前回↓
鎌倉時代の終わりについて説明します。持明院統と大覚寺統の両統が、交互に天皇を即位させた両統迭立。後醍醐天皇による複数回の討幕チャレンジは、悪党も味方に付け、鎌倉幕府滅亡。
に続いて、今回は「鎌倉時代-宝治合戦編-」です。
内容はほとんど説明しましたので、時代の流れをさらっと確認します。
- 鎌倉時代の年表③
- 天皇系図
- 鎌倉歴代将軍
- 鎌倉幕府歴代執権
- 1224年:北条泰時、第3代執権となる
- 1225年:連署と評定衆の設置
- 1226年:藤原頼経が第4代将軍となる
- 1232年:御成敗式目(貞永式目)を制定
- 同年:後堀河天皇譲位、四条天皇即位
- 1242年:北条経時、第4代執権となる
- 同年:四条天皇崩御、後嵯峨天皇即位
- 1244年:藤原頼嗣が第5代将軍となる
- 1246年:北条時頼、第5代執権となる
- 同年:宮騒動
- 同年:後嵯峨天皇譲位、後深草天皇即位
- 1247年:宝治合戦
- 1249年:引付衆の設置
- 1252年:宗尊親王が第6代将軍となる
- 1256年:北条長時、第6代執権となる
- 1259年:後深草天皇譲位、亀山天皇即位
- 1264年:北条政村、第7代執権となる
- 1266年:惟康親王が第7代将軍となる
- 1268年:北条時宗、第8代執権となる
- 1274年:文永の役
- 同年:亀山天皇譲位、後宇多天皇即位
- 1275年:フビライは使節団を派遣、鎌倉は異国警固番役の強化
- 1281年:弘安の役
- 1284年:北条貞時、第9代執権となる
- 1285年:霜月騒動
- 1287年:後宇多天皇譲位、伏見天皇即位
- 1289年:久明親王が第8代将軍となる
- 1293年:鎮西探題の設置
- 同年:平禅門の乱
- 1297年:永仁の徳政令
- 1298年:伏見天皇譲位、後伏見天皇即位
- 1301年:北条師時、第10代執権となる
- 同年:後伏見天皇譲位、後二条天皇即位
- 1308年:後二条天皇崩御、花園天皇即位
- 同年:守邦親王が第9代将軍となる
- 1311年:北条宗宣、第11代執権となる
- 1312年:北条煕時、第12代執権となる
- 1315年:北条基時、第13代執権となる
- 1316年:北条高時、第14代執権となる
- 1317年:文保の和談
- 1318年:花園天皇譲位、後醍醐天皇即位
- 1324年:正中の変
- 1326年:北条貞顕、第15代執権となる
- 1326年:北条守時、第16代執権となる
- 1331年:元弘の変
- 1333年:鎌倉幕府滅亡
鎌倉時代の年表③
まずは確認用の系図。
天皇系図
鎌倉歴代将軍
鎌倉幕府歴代執権
1224年:北条泰時、第3代執権となる
北条義時が急死、長男の「北条泰時(ほうじょうやすとき)」が第3代執権となります。
1225年:連署と評定衆の設置
執権の補佐役「連署(れんしょ)」と、「十三人の合議制」の進化版「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を設置。
1226年:藤原頼経が第4代将軍となる
3代将軍の源実朝が、1219年「公暁(くぎょう)」により暗殺され、源氏の正統(正しい系統・血筋)は途絶えました。
そこで、源頼朝の妹のひ孫にあたる2歳の男の子を迎え入れることに。摂家の九条家から連れてこられたので「摂家将軍(せっけしょうぐん)」と呼びます。
彼が第4代征夷大将軍「藤原頼経(ふじわらよりつね)」です。
1232年:御成敗式目(貞永式目)を制定
51カ条で構成される、日本初の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」(貞永式目)を制定。
同年:後堀河天皇譲位、四条天皇即位
「承久の乱」で(北条氏を筆頭とする)鎌倉勢に敗れた、朝廷。
幕府により選ばれた「後堀河天皇(ごほりかわてんのう)」は、2歳の子「四条天皇(しじょうてんのう)」(在位1232-1242年)に譲位して院政を開始。
