平安時代についてわかりやすく【7】源氏と平氏ってどこからきた誰?

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平安時代についてわかりやすく【6】荘園公領制と武士の関係、課税対象の変化

平安時代、ついに律令制度が崩壊。私的な荘園と公的な公領に分かれ、人頭税から土地税へ。土地を守るため武士団が形成され、貴族・朝廷の下でさぶらう者は徐々に勢力を増していきます。

に続いて、今回は「平安時代-源氏と平氏編-」です。

武家の二大棟梁「源氏」と「平氏」。今回は源氏と平氏をざっくり説明し、源平合戦手前あたりまでの流れをみていきます。

平氏(平家)

「平」の”姓”を賜った一族のうち、朝廷に仕えた者を「平家」と呼ぶそうです。

地方に散らばった平氏は、その地(自身の領地)の名前を”名字”として名乗りました。ややこしいので、今回は基本全て平氏でいきます。

桓武平氏系図

(画像は「桓武平氏の系図」家系図作成本舗より)
(画像は「桓武平氏系図-大河ドラマ『平清盛』」大河ドラマ『真田丸』『花燃ゆ』あらすじ&解説より)

承平・天慶の乱

時代を少し戻し、939年「承平・天慶の乱」からみていきます。

承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」は、同時期に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」と「藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)」の総称。承平、天慶の元号から、こう呼ばれます。

平将門の乱

武士が起こした初のクーデター「平将門の乱」。武士政権へのターニングポイントです。

平将門(たいらのまさかど)」は関東の豪族、「桓武平氏(かんむへいし)」の一族。

(画像は平将門 – Wikipediaより)

桓武天皇の孫(もしくはひ孫)の「高望王(たかもちおう)」が、宇多天皇の勅命で「」の姓を賜り、皇族から臣籍降下

彼が「平氏の祖」となった人物です。

上総国(かずさのくに)」の国司に任じられた彼は、長男の「国香(くにか)」、次男の「良兼(よしかね)」、三男の「良将(よしまさ)」を連れて任地へ。

(画像は上総国 – Wikipediaより)

彼らは現地の勢力と関わりながら土地を開拓し、武士団を形成。高望の子らも各地の領主となり、基盤を固めていきます。

平将門は、高望王の三男、良将の子として生まれました。

朝廷で中級官人として働いていましたが、父の死がきっかけで国へ帰ってみると、叔父の国香良兼土地を支配されていました。

935年、将門は「常陸国(ひたちのくに)」で、叔父の国香を殺害

939年、常陸国の豪族「藤原玄明(ふじわらのはるあき)」が、「下総国(しもうさのくに)」の豪族だった将門を頼ってきたことで事態は複雑に。

藤原玄明には逮捕令が出されていたようで、将門は国司から彼の引き渡しを迫られますが、それを無視。玄明をかくまいます。さらに常陸国を攻めた将門でしたが、約3倍の軍勢に勝利。国司の証である「印綬(いんじゅ)」を取り上げ、「象徴的に朝廷から常陸国を奪い取る」かたちに。

朝廷にケンカを売った将門は、「下野(しもつけ)」「上野(こうずけ)」と攻め落とし、東国を支配下に置きます。さらに将門は自らを「親王(しんのう)」(新しい天皇)と名乗るように。

それに対して、朝廷はぶち切れ。

同じ頃、瀬戸内海で藤原純友の乱が起こります。右から左からヤバイ奴等が反乱を起こし、危機を感じた朝廷は策を講じます。「将門を倒した者を、貴族にしてやろう」というもの。

当時、荘園の増加により、各地に名も無い武士が増えていました。彼らを利用しようと考えたわけです。

一番に立ち上がったのが、将門が殺害した国香の子、つまり将門の従兄弟(いとこ)にあたる「平貞盛(たいらのさだもり)」です。

ちょうどその時期、田植えの準備?のために、将門は兵士を帰郷させていました。平貞盛と叔父の「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」連合軍に対して、兵士の数で圧倒的に負けていた将門は苦戦。

