前回↓
鎌倉幕府をつくった源頼朝の死と、覇権を巡る争い。執権北条氏による有力御家人の排斥。武家と朝廷による戦い「承久の乱」あたりの流れを、年表でみていきます。
に続いて、今回は「鎌倉時代-執権政治編-」です。
2代執権「北条義時」まで見てきましたので、今回はその後の流れと、執権政治についてみていきます。
執権政治
鎌倉幕府の初代執権が「北条時政(ほうじょうときまさ)」。※初代政所別当の「大江広元(おおえのひろもと)」を初代執権とみる説もあるとのこと(wikiより)
1224年に、時政の息子で第2代執権の「北条義時(ほうじょうよしとき)」、翌1225年には、時政の娘で尼将軍と呼ばれた「北条政子(ほうじょうまさこ)」が亡くなります。
3代執権「北条泰時」
鎌倉幕府第3代執権には、義時の子「北条泰時(ほうじょうやすとき)」が就きました。
この泰時の頃から「真の執権政治が行われた」とする説が強いそう。
2代執権までは、最終的な決定権が将軍に委ねられていました。しかし、泰時は政治や裁判の決定権を奪取し、御家人の規範となる御成敗式目を制定します。
連署
執権の補佐役を「連署(れんしょ)」と呼びます。名前の由来は「公文書に執権と並んで署名・押判をしたから」だそう。
3代執権・泰時は「承久の乱」の後、共に六波羅探題の任についていた叔父の「北条時房(ほうじょうときふさ)」を、この職に任命しました。
彼を選んだ理由は「泰時自身の政治基盤を強化」するため。ライバルで異母弟の「北条政村(ほうじょうまさむら)」をけん制するために、時政を補佐役に選んだそうです。
評定衆
泰時は「評定衆(ひょうじょうしゅう)」も設置。
前述した「十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)」の進化版で、合議により重要な政務、訴訟の裁決を行いました。
初期メンバーは11人。文官出身者、少数の有力御家人、そして過半数を北条氏一門が占め、執権を中心に鎌倉幕府の意思決定機関として機能しました。
御成敗式目
1232年、北条泰時が中心となってまとめた、日本初の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」。
”式”は格式(律令を補完する法令集)などに由来
”目”は目録・条目の意味
成敗=裁決
「律令」が機能しなくなって久しく、武士の争いごとは、地域ごとの慣習や道徳を中心に処理していました。
しかし、「承久の乱」で幕府の支配領域が広がったことで、所領問題が全国で頻発するように。地域ごとの慣習や道徳で争いを解決するのが困難になったため、それまでの先例に基づき「成文法化(法を文章化)」することに。
あくまで鎌倉幕府の勢力範囲内における法なので、朝廷の支配する土地では「公家法(くげほう)」、荘園領主の土地では「本所法(ほんじょほう)」で紛争処理を行いました。が、幕府の勢力拡大に伴い、全国に浸透していきます。
御成敗式目(別名「貞永式目(じょうえいしきもく)」)は武士のための法律ということで、教養が無くても理解できるよう、簡単な文章で書かれていたそう。51カ条で構成されていますが、この”51”という数は、聖徳太子「十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」を3倍にした数だとか。
発布後は、必要に応じて項目を追加。これを「式目追加(しきもくついか)」または「追加法(ついかほう)」と呼びます。
4代執権「北条経時」
4代目執権は、3代執権・泰時の子「北条時氏(ほうじょうときうじ)」の長男「北条経時(ほうじょうつねとき)」です。
泰時の死後(1242年6月)、経時は10代で執権職に就きますが、体調を崩し1246年4月、23歳の若さで亡くなっています。
5代執権「北条時頼」
5代執権は、4代執権・経時の弟「北条時頼(ほうじょうときより)」。
引付衆
時頼は「引付衆(ひきつけしゅう)」を設置しました。
引付衆は評定衆の下で、御家人の訴訟などを専門にサポートする職。これにより、裁判の公正化・スピードアップがはかられました。
鎌倉時代の続き>鎌倉時代「生活編」
コメント