1242年:北条経時、第4代執権となる
3代執権・北条泰時が病死。孫の「北条経時(ほうじょうつねとき)」が、第4代執権となります。
同年:四条天皇崩御、後嵯峨天皇即位
四条天皇が12歳で急死、「後嵯峨天皇(ごさがてんのう)」(在位1242-1246年)が即位します。
1244年:藤原頼嗣が第5代将軍となる
4代将軍・頼経の子「藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)」が、6歳で第5代征夷大将軍となります。
彼も九条家出身の摂家将軍。
1246年:北条時頼、第5代執権となる
北条経時が早くも死去。弟の「北条時頼(ほうじょうときより)」が第5代執権となります。
同年:宮騒動
5代執権・北条時頼に対しての、反乱未遂事件。
北条氏の一門「名越光時(なごえみつとき)」が、4代将軍・藤原頼経と共に謀反を計画するも発覚し、未遂に終わった騒動。
光時は伊豆へ流され、頼経は京へ送還されました。
同年:後嵯峨天皇譲位、後深草天皇即位
後嵯峨天皇が4歳の子「後深草天皇(ごふかくさてんのう)」(在位1246-1260年)に譲位し、院政を開始。
後深草天皇と、彼の弟「亀山天皇(かめやまてんのう)」が後に分裂。前回説明した「両統迭立(りょうとうてつりつ)」に繋がります。
1247年:宝治合戦
有力御家人の排斥を繰り返した北条氏。
残る勢力は三浦氏。
宮騒動以降、5代執権・北条時頼と「三浦泰村(みうらやすむら)」は緊張関係にありました。
ちなみに、「承久の乱」で後鳥羽上皇の計画をいち早く北条義時に伝え、和田義盛を裏切り襲撃の計画を北条義時に伝え、「三浦の犬は友を食らう」と言われた「三浦義村(みうらよしもら)」の次男が、三浦泰村です。
そんなある日、時頼の母方の祖父にあたる「安達景盛(あだちかげもり)」が、25年ぶりに高野山を下山。鎌倉へ戻ってきました。
景盛は時頼と何やら話し込み、現状に甘んじていた子の「安達義景(あだちよしかげ)」と孫の「安達泰盛(あだちやすもり)」らを叱ります。
安達氏による三浦氏の挑発開始。
実は、北条時頼と三浦泰村は”合戦の回避”を望んでいたようですが、安達氏と泰村の弟「三浦光村(みうらみつむら)」はバリバリやる気でした。
なんやかんやあって安達氏が三浦邸を襲撃し、開戦。他の御家人も加わって、鎌倉は混乱状態。
館に火を付けられた三浦泰村は「法華堂(ほっけどう)」へ向かいます。
しかし、弟・光村はまだ戦う気マンマンで、「永福寺で合流しましょう」と勧めましたが、既に兄には戦う意思なく。
兄は弟に、法華堂に来るよう命じます。
法華堂にある初代征夷大将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」の肖像画の前に集まった彼ら。少しばかり昔のことなど語り合った後、泰村は
「先祖数代の手柄を思い出せば、たとえ子孫であろうとも、罰はその手柄に免じて許されるものである。なんといっても、義明以来四代の跡取りです。又、北条家とも親戚となって、政治にも外敵へも手伝ってきたのに、たった一つの告げ口で長年の親しみを忘れて、即刻処刑される恥を与えて来ました。恨みと悲しみとが合わさっています。後になって絶対思い出す事があるでしょう。但し、父の故駿河前司三浦義村は、一族内でも他の御家人でも大勢死罪に進言したり実行したりして、その子孫を滅ぼしてきました。その罪の報復を果てでしょうかね。今、冥途へ旅経つにあたって、必ずしも北条殿と怨むわけではありません」
(吾妻鏡卅八巻宝治元年六月より)
と涙ながらに語り、最後は三浦一族、その他将軍派の御家人合わせて500人以上が自害しました(吾妻鏡&wikiより)。
「宝治合戦(ほうじかっせん)」です。
三浦氏が滅亡し、得宗家に並ぶ有力御家人はいなくなりました。合議制による執権政治は終わり、得宗専制政治へ。
ちなみに、三浦光村は自分の顔を刀で削ったせいで、誰の首だかわからなかったそう。
1249年:引付衆の設置