940年3月25日(天慶3年2月14日)、敵の放った鏑矢(かぶらや)が将門に命中、彼は息を引き取りました。

これが「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」です。

藤原純友の乱

元・伊予の国司だった「藤原純友(ふじわらのすみとも)」。彼は瀬戸内海の海賊討伐にあたっていました。

(画像は藤原純友 – Wikipediaより)
(画像は伊予国 – Wikipediaより)

しかし、何故か逆に、彼自身が海賊を率いて反乱を起こす事態に。支配地域を拡大し、東は淡路国西は大宰府まで手中に収めます。

「平将門の乱」の件もあり、朝廷に衝撃が走ります。やがて「小野好古(おののよしふる)」、清和源氏の初代「源経基(みなもとのつねもと)」らによって鎮圧。

これが「藤原純友の乱(ふじわらすみとものらん)」です。

承平・天慶の乱では、武士が活躍しました。

平氏まとめ

桓武天皇の子孫「桓武平氏(かんむへいし)」をまとめます。

「平将門の乱」で平将門を倒した、従兄弟の平貞盛。彼の四男「維衡(これひら)」は、伊勢で起こった同属とのいざこざを経て「伊勢平氏の祖」となります。

彼のひ孫?が「平正盛(たいらのまさもり)」。子の「平忠盛(たいらのただもり)」、孫の「平清盛(たいらのきよもり)」ときて、清盛は太政大臣まで上りつめ「平氏政権」を確立します。

「平家にあらずんば人にあらず」というほど、強大な力を得ることに。

源氏

お次は源氏。

清和源氏系図

(画像は「清和源氏の系図」家系図作成本舗より)

源氏の登場

平氏ときたら源氏。
清和源氏(せいわげんじ)」の登場です。

清和天皇の皇子から4人、孫から12人が「(みなもと)」のを賜い臣籍降下

孫の一人「源経基(みなもとのつねもと)」が、941年「藤原純友の乱」で小野好古と共に鎮圧にあたります。が、どうも彼自身はあまり活躍できなかったそう。

(画像は源経基 – Wikipediaより)

彼が「清和源氏」の祖です。

彼の息子「源満仲(みなもとのみつなか)」が、以前紹介した「安和の変」のきっかけをつくり、藤原北家摂関政治確立に協力摂関家の侍として、共に上っていきました。

やがて、「摂津国」に武士団を形成。
摂津源氏(多田源氏)」となり、摂関家に仕えて勢力を拡大。

長男の「源頼光(よりみつ)」は、藤原兼家、藤原道長、藤原頼通らの侍として仕えます。

三男の「源頼信(みなもとのよりのぶ)」は、藤原道兼、藤原道長らに仕えました。「平忠常の乱」では恐れられる存在だったとか。

(画像は源頼信 – Wikipediaより)

平忠常の乱

1028年平氏のホームである東国で反乱が起きました。

もと上総国の国司で、将門を母方の祖父にもつ「平忠常(たいらのただつね)」が、勢力拡大のため国衙などを襲い反乱を起こします。

朝廷は平直方に追討を命じますが失敗。敵地を燃やしながら攻める焦土戦と戦いの長期化で、東国は悲惨な状況に。次に選ばれたのが「源頼信」。

すると平忠常は、戦わずしてあっさり降伏。頼信最強伝説、うわさがすごかったようです。

これが「平忠常の乱(たいらのただつねのらん)」。

これがきっかけで、清和源氏東国へ進出。やがて「東は源氏」「西は平氏」の構図に。また、頼信は「河内国」を本拠地とする「河内源氏(かわちげんじ)」の祖となります。

前九年合戦(前九年の役)

1051~1062年まで、東北の太平洋側にある「陸奥国(むつのくに)」で起きた戦争。

(画像は陸奥国 – Wikipediaより)

九年と言いながら実際は12年で、古事記などにも12年と書かれており「奥州十二年合戦」とも呼ばれるそう。しかし『太平記』などには「前九年の役」と書かれており、それが一般化したのだとか。

