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鎌倉時代の文化についてわかりやすく【12】過去に生きる公家、今を生きる武家

前回↓

鎌倉時代の年表【11】宝治合戦、三浦氏の最期1224~1333年

鎌倉時代1224~1333年あたりのできごとを、年表を使って説明します。歴代将軍、執権、天皇の入れ替わりと、北条氏にとって最後の邪魔者・三浦氏と戦った宝治合戦についても触れました。

に続いて、今回は「鎌倉時代-文化編-」です。

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鎌倉時代の文化①

鎌倉新仏教。

平安時代の国風文化を基盤に、武士や農民の価値観が加えられた文化。

宋や元など、大陸の新しい要素を取り込んだ文化。

庶民に文化が開かれ、育っていった時代。

世が武家政権となってしまったため、公家は文化においても過去に思いをはせる「懐古厨」となり、イケイケの武家は新しい文化を生み出していきます。

鎌倉新仏教

末法到来への不安、相次ぐ争乱に天災。民衆の心の支えとなったのは、それまでの旧仏教(天台宗・真言宗・etc)ではなく、新たに誕生した鎌倉六宗「(かまくらろくしゅう)」でした。

新仏教の特徴は
念仏・題目・坐禅から一つの教えを選ぶ「選択(せんちゃく)」、困難な修行を必要としない(※禅は除く)「易行(いぎょう)」、選択した教えをひたすら行う「専修(せんじゅ)」の3つ。

浄土宗(じょうどしゅう)

開祖:法然(ほうねん)
著書等:法然『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』

(画像は法然 – Wikipediaより)

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。ひたすら念仏だけを唱える「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を説く。

「ただ念仏を唱えさえすれば良い」という簡単な教えで、人気爆発。

そのせいで、旧仏教側から迫害を受け、1207年、後鳥羽上皇より「念仏停止の断」が下され、法然は土佐国(実際には讃岐国)へ配流となりました(10ヶ月後に赦され帰京)。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)

開祖:親鸞(しんらん)
著書等:親鸞『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、唯円『歎異抄(たんにしょう)』

(画像は親鸞 – Wikipediaより)

師である法然の教えを、親鸞が継承・展開。

「自分は悪人である」と自覚した者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であるという「悪人正機(あくにんしょうき)」思想を強調。

時宗(じしゅう)

開祖:一遍(いっぺん)
著書等:信条により、自著・所持書籍は死の直前に全て焼却

(画像は一遍 – Wikipediaより)

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記された札を配る「賦算(ふさん)」の旅に出る。空也にならい、念仏を唱えながら踊る「踊念仏(おどりねんぶつ)」も行うように。

臨済宗(りんざいしゅう)

開祖:栄西(えいさい)
著書等:栄西『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』、栄西『喫茶養生記(きっさようじょうき)』

(画像は明菴栄西 – Wikipediaより)

禅宗(ぜんしゅう)。「坐禅(ざぜん)」が修行の中心。

更に修行の課題として、師から「公案(こうあん)」と呼ばれる問を与えられ考え抜く「禅問答(ぜんもんどう)」など。

幕府(武士)に人気の仏教です。

曹洞宗(そうとうしゅう)

開祖:道元(どうげん)
著書等:道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』

(画像は道元 – Wikipediaより)

禅宗。ただひたすらに坐る「只管打坐(しかんたざ)」。

日蓮宗(にちれんしゅう)

開祖:日蓮(にちれん)
著書等:日蓮『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』

(画像は日蓮 – Wikipediaより)

題目「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を唱える。他宗教を激しく攻撃。

旧仏教の革新

旧仏教の中から、宗派改革を目指す動きもみられるように。

華厳宗(けごんしゅう)」の「明恵(みょうえ)」(高弁)は、京都栂尾(とがのお)に「高山寺(こうざんじ)」を開山。法然を批判した書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著しています。