5代執権・北条時頼が、評定衆の下で御家人の訴訟などを専門にサポートする「引付衆(ひきつけしゅう)」を設置。
1252年:宗尊親王が第6代将軍となる
5代将軍の藤原頼嗣が、4代将軍の父・頼経のゴタゴタ(北条氏討伐の陰謀)に巻き込まれ、将軍職を解任された後、鎌倉から追放。
後嵯峨天皇の第一皇子「宗尊親王(むねたかしんのう)」が第6代征夷大将軍となります(皇族としては初めて)。
1256年:北条長時、第6代執権となる
5代執権・時頼が病気になり、彼の息子・時宗が跡を継ぐまでの中継ぎとして、「北条長時(ほうじょうながとき)」が第6代執権となります。
しかし、途中で時頼が元気になったようで、実験は時頼が握りました(wikiより)。
1259年:後深草天皇譲位、亀山天皇即位
16歳の後深草天皇が熱病にかかったので、父・後嵯峨上皇の意思に従い、10歳の弟「亀山天皇(かめやまてんのう)」(在位1260-1274年)に譲位。
しかしこの後、後深草に子ができます。更に亀山にも子ができ「皇統はどっちだ」で揉めた結果、「交互に即位させましょう」という状態になったのが両統迭立。
後深草の流れが「持明院統(じみょういんとう)」
亀山の流れが「大覚寺統(だいかくじとう)」
1264年:北条政村、第7代執権となる
6代執権・長時が病で出家したため、まだ14歳の時宗に代わり「北条政村(ほうじょうまさむら)」が、60歳で第7代執権となりました。
1266年:惟康親王が第7代将軍となる
6代将軍・宗尊親王の子「惟康親王(これやすしんのう)」が、3歳にして第7代征夷大将軍となります。
1268年:北条時宗、第8代執権となる
「北条時宗(ほうじょうときむね)」が、18歳で第8代執権に就任。
1274年:文永の役
1度目の元寇(げんこう)、「文永の役(ぶんえいのえき)」。
「てつはう」や集団戦法に苦戦するも、なぜか元軍が撤退した戦い。
同年:亀山天皇譲位、後宇多天皇即位
亀山の大覚寺統。
亀山天皇は第二皇子「後宇多天皇(ごうだてんのう)」(在位1274-1287年)に譲位し、院政を開始。
後宇多天皇は生後8か月の時点で後嵯峨上皇により立太子されていたため、「後嵯峨上皇は亀山推し」だったと考えられています。
後嵯峨上皇の崩御(1272年)後は、亀山が治天の君(実権を握っている上皇・天皇)に。
1275年:フビライは使節団を派遣、鎌倉は異国警固番役の強化
フビライは使節団を日本に送りましたが、北条時宗は使者5人を斬首。
蒙古襲来に備え、博多の警備「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」を強化しました。
1281年:弘安の役
2度目の元寇、「弘安の役(こうあんのえき)」。
博多は防御バッチリで、夜、神風(台風)が元の船を襲い、再び撤退。
1284年:北条貞時、第9代執権となる
北条時宗が病死。子の「北条貞時(ほうじょうさだとき)」が第9代執権となります。
1285年:霜月騒動
内管領(御内人のトップ兼得宗家の執事)の「平頼綱(たいらのよりつな)」と、8代・9代執権と外戚関係にあった(宝治合戦で三浦邸を襲った景盛の孫)有力御家人「安達泰盛(あだちやすもり)」、幕府の実力者による権力争い「霜月騒動(しもつきそうどう)」。
安達側が敗北。
1287年:後宇多天皇譲位、伏見天皇即位
後深草サイド、持明院統のターン。
幕府の交替命令で、後深草天皇の第二皇子「伏見天皇(ふしみてんのう)」(在位1287-1298年)が即位。
1289年:久明親王が第8代将軍となる
後深草天皇の第六皇子「久明親王(ひらあきらしんのう)」が、第8代征夷大将軍となります。
1293年:鎮西探題の設置
西国(九州)の御家人を統括する「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」を設置。
同年:平禅門の乱
霜月騒動の結果、実権を握った平頼綱でしたが、頼綱は恐怖政治を行うようになったため、9代執権・貞時の命令で彼の邸宅を襲撃、頼綱は自害しました。「平禅門の乱(へいぜいもんのらん)」です。
