鎌倉時代についてわかりやすく【8】元寇(蒙古襲来)、人でつくった盾

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鎌倉時代の生活・暮らしについてわかりやすく【7】二毛作で銭が実る

鎌倉時代の武士と農民の生活、農業技術の発達で生まれたゆとりと、それに伴う手工業の発展について説明します。貨幣経済の浸透による暮らしの変化と、為替制度にもふれました。

に続いて、今回は「鎌倉時代-元寇編-」です。

モンゴル帝国との戦い。
捕虜の手に穴を空け、繋いで盾にされたら、どう戦うか。

蒙古襲来

中国大陸

まずは、当時の敵の様子から。

(画像はモンゴル帝国 – Wikipediaより)

13世紀はじめ、モンゴル帝国が成立します。初代皇帝は「チンギス・ハン(Genghis Khan)」。

領土を拡大し、やがて人類史上最大規模の帝国に発展。

その帝国の第5代皇帝が「フビライ・ハン(Kublai Khan)」です。

(画像はクビライ – Wikipediaより)

彼は1271年に国号(国の名前)を「大元」と改めますが、元々中国では国号を1字で表していたため、それに従い「(げん)」と呼びました。

南宋

平安時代、平氏が日宋貿易で大量の宋銭を取引していた、あの宋です。

1127年、宋の北部(北宋)を「女真族(じょしんぞく)」の王朝「金(きん)」が征服。南で再建した王朝が「南宋(なんそう)」です。

1234年、金がモンゴル帝国に滅ぼされると、南宋がモンゴル帝国の脅威にさらされる事態に。

蒙古襲来(元寇)

そして起こった、蒙古襲来。

※「蒙古(もうこ)」は、中国語で”モンゴル”を意味する蔑称。

元との緊張関係

1268年、フビライは服属した(服従して下についた)朝鮮半島の「高麗(こうらい)」を通じて、日本に国書を送ります。

が、幕府はこれを無視
その後、送られてきた国書も無視。

「日本と国交を開きたい」といった内容でしたが、当時日本が貿易をしていた南宋から「元はヤバイ」という情報を得ていたため、かなり警戒したそう。

手元の資料では「元は、日本を征服する計画だった」とありますが、他に「南宋を攻略するため、(地理的に重要な)日本を味方に付けておきたかった。しかし、日本が何度も無視したので、軍を送った」という説もあります。

蒙古襲来(もうこしゅうらい)」または「元寇(げんこう)」で幕府の指揮をとったのは、第8代執権「北条時宗(ほうじょうときむね)」です。

(画像は北条時宗 – Wikipediaより)

文永の役(1274年)

(画像は元寇 – Wikipediaより)

長い交渉の末、ついに元が動きます。

南宋を攻略した元は、1274年10月、蒙古・漢軍15,000~25,000、高麗軍5,300~8,000、その他水夫などを含めた計27,000~40,000人を乗せた軍船726~900隻で、朝鮮半島南端の「合浦(がっぽ)」を出航(wikiより)。

やがて対馬に上陸。
島民を大量に殺害し、または捕虜としました。

『日蓮書状』によると、元軍は捕虜にした女性の手の平に穴を空け、紐を通して数珠繋ぎにしました。その数珠繋ぎの捕虜を舟の周りに並べ、敵(日本)の攻撃から守る盾にしたとか。

ついに元軍が、博多湾に上陸。
幕府は九州の御家人たちを動員して、迎え撃ちます。

しかし、元軍は「てつはう」という火薬を詰めた球形武器を使用。

炸裂音に驚き(殺傷能力は低かったそう)、元軍の得意とする集団戦法に苦戦。

(画像は元寇 – Wikipediaより)

「赤坂の戦い」やら「鳥飼潟の戦い」やらいくつかの戦いが「絵詞(えことば)」に描かれているようですが、結局のところ博多は1日で占領されます。

しかし、何故か夜になると、元軍は舟へ引き返していきました。

また幸運にも、その夜、暴風雨が起きて元軍に多大な被害を与えます。

結局彼らは、国へ帰りました。
神風万歳!」というのが、かつて教科書に描かれていたストーリー。

ただ現在では
「そもそもこの時期に台風は無かった」という意見
「撤退中に暴風雨に巻き込まれて座礁した」説
「実は元軍の被害が大きくて退却した」説
「(合浦に船で戻るための)南風を理由に撤退した」説
「もともと元の力を見せつける”おどし”が目的だったので、撤退も予定通りだった」説

などあるようですが、真相は謎。

これが「文永の役(ぶんえいのえき)」です。

文永の役後

1275年、フビライは再び日本に使節団を送ります。

しかし、その使者5人を北条時宗は斬首。

元のリベンジに備え、博多の警備をさせていた「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」を強化。

国の一大事ということで、御家人のみならず、それまで幕府と主従関係を結んでいなかった非御家人も異国防御に動員

蒙古襲来をきっかけに、幕府の統治力は拡大していきます。

弘安の役(1281年)

(画像は元寇 – Wikipediaより)

文永の役から6年。
待ちに待った、蒙古再襲来。

1276年、南宋との戦いに決着をつけた元。船を造り、兵を集め、再び日本へ。

1281年、元・高麗兵を中心とした東路軍40,000~56,989人+軍船900隻、侵略した南宋兵を中心とした江南軍100,000人+軍船3,500隻で日本へ(wikiより)。

今回は、ガッツリ侵略・植民を予定していたようで、農機具を持った人も多数乗り込んでいたとか。

先に到着したのは、東路軍。
しかし、博多も準備万端。

石で築かれた高さ2m、幅3m、長さ約20kmに及ぶ「防塁(ぼうるい)」で、彼らの侵攻を防ぎます。

(画像は元寇防塁(生の松原地区) | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財より)

博多湾からの上陸を断念した東路軍。

一旦引いて、占領した志賀島で停泊していたところに、チーム日本は夜襲をかけました。

前回「文永の役」で相手の戦い方を勉強していたおかげか、日本側の勝利が続きます。元側の主力「江南軍」は未だ到着せず。

ちなみに、数の多さが目立つ元軍ですが、兵の中には降伏した高麗人南宋の人々が多く含まれていたので、士気は高くなかったそう。

一度後退して、江南軍の到着を待つことにした東路軍。合流の期限日を過ぎても江南軍は現れず、さらに疫病が蔓延。もう無理だと諦めかけましたが、粘りに粘って、ようやく江南軍が合流します。

しかし、悪夢は再び。

7月30日(現在の8月15日)夜、台風が北九州を襲いました。元の船の大半が沈み、無事帰った者は3万人に満たなかったとか。神風万歳。

ちなみに、今回の神風は、時期的にも本当にあった話(史実)だと考えられているようです。

以上が「弘安の役(こうあんのえき)」。

蒙古襲来で得たもの

なんとか元の侵略を阻止したチーム日本でしたが、大きな問題が残りました。

「恩賞」です。

これまでの戦では、敗北した者の土地をそのまま恩賞として分け与えれば良かったのですが、今回は異国が船で攻めてきた戦。戦いには勝利しましたが、得た土地がありません

十分な恩賞を与えることができず、御家人に不満が積もります。

更に「三度目の蒙古襲来」に備えて、警備を続けなければいけません(当時の人は、3度目もあると考えていた)。

しかし、御家人の財布は空っぽ。
そんなこんなで、元寇以降の幕府の勢いは、下り坂に。

鎌倉時代の続き>鎌倉時代「得宗専制政治編」

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