陸奥国にもともと土着していた豪族で、以前説明した「俘囚(朝廷に従属したもと蝦夷)」長の「安倍頼時(あべのよりとき)」が、11世紀半ば頃から租税を納めなくなります。

そこで朝廷は、陸奥守の「藤原登任(ふじわらのなりとう)」と兵を送りますが、敗北

ここで河内源氏の登場。朝廷は頼信の子「源頼義(みなもとのよりよし)」を新たに陸奥守として任命。

(画像は源頼義 – Wikipediaより)

途中、子の「源義家(よしいえ)」などが活躍。出羽国の豪族「清原武則(きよはらのたけのり)」からは、約1万の兵の協力を得ました。

(画像は源義家 – Wikipediaより)
(画像は出羽国 – Wikipediaより)

12年に及ぶ戦いを経て、安倍一族を処刑・捕縛し、戦いは終結。

これが「前九年合戦(ぜんくねんかっせん)」です。

後三年合戦(後三年の役)

1083年後三年合戦(ごさんねんかっせん)」。

1051年に始まった「前九年合戦」では、出羽国の豪族「清原武則」の協力を受け、戦いを有利にするめることができました。

戦いの後、清原武則の子「武貞(たけさだ)」は、処刑された「藤原経清(ふじわらのつねきよ)」の妻を自分の妻とします

そのときの、彼女の連れ子が「清原清衡(きよはらのきよひら)」。

彼が、後に「奥州藤原氏の初代当主」となる「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」です。

(画像は藤原清衡 – Wikipediaより)

武貞と彼女の間に「家衡(いえひら)」が生まれると、清衡(連れ子)と家衡の間に、土地をめぐる内紛が起きます。

そのとき清衡が助けを求めたのが、「源義家(みなもとのよしいえ)」。兵糧攻めの末、家衡らを討ち取り、1086年12月に戦いが終結(wikiより)。これが「後三年合戦」です。

戦いの後、朝廷は「私的な戦」として源義家に恩賞を与えませんでしたが、義家はきちんと協力した東国の武士に恩賞を支払います。

東国における源氏人気が爆発。荘園の寄進も増加。東国武士団の棟梁として、後の鎌倉幕府へつながる土台となります。

一方、清原清衡は「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」と名乗り、平泉を中心とする東北地方一帯に勢力を拡大。金や馬などの産物によって、摂関家や院とのつながりを保ち「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」として「清衡(きよひら)」「基衡(もとひら)」「秀衡(ひでひら)」の3代にわたって繁栄しました。

しかし1189年(鎌倉時代)、奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされます。

源氏まとめ

清和天皇から「」の姓を賜って臣籍降下した清和源氏

1028年の「平忠常の乱」にて、戦わずして屈服させた源頼信。「後三年合戦」で活躍するも”私的な戦”として恩賞が貰えず、自腹を切って東国武士から絶大な人気を得た源義家

※源平合戦など後で詳しく書きますので、今はさっとまとめます。

やがて彼の子、「源義親(みなもとのよしちか)」が反乱。「源義親の乱」を起こし、平正盛らによって鎮圧。平氏が台頭する一方で、河内源氏は大きく凋落しました。

その義親の子が「源為義(みなもとのためよし)」。彼はもともと、白河・鳥羽上皇に仕えていましたが、度重なる不祥事で役職を辞任。その後、摂関家である藤原氏に接近します。

源氏の地位が著しく低迷する中、為義は自身の子でまだ少年だった「源義朝(みなもとのよしとも)」を東国へと送ります。義朝少年は、東国武士の強さを間近に感じながら成長。

ある時、税収をめぐる役人と武士の争いに介入。多くの武士が義朝に従います。その後も勢力を拡大、都にも名が知られるようになり、ついに中央へ進出。

保元の乱」「平治の乱」を経て、息子の「源頼朝(みなもとのよりとも)」へと思いは受け継がれ、源平合戦を経て鎌倉幕府成立!という流れです。

平安時代の続き>平安時代「院政編」

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