaより)

隋を滅ぼした李淵(りえん)が、建国しました。

(写真は「太宗 李世民」/太宗 (唐) – Wikipediaより)

唐の2代目皇帝「太宗(たいそう)」の政治は「貞観の治(じょうがんのち)」と言われ、中国史上、最も国内が良く治まった時代なんだそう。

隋と同様、唐も高句麗を攻撃し始めます。隋や唐の行動は朝鮮半島だけでなく、日本にとっても意識せざるを得ない状況を作り出しました。

朝鮮半島の様子

飛鳥時代よりも少し遡ります。

前回以降、朝鮮半島に大きな動きがありました。
なんと「伽耶(かや)」が無くなってしまいました!地図で見ると・・

5世紀後半の朝鮮半島↓

(写真は「5世紀終わり頃の朝鮮半島」/三国時代 (朝鮮半島) – Wikipediaより)

6世紀の朝鮮半島

(写真は「576年頃の朝鮮半島」/新羅 – Wikipediaより)

・・無い。
ヤマト政権にとって大切だった伽耶諸国は、滅亡してしまいました。

磐井の乱

この間、日本と朝鮮の間にいろいろあったようですが、教科書でまず目に飛び込んでくるのは「磐井の乱(いわいのらん)」。

磐井は「新羅」と手を結んでいたようです。翌年「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)」によって鎮圧されました(物部氏登場)。

ヤマト政権の力が、全国に及んでいなかった証拠です。

三国の関係

伽耶が滅亡し、残った「高句麗(こうくり)」と「新羅」と「百済(くだら)」の三国。さらにバチバチの戦いが始まります。

三国になった朝鮮ですが、「高句麗」は「隋」から度々攻められていました。後にできた「唐」からも攻められる始末。しだいに、高句麗の力は弱まります。

655年、「高句麗」と「百済」が連合して「新羅」に攻め入ります。新羅は「唐」に助けを求め、なんやかんやあって660年百済の義慈王が降伏。「何で百済やられたんや!」と気になる方は朝鮮史ググってください。

白村江の戦い

降伏したはずの百済でしたが、復活を望みます。

仲の良かった倭国(日本)に援軍を要請
トモダチ作戦開始。

白村江(現在の錦江河口付近)」で交戦するも、「唐と新羅の連合軍」にボロクソにやられてしまいました。これが、663年白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」です。

その後

「やばい。このままでは唐と新羅が我が国に攻めてくるかも!?」と焦った日本は、朝鮮式山城水城を造り、防人も配置して防御力アップ。さらに万全を期すため、667年に都を飛鳥から近江大津の「大津宮(滋賀県)」に遷都。

しかし翌668年、さんざん痛めつけられてきた「高句麗」が滅亡。
今度は、朝鮮半島の支配をめぐって「唐」と「新羅」が争うことに。

そして676年、新羅が唐の隙をみて朝鮮半島をほぼ統一

(写真は「Map of Balhae」/新羅 – Wikipediaより)

こうなると唐としては面白くない。

彼らの侵略を心配していた日本でしたが、どうやら攻めてくる気配はなく、逆に唐も新羅も日本に気を遣うようになりました。敵国と組まれたら不利になりますからね。

これにて一件落着、とはいかず。
国内の豪族たちは「白村江での大敗」とその後の対応に、恨みを抱いていました。

ちなみに、地図にでかでかとある「渤海(ぼっかい)」は、高句麗に従属していたツングース民族による国とされていますが、異論もあるようです。

飛鳥時代のできごと「聖徳太子編」

と、ここまでが飛鳥時代を理解しやすくするための前置きでした。
次ページ、いよいよ本編「聖徳太子編」です。

※下のボタンをクリックすると、2ページ目に移動します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました