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鎌倉時代の年表【11】宝治合戦、三浦氏の最期1224~1333年

前回↓

鎌倉時代についてわかりやすく【10】鎌倉幕府の終わり、後醍醐天皇の計画性

鎌倉時代の終わりについて説明します。持明院統と大覚寺統の両統が、交互に天皇を即位させた両統迭立。後醍醐天皇による複数回の討幕チャレンジは、悪党も味方に付け、鎌倉幕府滅亡。

に続いて、今回は「鎌倉時代-宝治合戦編-」です。

内容はほとんど説明しましたので、時代の流れをさらっと確認します。

鎌倉時代の年表③

まずは確認用の系図。

天皇系図

(画像は「天皇系図」宮内庁より)

鎌倉歴代将軍

(画像は鎌倉歴代将軍 | 家系図作成本舗より)

鎌倉幕府歴代執権

(画像は「鎌倉幕府歴代執権」家系図作成本舗より)

1224年:北条泰時、第3代執権となる

北条義時が急死、長男の「北条泰時(ほうじょうやすとき)」が第3代執権となります。

(画像は北条泰時 – Wikipediaより)

1225年:連署と評定衆の設置

執権の補佐役「連署(れんしょ)」と、「十三人の合議制」の進化版「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を設置。

1226年:藤原頼経が第4代将軍となる

3代将軍の源実朝が、1219年「公暁(くぎょう)」により暗殺され、源氏の正統(正しい系統・血筋)は途絶えました。

そこで、源頼朝の妹のひ孫にあたる2歳の男の子を迎え入れることに。摂家の九条家から連れてこられたので「摂家将軍(せっけしょうぐん)」と呼びます。

彼が第4代征夷大将軍「藤原頼経(ふじわらよりつね)」です。

(画像は藤原頼経 – Wikipediaより)

1232年:御成敗式目(貞永式目)を制定

51カ条で構成される、日本初の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」(貞永式目)を制定。

同年:後堀河天皇譲位、四条天皇即位

「承久の乱」で(北条氏を筆頭とする)鎌倉勢に敗れた、朝廷。

幕府により選ばれた「後堀河天皇(ごほりかわてんのう)」は、2歳の子「四条天皇(しじょうてんのう)」(在位1232-1242年)に譲位して院政を開始。

(画像は四条天皇 – Wikipediaより)

1242年:北条経時、第4代執権となる

3代執権・北条泰時が病死。孫の「北条経時(ほうじょうつねとき)」が、第4代執権となります。

同年:四条天皇崩御、後嵯峨天皇即位

四条天皇が12歳で急死、「後嵯峨天皇(ごさがてんのう)」(在位1242-1246年)が即位します。

(画像は後嵯峨天皇 – Wikipediaより)

1244年:藤原頼嗣が第5代将軍となる

4代将軍・頼経の子「藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)」が、6歳で第5代征夷大将軍となります。

彼も九条家出身の摂家将軍。

1246年:北条時頼、第5代執権となる

北条経時が早くも死去。弟の「北条時頼(ほうじょうときより)」が第5代執権となります。

(画像は北条時頼 – Wikipediaより)

同年:宮騒動

5代執権・北条時頼に対しての、反乱未遂事件。

北条氏の一門「名越光時(なごえみつとき)」が、4代将軍・藤原頼経と共に謀反を計画するも発覚し、未遂に終わった騒動。

光時は伊豆へ流され、頼経は京へ送還されました。

同年:後嵯峨天皇譲位、後深草天皇即位

後嵯峨天皇が4歳の子「後深草天皇(ごふかくさてんのう)」(在位1246-1260年)に譲位し、院政を開始。

(画像は後深草天皇 – Wikipediaより)

後深草天皇と、彼の弟「亀山天皇(かめやまてんのう)」が後に分裂。前回説明した「両統迭立(りょうとうてつりつ)」に繋がります。

1247年:宝治合戦

有力御家人の排斥を繰り返した北条氏。
残る勢力は三浦氏。

宮騒動以降、5代執権・北条時頼と「三浦泰村(みうらやすむら)」は緊張関係にありました。

ちなみに、「承久の乱」で後鳥羽上皇の計画をいち早く北条義時に伝え、和田義盛を裏切り襲撃の計画を北条義時に伝え、「三浦の犬は友を食らう」と言われた「三浦義村(みうらよしもら)」の次男が、三浦泰村です。

そんなある日、時頼の母方の祖父にあたる「安達景盛(あだちかげもり)」が、25年ぶりに高野山を下山。鎌倉へ戻ってきました。

景盛は時頼と何やら話し込み、現状に甘んじていた子の「安達義景(あだちよしかげ)」と孫の「安達泰盛(あだちやすもり)」らを叱ります。

安達氏による三浦氏の挑発開始。

実は、北条時頼と三浦泰村は”合戦の回避”を望んでいたようですが、安達氏と泰村の弟「三浦光村(みうらみつむら)」はバリバリやる気でした。

なんやかんやあって安達氏が三浦邸を襲撃し、開戦。他の御家人も加わって、鎌倉は混乱状態。

館に火を付けられた三浦泰村は「法華堂(ほっけどう)」へ向かいます。

しかし、弟・光村はまだ戦う気マンマンで、「永福寺で合流しましょう」と勧めましたが、既に兄には戦う意思なく。

兄は弟に、法華堂に来るよう命じます。

法華堂にある初代征夷大将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」の肖像画の前に集まった彼ら。少しばかり昔のことなど語り合った後、泰村は

先祖数代の手柄を思い出せば、たとえ子孫であろうとも、罰はその手柄に免じて許されるものである。なんといっても、義明以来四代の跡取りです。又、北条家とも親戚となって、政治にも外敵へも手伝ってきたのに、たった一つの告げ口で長年の親しみを忘れて、即刻処刑される恥を与えて来ました。恨みと悲しみとが合わさっています。後になって絶対思い出す事があるでしょう。但し、父の故駿河前司三浦義村は、一族内でも他の御家人でも大勢死罪に進言したり実行したりして、その子孫を滅ぼしてきました。その罪の報復を果てでしょうかね。今、冥途へ旅経つにあたって、必ずしも北条殿と怨むわけではありません
(吾妻鏡卅八巻宝治元年六月より)

と涙ながらに語り、最後は三浦一族、その他将軍派の御家人合わせて500人以上が自害しました(吾妻鏡&wikiより)。

宝治合戦(ほうじかっせん)」です。

三浦氏が滅亡し、得宗家に並ぶ有力御家人はいなくなりました。合議制による執権政治は終わり、得宗専制政治へ。

ちなみに、三浦光村は自分の顔を刀で削ったせいで、誰の首だかわからなかったそう。

1249年:引付衆の設置

5代執権・北条時頼が、評定衆の下で御家人の訴訟などを専門にサポートする「引付衆(ひきつけしゅう)」を設置。

1252年:宗尊親王が第6代将軍となる

5代将軍の藤原頼嗣が、4代将軍の父・頼経のゴタゴタ(北条氏討伐の陰謀)に巻き込まれ、将軍職を解任された後、鎌倉から追放。

後嵯峨天皇の第一皇子「宗尊親王(むねたかしんのう)」が第6代征夷大将軍となります(皇族としては初めて)。

1256年:北条長時、第6代執権となる

5代執権・時頼が病気になり、彼の息子・時宗が跡を継ぐまでの中継ぎとして、「北条長時(ほうじょうながとき)」が第6代執権となります。

しかし、途中で時頼が元気になったようで、実験は時頼が握りました(wikiより)。

1259年:後深草天皇譲位、亀山天皇即位

16歳の後深草天皇が熱病にかかったので、父・後嵯峨上皇の意思に従い、10歳の弟「亀山天皇(かめやまてんのう)」(在位1260-1274年)に譲位。

(画像は亀山天皇 – Wikipediaより)

しかしこの後、後深草に子ができます。更に亀山にも子ができ「皇統はどっちだ」で揉めた結果、「交互に即位させましょう」という状態になったのが両統迭立。

後深草の流れが「持明院統(じみょういんとう)」
亀山の流れが「大覚寺統(だいかくじとう)」

(画像は両統迭立 – Wikipediaより)

1264年:北条政村、第7代執権となる

6代執権・長時が病で出家したため、まだ14歳の時宗に代わり「北条政村(ほうじょうまさむら)」が、60歳で第7代執権となりました。

1266年:惟康親王が第7代将軍となる

6代将軍・宗尊親王の子「惟康親王(これやすしんのう)」が、3歳にして第7代征夷大将軍となります。

1268年:北条時宗、第8代執権となる

北条時宗(ほうじょうときむね)」が、18歳で第8代執権に就任。

(画像は北条時宗 – Wikipediaより)

1274年:文永の役

1度目の元寇(げんこう)、「文永の役(ぶんえいのえき)」。
「てつはう」や集団戦法に苦戦するも、なぜか元軍が撤退した戦い。

同年:亀山天皇譲位、後宇多天皇即位

亀山の大覚寺統

亀山天皇は第二皇子「後宇多天皇(ごうだてんのう)」(在位1274-1287年)に譲位し、院政を開始。

(画像は後宇多天皇 – Wikipediaより)

後宇多天皇は生後8か月の時点で後嵯峨上皇により立太子されていたため、「後嵯峨上皇は亀山推し」だったと考えられています。

後嵯峨上皇の崩御(1272年)後は、亀山が治天の君(実権を握っている上皇・天皇)に。

1275年:フビライは使節団を派遣、鎌倉は異国警固番役の強化

フビライは使節団を日本に送りましたが、北条時宗は使者5人を斬首。

蒙古襲来に備え、博多の警備「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」を強化しました。

1281年:弘安の役

2度目の元寇、「弘安の役(こうあんのえき)」。

博多は防御バッチリで、夜、神風(台風)が元の船を襲い、再び撤退。

1284年:北条貞時、第9代執権となる

北条時宗が病死。子の「北条貞時(ほうじょうさだとき)」が第9代執権となります。

(画像は北条貞時 – Wikipediaより)

1285年:霜月騒動

内管領(御内人のトップ兼得宗家の執事)の「平頼綱(たいらのよりつな)」と、8代・9代執権と外戚関係にあった(宝治合戦で三浦邸を襲った景盛の孫)有力御家人「安達泰盛(あだちやすもり)」、幕府の実力者による権力争い「霜月騒動(しもつきそうどう)」。

安達側が敗北。

1287年:後宇多天皇譲位、伏見天皇即位

後深草サイド、持明院統のターン。

幕府の交替命令で、後深草天皇の第二皇子「伏見天皇(ふしみてんのう)」(在位1287-1298年)が即位。

(画像は伏見天皇 – Wikipediaより)

1289年:久明親王が第8代将軍となる

後深草天皇の第六皇子「久明親王(ひらあきらしんのう)」が、第8代征夷大将軍となります。

1293年:鎮西探題の設置

西国(九州)の御家人を統括する「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」を設置。

同年:平禅門の乱

霜月騒動の結果、実権を握った平頼綱でしたが、頼綱は恐怖政治を行うようになったため、9代執権・貞時の命令で彼の邸宅を襲撃、頼綱は自害しました。「平禅門の乱(へいぜいもんのらん)」です。

1297年:永仁の徳政令

御家人の土地売買・質入の禁止、質流れした土地の無償返還などを命じた「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」。

根本的な解決になっていなかったので、御家人の不満は解消されず。

1298年:伏見天皇譲位、後伏見天皇即位

後深草の持明院統

伏見天皇が、第一皇子「後伏見天皇(ごふしみてんのう)」(在位1298-1301年)に譲位し、院政を開始。

(画像は後伏見天皇 – Wikipediaより)

1301年:北条師時、第10代執権となる

9代執権・貞時が出家し、彼の子・高時が成人するまでの中継ぎとして「北条師時(ほうじょうもろとき)」が第10代執権となります。

幕府の実権は、貞時が握っていました(wikiより)。

同年:後伏見天皇譲位、後二条天皇即位

亀山の大覚寺統

2代連続だったこともあり、幕府から圧力をかけられた持明院統は、大覚寺統に治天を渡します。

後伏見天皇が譲位し、後宇多天皇の第一皇子「後二条天皇(ごにじょうてんのう)」(在位1301-1308年)が即位。

(画像は後二条天皇 – Wikipediaより)

1308年:後二条天皇崩御、花園天皇即位

後深草の持明院統

大覚寺統の後二条天皇が急死したため、持明院統の伏見天皇の第四皇子「花園天皇(はなぞのてんのう)」(在位1308-1318年)が即位。

(画像は花園天皇 – Wikipediaより)

同年:守邦親王が第9代将軍となる

8代将軍・久明親王の子「守邦親王(もりくにしんのう)」が、8歳で第9代征夷大将軍となります。

1311年:北条宗宣、第11代執権となる

10代執権の師時が死去、連署から昇格し「北条宗宣(ほうじょうむねのぶ)」が第11代執権となります。

ただ、実権を握っていたのは内管領(得宗家の執事で、御内人の筆頭)の「長崎円喜(ながさきえんき)」だそう(wikiより)。

1312年:北条煕時、第12代執権となる

11代執権の宗宣が出家、連署から昇格し「北条煕時(ほうじょうひろとき)」が第12代執権となります。

11代目と同じく、実権は「内管領(うちのかんれい)」の長崎円喜に握られていたそう(wikiより)。

1315年:北条基時、第13代執権となる

12代執権の煕時が病気で辞任、「北条基時(ほうじょうもととき)」が第13代執権となります。

(画像は北条基時 – Wikipediaより)

1316年:北条高時、第14代執権となる

数人の中継ぎを経て、9代執権・貞時の三男「北条高時(ほうじょうたかとき)」が第14代執権となります。

(画像は北条高時 – Wikipediaより)

1317年:文保の和談

天皇が交互に即位する「両統迭立」について話し合われた「文保の和談(ぶんぽうのわだん)」。近年では「両者の合意は成されていなかった」という見解が主流だそう(wikiより)。

1318年:花園天皇譲位、後醍醐天皇即位

亀山の大覚寺統

持明院統の花園天皇が譲位し、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」(在位1318-1339年)が即位。

(画像は後醍醐天皇 – Wikipediaより)

1324年:正中の変

後醍醐天皇による1度目の討幕計画正中の変(しょうちゅうのへん)」。計画はバレましたが、天皇への処罰は無し。

1326年:北条貞顕、第15代執権となる

14代執権の高時が出家。後継者問題で若干の争いを経て、とりあえずの中継ぎとして「北条貞顕(ほうじょうさだあき)」が第15代執権となります(3月)。

(画像は北条貞顕 – Wikipediaより)

1326年:北条守時、第16代執権となる

引付衆一番頭人「北条守時(ほうじょうもりとき)」が、第16代執権となります(4月)。

実権は、14代執権の高時、長崎円喜の子で内管領の「長崎高資(ながさきたかすけ)」らに握られていたそう(wikiより)。

1331年:元弘の変

後醍醐天皇による2度目の倒幕「元弘の変(げんこうのへん)」。

河内の悪党「楠木正成(くすのきまさしげ)」らが加勢しますが敗北。後醍醐天皇は隠岐島に流されました。

1333年:鎌倉幕府滅亡

※滅亡に至る詳細は、次回「室町時代(建武の新政含む)編」で説明予定です。

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