1297年:永仁の徳政令
御家人の土地売買・質入の禁止、質流れした土地の無償返還などを命じた「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」。
根本的な解決になっていなかったので、御家人の不満は解消されず。
1298年:伏見天皇譲位、後伏見天皇即位
後深草の持明院統。
伏見天皇が、第一皇子「後伏見天皇(ごふしみてんのう)」(在位1298-1301年)に譲位し、院政を開始。
1301年:北条師時、第10代執権となる
9代執権・貞時が出家し、彼の子・高時が成人するまでの中継ぎとして「北条師時(ほうじょうもろとき)」が第10代執権となります。
幕府の実権は、貞時が握っていました(wikiより)。
同年:後伏見天皇譲位、後二条天皇即位
亀山の大覚寺統。
2代連続だったこともあり、幕府から圧力をかけられた持明院統は、大覚寺統に治天を渡します。
後伏見天皇が譲位し、後宇多天皇の第一皇子「後二条天皇(ごにじょうてんのう)」(在位1301-1308年)が即位。
1308年:後二条天皇崩御、花園天皇即位
後深草の持明院統。
大覚寺統の後二条天皇が急死したため、持明院統の伏見天皇の第四皇子「花園天皇(はなぞのてんのう)」(在位1308-1318年)が即位。
同年:守邦親王が第9代将軍となる
8代将軍・久明親王の子「守邦親王(もりくにしんのう)」が、8歳で第9代征夷大将軍となります。
1311年:北条宗宣、第11代執権となる
10代執権の師時が死去、連署から昇格し「北条宗宣(ほうじょうむねのぶ)」が第11代執権となります。
ただ、実権を握っていたのは内管領(得宗家の執事で、御内人の筆頭)の「長崎円喜(ながさきえんき)」だそう(wikiより)。
1312年:北条煕時、第12代執権となる
11代執権の宗宣が出家、連署から昇格し「北条煕時(ほうじょうひろとき)」が第12代執権となります。
11代目と同じく、実権は「内管領(うちのかんれい)」の長崎円喜に握られていたそう(wikiより)。
1315年:北条基時、第13代執権となる
12代執権の煕時が病気で辞任、「北条基時(ほうじょうもととき)」が第13代執権となります。
1316年:北条高時、第14代執権となる
数人の中継ぎを経て、9代執権・貞時の三男「北条高時(ほうじょうたかとき)」が第14代執権となります。
1317年:文保の和談
天皇が交互に即位する「両統迭立」について話し合われた「文保の和談(ぶんぽうのわだん)」。近年では「両者の合意は成されていなかった」という見解が主流だそう(wikiより)。
1318年:花園天皇譲位、後醍醐天皇即位
亀山の大覚寺統。
持明院統の花園天皇が譲位し、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」(在位1318-1339年)が即位。
1324年:正中の変
後醍醐天皇による1度目の討幕計画「正中の変(しょうちゅうのへん)」。計画はバレましたが、天皇への処罰は無し。
1326年:北条貞顕、第15代執権となる
14代執権の高時が出家。後継者問題で若干の争いを経て、とりあえずの中継ぎとして「北条貞顕(ほうじょうさだあき)」が第15代執権となります(3月)。
1326年:北条守時、第16代執権となる
引付衆一番頭人「北条守時(ほうじょうもりとき)」が、第16代執権となります(4月)。
実権は、14代執権の高時、長崎円喜の子で内管領の「長崎高資(ながさきたかすけ)」らに握られていたそう(wikiより)。
1331年:元弘の変
後醍醐天皇による2度目の倒幕「元弘の変(げんこうのへん)」。
河内の悪党「楠木正成(くすのきまさしげ)」らが加勢しますが敗北。後醍醐天皇は隠岐島に流されました。
1333年:鎌倉幕府滅亡
※滅亡に至る詳細は、次回「室町時代(建武の新政含む)編」で説明予定です。
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