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鎌倉時代の年表【5】北条氏のターン、朝廷・貴族の衰退1198~1221年

前回↓

鎌倉時代についてわかりやすく【4】承久の乱、尼将軍(北条政子)の演説とすり替え

鎌倉幕府と朝廷の戦い「承久の乱」について説明します。尼将軍・北条政子の演説で、動揺する御家人の心は一つに。北条義時を倒し、政権を執るチャンスは・・。

に続いて、今回は「鎌倉時代-朝廷の衰退編-」です。

前回までに説明した出来事を、時代の流れに沿って確認していきましょう。

鎌倉時代の年表②

※「鎌倉時代の年表①」で1192年まで説明しましたので、今回はその続きです。

1198年:後鳥羽天皇譲位、土御門天皇即位

後鳥羽天皇の第1皇子「土御門天皇(つちみかどてんのう)」(在位1198-1210年)が即位。

(画像は土御門天皇 – Wikipediaより)

譲位した後鳥羽天皇が、上皇として院政を行います。

1199年:源頼朝、死去

鎌倉幕府、初代征夷大将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」が死去。死因については、落馬、病死、亡霊、暗殺など複数の説が議論されているそう。

1200年:梶原景時の変

梶原景時(かじわらかげとき)」をよく思わない御家人ら66人が非難の連判状をしたため、景時が鎌倉幕府から追放された事件。一族で京都へ向かう道中、駿河国で討死しました。

北条氏に排斥された内の一人。

1202年:源頼家、第2代将軍となる

源頼朝と「北条政子(ほうじょうまさこ)」の子「源頼家(みなもとのよりいえ)」が、鎌倉幕府、第2代征夷大将軍になります。

1203年:比企能員の変

次期将軍の候補として、「比企能員(ひきよしかず)」が一幡、「北条時政(ほうじょうときまさ)」が千幡を立て、争い、比企一族が滅亡した事件。

北条氏に排斥された内の一人。

同年:源頼家幽閉、源実朝が第3代将軍となる

「比企能員の変」で頼家は幽閉され、北条氏が「頼家は死んだ」と朝廷に虚偽の報告。

頼朝と政子の子・千幡が「源実朝(みなもとのさねとも)」として、鎌倉幕府、第3代征夷大将軍になりました。

同年:北条時政、初代執権に就任

時政が政所別当に就き、鎌倉幕府における専制を確立した建仁3年をもって「執権に就いた」と考えるそうです。

1204年:源頼家、謀殺

2代将軍・源頼家が、幽閉先の伊豆国修禅寺で殺害されました。『愚管抄』によると、入浴中に殺されたとのこと。

1205年:畠山重忠の乱

畠山重忠(はたけやましげただ)」が謀反の疑いをかけられ、友人「北条義時(ほうじょうよしとき)」の大軍と戦い、討ち取られた事件。

北条氏に排斥された内の一人。

同年:牧氏事件

北条時政と後妻「牧の方(まきのかた)」が3代将軍・実朝を廃し、娘婿「平賀朝雅(ひらがともまさ)」を新将軍にしよう画策した事件。

結局、北条政子と義時の反感を買い、時政と牧の方は伊豆に幽閉。朝雅は殺害されました。

同年:北条義時、第2代執権となる

牧氏事件で父・北条時政を追放した後、義時は政所別当の地位に就き、第2代執権となります。

1210年:土御門天皇譲位、順徳天皇即位

土御門天皇は穏やかな性格だったため「幕府と渡り合うのに、こいつじゃ不安だ」と感じた後鳥羽上皇は、彼に退位を迫り「順徳天皇(じゅんとくてんのう)」(在位1210-1221年)を即位させました(wikiより)。

(画像は順徳天皇 – Wikipediaより)

1212年:鴨長明による『方丈記』成立

(画像は方丈記 – Wikipediaより)

鴨長明(かものちょうめい)」による随筆。

(画像は鴨長明 – Wikipediaより)

「随筆(ずいひつ)」は、筆者の体験や知識などをもとに感じたことなどを、自由な形式でまとめた文章。『方丈記(ほうじょうき)』『枕草子(まくらのそうし)』『徒然草(つれづれぐさ)』が三大随筆と呼ばれています。

1213年:和田合戦

侍所別当「和田義盛(わだよしもり)」が、「泉親衡(いずみちかひら)」の陰謀に加担したとされ、身内が処罰されました。処分を決めた北条義時に対して兵を挙げるも、三浦氏の裏切りなどに合い、2日間で決着がついた戦い。

和田氏は滅亡し、和田義盛に代わり北条義時が侍所別当に就任。鎌倉幕府での執権の地位を確立します。

北条氏に排斥された内の一人。

1219年:源実朝、暗殺

3代将軍・実朝が、右大臣昇任を祝う鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の式典にて、2代将軍・頼家の子「公暁(くぎょう)」に殺害されました。ここで、源氏の正統が途絶えます。

その後、北条氏は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしますが、交渉決裂。

代わりに頼朝の遠縁から2歳の男の子を鎌倉に迎えました。彼が、後の第4代将軍「藤原頼経(ふじわらのよりつね)」。

その間、北条政子が将軍の代行をすることに。頼朝の死後、出家して尼となっていたため「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれます。

1220年:慈円による『愚管抄』成立

天台宗の僧「慈円(じえん)」が記した歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』。

(画像は慈円 – Wikipediaより)

初代「神武天皇(じんむてんのう)」から84代「順徳天皇(じゅんとくてんのう)」までの歴史を、「末法思想(まっぽうしそう)」と「道理(どうり)」の理念に基づいて述べた歴史書。

源頼朝の政治を評価し、後鳥羽上皇の暴走をいさめるために書かれたとも言われています。

1221年:順徳天皇譲位、仲恭天皇即位

「承久の乱」に参加するため、順徳天皇は4歳の第4皇子「仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)」(在位1221年)に譲位。

同年:承久の乱

史上初、朝廷と武家政権の争い。

勝利した鎌倉幕府側は西日本まで勢力を拡大し、朝廷の力は著しく低下。幕府は以降、朝廷の政治にも深く干渉するようになります。

同年:仲恭天皇廃位、後堀河天皇即位

「承久の乱」に敗れた朝廷側。

後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡島に流され、土御門上皇は自ら望んで土佐に。

仲恭天皇は廃位され、高倉天皇の第2皇子「後堀河天皇(ごほりかわてんのう)」(在位1221-1232年)が即位。

(画像は後堀河天皇 – Wikipediaより)

ちなみに、仲恭天皇の在位期間は78日で、最短記録とのこと。

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