前回↓
平安時代、ついに律令制度が崩壊。私的な荘園と公的な公領に分かれ、人頭税から土地税へ。土地を守るため武士団が形成され、貴族・朝廷の下でさぶらう者は徐々に勢力を増していきます。
に続いて、今回は「平安時代-源氏と平氏編-」です。
武家の二大棟梁「源氏」と「平氏」。今回は源氏と平氏をざっくり説明し、源平合戦手前あたりまでの流れをみていきます。
平氏(平家)
「平」の”姓”を賜った一族のうち、朝廷に仕えた者を「平家」と呼ぶそうです。
地方に散らばった平氏は、その地(自身の領地)の名前を”名字”として名乗りました。ややこしいので、今回は基本全て平氏でいきます。
桓武平氏系図
承平・天慶の乱
時代を少し戻し、939年「承平・天慶の乱」からみていきます。
「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」は、同時期に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」と「藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)」の総称。承平、天慶の元号から、こう呼ばれます。
平将門の乱
武士が起こした初のクーデター「平将門の乱」。武士政権へのターニングポイントです。
「平将門(たいらのまさかど)」は関東の豪族、「桓武平氏(かんむへいし)」の一族。
桓武天皇の孫(もしくはひ孫)の「高望王(たかもちおう)」が、宇多天皇の勅命で「平」の姓を賜り、皇族から臣籍降下。
彼が「平氏の祖」となった人物です。
「上総国(かずさのくに)」の国司に任じられた彼は、長男の「国香(くにか)」、次男の「良兼(よしかね)」、三男の「良将(よしまさ)」を連れて任地へ。
彼らは現地の勢力と関わりながら土地を開拓し、武士団を形成。高望の子らも各地の領主となり、基盤を固めていきます。
平将門は、高望王の三男、良将の子として生まれました。
朝廷で中級官人として働いていましたが、父の死がきっかけで国へ帰ってみると、叔父の国香や良兼に土地を支配されていました。
935年、将門は「常陸国(ひたちのくに)」で、叔父の国香を殺害。
939年、常陸国の豪族「藤原玄明(ふじわらのはるあき)」が、「下総国(しもうさのくに)」の豪族だった将門を頼ってきたことで事態は複雑に。
藤原玄明には逮捕令が出されていたようで、将門は国司から彼の引き渡しを迫られますが、それを無視。玄明をかくまいます。さらに常陸国を攻めた将門でしたが、約3倍の軍勢に勝利。国司の証である「印綬(いんじゅ)」を取り上げ、「象徴的に朝廷から常陸国を奪い取る」かたちに。
朝廷にケンカを売った将門は、「下野(しもつけ)」「上野(こうずけ)」と攻め落とし、東国を支配下に置きます。さらに将門は自らを「親王(しんのう)」(新しい天皇)と名乗るように。
それに対して、朝廷はぶち切れ。
同じ頃、瀬戸内海で藤原純友の乱が起こります。右から左からヤバイ奴等が反乱を起こし、危機を感じた朝廷は策を講じます。「将門を倒した者を、貴族にしてやろう」というもの。
当時、荘園の増加により、各地に名も無い武士が増えていました。彼らを利用しようと考えたわけです。
一番に立ち上がったのが、将門が殺害した国香の子、つまり将門の従兄弟(いとこ)にあたる「平貞盛(たいらのさだもり)」です。
ちょうどその時期、田植えの準備?のために、将門は兵士を帰郷させていました。平貞盛と叔父の「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」連合軍に対して、兵士の数で圧倒的に負けていた将門は苦戦。
940年3月25日(天慶3年2月14日)、敵の放った鏑矢(かぶらや)が将門に命中、彼は息を引き取りました。
これが「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」です。
藤原純友の乱
元・伊予の国司だった「藤原純友(ふじわらのすみとも)」。彼は瀬戸内海の海賊討伐にあたっていました。
しかし、何故か逆に、彼自身が海賊を率いて反乱を起こす事態に。支配地域を拡大し、東は淡路国、西は大宰府まで手中に収めます。
「平将門の乱」の件もあり、朝廷に衝撃が走ります。やがて「小野好古(おののよしふる)」、清和源氏の初代「源経基(みなもとのつねもと)」らによって鎮圧。
これが「藤原純友の乱(ふじわらすみとものらん)」です。
承平・天慶の乱では、武士が活躍しました。
平氏まとめ
桓武天皇の子孫「桓武平氏(かんむへいし)」をまとめます。
「平将門の乱」で平将門を倒した、従兄弟の平貞盛。彼の四男「維衡(これひら)」は、伊勢で起こった同属とのいざこざを経て「伊勢平氏の祖」となります。
彼のひ孫?が「平正盛(たいらのまさもり)」。子の「平忠盛(たいらのただもり)」、孫の「平清盛(たいらのきよもり)」ときて、清盛は太政大臣まで上りつめ「平氏政権」を確立します。
「平家にあらずんば人にあらず」というほど、強大な力を得ることに。
源氏
お次は源氏。
清和源氏系図
源氏の登場
平氏ときたら源氏。
「清和源氏(せいわげんじ)」の登場です。
清和天皇の皇子から4人、孫から12人が「源(みなもと)」の姓を賜い臣籍降下。
孫の一人「源経基(みなもとのつねもと)」が、941年「藤原純友の乱」で小野好古と共に鎮圧にあたります。が、どうも彼自身はあまり活躍できなかったそう。
彼が「清和源氏」の祖です。
彼の息子「源満仲(みなもとのみつなか)」が、以前紹介した「安和の変」のきっかけをつくり、藤原北家の摂関政治確立に協力。摂関家の侍として、共に上っていきました。
