前回↓
鎌倉時代の得宗専制政治について説明します。北条氏本家の「得宗」と得宗家に仕える「御内人」により、鎌倉時代後期の政治が行われました。権力を独占する得宗と、衰退していく御家人の関係は悪化の一途。
に続いて、今回は「鎌倉時代-幕府の滅亡編-」です。
得宗専制政治と御家人の窮乏化で、鎌倉幕府への不満はピークに。
天皇は悪党を味方に付け、鎌倉時代は終わりを迎えます。
鎌倉幕府の衰退と滅亡
両統迭立
鎌倉時代半ば、院政を行っていた「後嵯峨(ごさが)上皇」。
彼の第3皇子「後深草天皇(ごふかくさてんのう)」と第4皇子「亀山天皇(かめやまてんのう)」の対立が、幕府と天皇家の関係をややこしくします。
1246年、後嵯峨天皇が当時4歳の後深草天皇に譲位して、院政を開始。やがて、後深草天皇が熱病にかかったため、亀山天皇への譲位を支持しました。そして、後嵯峨上皇が亡くなります。
問題となったのは、彼が次の後継者を明確にせずに亡くなったこと。「次の院政は誰が行うのか」を上皇が明確にしていなかったため、対立がおきます。
※wikiによると、後嵯峨は第4皇子・亀山天皇の嫡男を皇太子としていたため、亀山を後継者にしたかったと考えるのが普通との事。
結果、皇統は2つに分裂。
1つは、後深草の流れをくむ「持明院統(じみょういんとう)」。
もう一つが、亀山の流れをくむ「大覚寺統(だいかくじとう)」。
名前の由来は、退位後、それぞれの御所内にあった寺院の名前だそう。
この両統が皇位をめぐって対立します。
「承久の乱」以降、朝廷に深く干渉するようになっていた幕府は、問題解決策として「両統が交互に天皇を即位させる」よう勧めます。
この状態を「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼びます。
後醍醐天皇
そして1318年、大覚寺統から即位したのが「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」。
彼をきっかけに、鎌倉幕府は滅亡へ。
後醍醐天皇はそれまでの院政を廃止し、天皇親政を開始。政治の中心機関として「記録所(きろくしょ)」も再興。
”後醍醐”という名前から伺える、「醍醐天皇(だいごてんのう)」へのリスペクト。平安時代、摂関をおかずに天皇自ら政治を主導(親政)した「延喜の治」で知られる、醍醐天皇の時代を夢見ます。
そして彼は、討幕(幕府を攻め討つこと)を計画。
1度目の計画は、幕府にバレました。
これが1324年「正中の変(しょうちゅうのへん)」。このとき、天皇は処罰されず。
2度目の計画も、幕府にバレます。
幕府軍に御所を囲まれましたが、後醍醐天皇は女装をして脱出。
挙兵すると、河内の悪党「楠木正成(くすのきまさしげ)」らも天皇側に加勢。
が、結果は敗北。後醍醐天皇は隠岐島に流されました。楠木正成は姿をくらましたのだとか。
1331年「元弘の変(げんこうのへん)」です。
鎌倉幕府の滅亡
この事件が、鎌倉幕府(北条氏による得宗専制)に対して不満をもつ武士(※特に畿内の悪党)の勢いに、油を注ぎます。
後醍醐天皇の子「護良親王(もりよししんのう)」が挙兵。
楠木正成も再び挙兵。
その他の悪党なども、討幕勢力に加勢。
そしてなんと1333年、後醍醐天皇が隠岐から脱出。山陰道にある「伯耆国(ほうきのくに)」の「名和長年(なわながとし)」に迎えられます。そして、天皇の下に武士が結集。
天皇側についたのは、悪党だけではありません。
特筆すべきは「足利高氏(あしかがたかうじ)」(※後の足利尊氏)。
彼は、室町幕府の初代征夷大将軍。
1333年、源氏の名門、足利高氏らが六波羅探題を攻め落とします。
同じ源氏一門の「新田義貞(にったよしさだ)」らは幕府軍と戦い、鎌倉を攻略。
得宗の「北条高時(ほうじょうたかとき)」はじめ、北条一門、家臣、有力武将らは自殺。
鎌倉幕府は滅亡しました。
勝利した後醍醐天皇は、京都で親政を開始。
鎌倉時代の続き>鎌倉時代「宝治合戦編」
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