法相宗(ほっそうしゅう)」の「貞慶(じょうけい)」(解脱)は、『興福寺奏状(こうふくじそうじょう)』で、法然の専修念仏を批判。

律宗(りっしゅう)」の「叡尊(えいぞん)」(思円)は、廃れていた奈良の西大寺(さいだいじ)を再興。蒙古撃退のための祈祷なども行っています。

叡尊の弟子「忍性(にんしょう)」(良観)は、奈良に「北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)」を建て、ハンセン病患者など重病者を救済しました。

伊勢神道

伊勢神宮外宮の神官「度会家行(わたらいいえゆき)」は、「日本の八百万の神々は、実は仏が神々の姿をかりて現れた」とする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)ので、「仏が神々の権化だ」とする「反本地垂迹説」を唱えます。

その思想を『類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)』にまとめ、「伊勢神道(いせしんとう)」を大成。

文学

和歌集

和歌を編集したもの。

山家集

武士の家に生まれ、出家した歌人「西行(さいぎょう)」による歌集『山家集(さんかしゅう)』。

(画像は西行 – Wikipediaより)
新古今和歌集

後鳥羽上皇が「藤原定家(ふじわらのさだいえ)」「藤原家隆(ふじわらのいえたか)」らに編纂させた勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう:天皇・上皇の命令で編纂された歌集)『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』。全20巻。

金槐和歌集

鎌倉幕府第3代将軍・源実朝による『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』。

万葉調と言われているが実際には少なく、古今調・新古今調の本歌取りが主だとか(wikiより)。

説話集

説話(せつわ:民話や伝説などの物語)を集めた作品。

十訓抄

若者の啓蒙を目的に編まれた教訓書『十訓抄(じっきんしょう)』。

宇治拾遺物語
(画像は宇治拾遺物語 – Wikipediaより)

日本、インド、中国の説話を集めた『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』。「わらしべ長者」や「こぶとりじいさん」などの原案も収録。

古今著聞集

「橘成季(たちばなのなりすえ)」によって編纂された『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』。

沙石集

「無住(むじゅう)」が編纂した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』。

随筆

筆者の体験や意見・思索・思想などをまとめた散文(定型をもたない普通の文章)。

方丈記

鴨長明(かものちょうめい)」による『方丈記(ほうじょうき)』。

(画像は鴨長明 – Wikipediaより)

晩年、京都の日野に庵(いおり:草ぶきの小屋)を結び、書き記した記録。

徒然草

吉田兼好(よしだけんこう)」(卜部兼好、兼好法師)が書いたとされる『徒然草(つれづれぐさ)』。

(画像は吉田兼好 – Wikipediaより)

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ

『徒然草』序段より

紀行

旅行中の体験などを記した文。

東関紀行

京都東山から鎌倉までの道中が描かれた『東関紀行(とうかんきこう)』。作者未詳。

海道記

京都から鎌倉、帰京までを描いた『海道記(かいどうき)』。

十六夜日記

所領紛争解決のため、京都から鎌倉への道中を描いた『十六夜日記(いざよいにっき)』。作者は女流歌人の「阿仏尼(あぶつに)」。

軍記物語

実際の合戦を題材にしていますが、虚構も交じっているそう。

和文体と漢文訓読文体が混ざった「和漢混淆文(わかんこんこうぶん)」が特徴。

保元物語
(画像は保元物語 – Wikipediaより)

「保元の乱(ほうげんのらん)」を描いた『保元物語(ほうげんものがたり)』。

平治物語

「平治の乱(へいじのらん)」を描いた『平治物語(へいじものがたり)』。

平家物語

平家の栄華と没落を描いた『平家物語(へいけものがたり)』。

盲目の僧「琵琶法師(びわほうし)」が琵琶を弾きながら語った「平曲(へいきょく)」としても有名。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。

平家物語 祇園精舎 – Wikibooks
源平盛衰記

『平家物語』の異本(同一原典に由来するが、文字や語句に相違がある本)の一つ『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』。