やがて、「摂津国」に武士団を形成。
「摂津源氏(多田源氏)」となり、摂関家に仕えて勢力を拡大。
長男の「源頼光(よりみつ)」は、藤原兼家、藤原道長、藤原頼通らの侍として仕えます。
三男の「源頼信(みなもとのよりのぶ)」は、藤原道兼、藤原道長らに仕えました。「平忠常の乱」では恐れられる存在だったとか。
平忠常の乱
1028年、平氏のホームである東国で反乱が起きました。
もと上総国の国司で、将門を母方の祖父にもつ「平忠常(たいらのただつね)」が、勢力拡大のため国衙などを襲い反乱を起こします。
朝廷は平直方に追討を命じますが失敗。敵地を燃やしながら攻める焦土戦と戦いの長期化で、東国は悲惨な状況に。次に選ばれたのが「源頼信」。
すると平忠常は、戦わずしてあっさり降伏。頼信最強伝説、うわさがすごかったようです。
これが「平忠常の乱(たいらのただつねのらん)」。
これがきっかけで、清和源氏は東国へ進出。やがて「東は源氏」「西は平氏」の構図に。また、頼信は「河内国」を本拠地とする「河内源氏(かわちげんじ)」の祖となります。
前九年合戦(前九年の役)
1051~1062年まで、東北の太平洋側にある「陸奥国(むつのくに)」で起きた戦争。
九年と言いながら実際は12年で、古事記などにも12年と書かれており「奥州十二年合戦」とも呼ばれるそう。しかし『太平記』などには「前九年の役」と書かれており、それが一般化したのだとか。
陸奥国にもともと土着していた豪族で、以前説明した「俘囚(朝廷に従属したもと蝦夷)」長の「安倍頼時(あべのよりとき)」が、11世紀半ば頃から租税を納めなくなります。
そこで朝廷は、陸奥守の「藤原登任(ふじわらのなりとう)」と兵を送りますが、敗北。
ここで河内源氏の登場。朝廷は頼信の子「源頼義(みなもとのよりよし)」を新たに陸奥守として任命。
途中、子の「源義家(よしいえ)」などが活躍。出羽国の豪族「清原武則(きよはらのたけのり)」からは、約1万の兵の協力を得ました。
12年に及ぶ戦いを経て、安倍一族を処刑・捕縛し、戦いは終結。
これが「前九年合戦(ぜんくねんかっせん)」です。
後三年合戦(後三年の役)
1083年「後三年合戦(ごさんねんかっせん)」。
1051年に始まった「前九年合戦」では、出羽国の豪族「清原武則」の協力を受け、戦いを有利にするめることができました。
戦いの後、清原武則の子「武貞(たけさだ)」は、処刑された「藤原経清(ふじわらのつねきよ)」の妻を自分の妻とします。
そのときの、彼女の連れ子が「清原清衡(きよはらのきよひら)」。
彼が、後に「奥州藤原氏の初代当主」となる「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」です。
武貞と彼女の間に「家衡(いえひら)」が生まれると、清衡(連れ子)と家衡の間に、土地をめぐる内紛が起きます。
そのとき清衡が助けを求めたのが、「源義家(みなもとのよしいえ)」。兵糧攻めの末、家衡らを討ち取り、1086年12月に戦いが終結(wikiより)。これが「後三年合戦」です。
戦いの後、朝廷は「私的な戦」として源義家に恩賞を与えませんでしたが、義家はきちんと協力した東国の武士に恩賞を支払います。
東国における源氏人気が爆発。荘園の寄進も増加。東国武士団の棟梁として、後の鎌倉幕府へつながる土台となります。
一方、清原清衡は「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」と名乗り、平泉を中心とする東北地方一帯に勢力を拡大。金や馬などの産物によって、摂関家や院とのつながりを保ち「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」として「清衡(きよひら)」「基衡(もとひら)」「秀衡(ひでひら)」の3代にわたって繁栄しました。
しかし1189年(鎌倉時代)、奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされます。
源氏まとめ
清和天皇から「源」の姓を賜って臣籍降下した清和源氏。
1028年の「平忠常の乱」にて、戦わずして屈服させた源頼信。「後三年合戦」で活躍するも”私的な戦”として恩賞が貰えず、自腹を切って東国武士から絶大な人気を得た源義家。
※源平合戦など後で詳しく書きますので、今はさっとまとめます。
やがて彼の子、「源義親(みなもとのよしちか)」が反乱。「源義親の乱」を起こし、平正盛らによって鎮圧。平氏が台頭する一方で、河内源氏は大きく凋落しました。
その義親の子が「源為義(みなもとのためよし)」。彼はもともと、白河・鳥羽上皇に仕えていましたが、度重なる不祥事で役職を辞任。その後、摂関家である藤原氏に接近します。
源氏の地位が著しく低迷する中、為義は自身の子でまだ少年だった「源義朝(みなもとのよしとも)」を東国へと送ります。義朝少年は、東国武士の強さを間近に感じながら成長。
ある時、税収をめぐる役人と武士の争いに介入。多くの武士が義朝に従います。その後も勢力を拡大、都にも名が知られるようになり、ついに中央へ進出。
「保元の乱」「平治の乱」を経て、息子の「源頼朝(みなもとのよりとも)」へと思いは受け継がれ、源平合戦を経て鎌倉幕府成立!という流れです。
平安時代の続き>平安時代「院政編」
コメント
いつも楽しく拝見させていただいています次も楽しみにしております。
よっかたです。次も楽しみにしています。ありがとうございました。