歴史

歴史を記述した書物。

水鏡

神武天皇から仁明天皇まで事件などを編年体(へんねんたい:年代順に出来事を記す方法)で記した『水鏡(みずかがみ)』

愚管抄

末法思想と道理に基づいて論述した、日本最古の歴史評論『愚管抄(ぐかんしょう)』。天台宗の僧侶「慈円(じえん)」による著。

吾妻鏡
(画像は吾妻鏡 – Wikipediaより)

1180年「以仁王(もちひとおう)」の挙兵から、第6代将軍「宗尊親王(むねたかしんのう)」が将軍職を解任され京へ送還される1266年までを、編年体で収録、日記の体裁で記した『吾妻鏡(あずまかがみ)』。

鎌倉幕府によって編纂されました(編纂当時の権力者は北条得宗家)。

元亨釈書

臨済宗の僧「虎関師錬(こかんしれん)」が著した、日本初の仏教史書元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』。

その他

『万葉集』の注釈書『万葉集註釈(まんようしゅうちゅうしゃく)』。

『日本書紀』の注釈書『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』。

「順徳天皇(じゅんとくてんのう)」による「有職故実(ゆうそくこじつ)」(朝廷の行事や儀式、先例の研究)の解説書『禁秘抄(きんぴしょう)』。

思想

朱子学(しゅしがく)』が伝来。

全ての事象は、万物の秩序・法則「理」と、万物を形作る物質「気」で説明されるとする。

後醍醐天皇と楠木正成の行動原理に、朱子学の思想がいくつもみられるそう(大義名分論)。

建築

大仏様

大陸式(中国南方)の雄大な建築様式「大仏様(だいぶつよう)」。貫(ぬき)と虹梁(こうりょう)を多用し、構造を強化。

挿肘木(さしひじき)」で屋根を支えます。

※左が通常の組み物、右が挿肘木
(画像は株式会社かとう設計より)
(画像は株式会社かとう設計より)
東大寺の再建

「平重衡(たいらのしげひら)」ら平氏軍がが、「南都焼討(なんとやきうち)」で焼いた東大寺を、僧の「重源(ちょうげん)」らが再建。

(画像は南大門|参拝のご案内|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページより)

禅宗様(唐様)

宋の建築技術「禅宗様(ぜんしゅうよう)」(唐様)。
全体的に細い部材を用い

 

柱と柱の間に組物を入れる「詰組(つめぐみ)」

(画像は寺院建築-禅宗様より)

垂木を放射状に置く「扇垂木(おうぎだるき)」

(画像はaceip.jpより)

上部が尖頭アーチ状の「花頭窓(かとうまど)」

(画像はtyanoyu.netより)

急勾配の屋根や「桟唐戸(さんからど)」、その他にも様々な特徴を持っています。

円覚寺舎利殿

宋から請来(しょうらい)した仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨の粒)を、鎌倉3代将軍・源実朝が安置したことに由来する「円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりでん)」。

(画像はおしらせ | 円覚寺より)

和様

平安時代以来の建築様式は「和様(わよう)」と呼ばれるようになります。

石山寺多宝塔

滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院「石山寺多宝塔(いしやまでらたほうとう)」。石山寺は文学作品にも度々登場し、特に紫式部と縁が深いそう。

(画像は石山寺 – Wikipediaより)
蓮華王院本堂

京都府京都市東山区にある「蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)」(三十三間堂)。元々は後白河上皇が建てた仏堂で、千手観音(蓮華王)像を安置。

(画像は蓮華王院 三十三間堂より)
(画像は国宝 千手観音坐像より)
(画像は国宝 千体千手観音立像より)

折衷様

和様に、大仏様や禅宗様の手法を取り入れた「折衷様(せちゅうよう)」。

観心寺金堂

大阪府河内長野市にある、高野山真言宗の寺院「観心寺金堂(かんしんじこんどう)」。

(画像は観心寺 – Wikipediaより)

武家造

(画像は武士の生活 | 世界の歴史まっぷより)

武士は「(たち)」を、支配に適した微高地などに構えました。
建築様式は、寝殿造を簡素化した「武家造(ぶけづくり)」。

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