平安時代の年表【2】794年~833年

前回↓

平安時代についてわかりやすく【1】平安京と桓武天皇

平安京に落ち着いた平安時代。約400年続いた時代を、わかりやすく説明します。まずは桓武天皇による遷都と蝦夷討伐。

に続いて、今回は「平安時代の年表①」です。

第50代「桓武天皇」~第53代天皇「淳和天皇」あたりまで、年表でみていきます。

平安時代の年表①

まずは、いつもの系図から。

天皇系図

(画像は「歴代天皇系図(神代七)」家系図作成本舗より)

約400年続いた平安時代は、第50代「桓武天皇」からはじまり、第82代「後鳥羽天皇」まで。30人以上の天皇が登場します。

794年:平安京遷都

平安時代に突入。

805年:徳政論争(徳政相論)

805年、桓武天皇は藤原式家「藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)」と「菅野真道(すがわらのまみち)」の両者に、”徳のある政治”について議論させました。

藤原緒嗣は、蝦夷征討や長岡京に次ぐ平安京の造営により、民の負担が増大している実情をみて「今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。この二つを止めればみんな安心します」(wikiより)と答えます。

一方、菅野真道は緒嗣の意見に反対。両方とも桓武天皇の二大事業だったからです。天皇に恥はかかせまいと反論した真道でしたが、桓武天皇はできた人間でした。

民のことを慮り、緒嗣の言うとおり政策の中止を宣言

という一連の出来事が、「徳政論争(とくせいろんそう)」です。

806年:平城天皇践祚(即位)

平城天皇(へいぜいてんのう)」(在位806-809年)は、桓武天皇と藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第一皇子。桓武天皇の弟「早良親王」がハンストで亡くなった後、天皇となりました。

名前の通り、彼は一度、平城京に遷都しようとします。

一クセも二クセもある天皇で、暗殺された藤原種継の娘で、自分の妃の母親でもある式家「藤原薬子(ふじわらのくすこ)」を寵愛。下品な表現を使うと、いわゆる親子丼。

父親である桓武天皇は怒り薬子を追放するのですが、桓武天皇の崩御後(806年)、再び彼女を呼び戻します。薬子の旦那さんは、大宰府に左遷。次第に薬子は、政治に口出しするように。

809年:平城天皇譲位、嵯峨天皇即位

平城天皇は病弱だったため、即位して3年で弟の嵯峨天皇に譲位します。

藤原薬子とその兄の藤原仲成は反対したのですが、彼の意思は固い。しかし、上皇としての力は維持したままでした。これが、後々問題となります。

(画像は嵯峨天皇 – Wikipediaより)

嵯峨天皇(さがてんのう)」(在位809-823年)は、桓武天皇の第二皇子、平城天皇の弟。

810年:蔵人所の設置

天皇直属の、秘書的な役割を担う蔵人(くろうど)。
その役所「蔵人所(くろうどどころ)」を設置。

蔵人の長を「蔵人頭(くろうどのとう)」と呼び、嵯峨天皇は、北家の「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」「巨勢野足(こせののたり)」らを任命。

以降、藤原北家がグイグイ力をつけていきます。

同年:薬子の変(平城太上天皇の変)

ついに事件が起こります。

平城天皇が譲位した翌年、嵯峨天皇が病にかかり、逆に平城天皇は元気に。薬子らの応援を受け、平城京への遷都をはかり、「平安京」と「平城京」との「二所朝廷(にしょちょうてい)」という複雑な構図の完成。

指揮命令系統がおかしくなったため、嵯峨天皇は蔵人所を設置。太政官組織との命令系統を確保。つまり、平城上皇に情報が漏れないよう措置をとりました。

二人の対立はどんどん深まり、ついに平城上皇は挙兵を決意。

しかし、嵯峨天皇の方が一足早く、藤原仲成を射殺、藤原薬子は毒を飲んで自殺、平城上皇は出家という結末に。これが「薬子の変(くすこのへん)」です。

ちなみに「平城上皇の変」ではなく「薬子の変」としたのは、嵯峨天皇が平城太上天皇に罪を及ぼさないようにした為なのだとか。

816年:検非違使の設置

(画像は検非違使 – Wikipediaより)

平安京の治安維持を行う令外官「検非違使(けびいし)」を設置。平安時代後期には、京都以外の国にも設置されるようになります。

蔵人頭や検非違使など、律令に定められていない新設の官職を「令外官(りょうげのかん)」と呼びます。

820年:弘仁格式を撰進

三代格式(さんだいきゃくしき)」の一つ、「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」を編纂。弘仁格式は、大宝1年~弘仁10年までの法を分類・編集したもの。嵯峨天皇が一代目。

清和天皇が二代目「貞観格式(じょうがんきゃくしき)」。
醍醐天皇が三代目「延喜格式(えんぎきゃくしき)」です。

(きゃく)」は、律令の修正・補足のための法令のこと。「(しき)」は、律令の施行細則(施行する上で必要なことを定めた細かい規則)のこと。(wikiより)

三代格三代式で、本来は合わせて6つ。三代の格は「類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)」という法令集にまとめられていますが、式は「延喜式(えんぎしき)」のみ完全な形で現存しているそう。

823年:嵯峨天皇譲位、淳和天皇即位

薬子の変があり、嵯峨天皇は自身の子ではなく、異母弟である「淳和天皇(じゅんなてんのう)」(在位823-833年)を立てました。

しかし、これがまたまた問題に。

823年:公営田の導入

8世紀後半に農民の逃亡、9世紀には戸籍の偽造が増え、律令を中心とした統治はもう限界。

823年、不作が続いた大宰府管内に、財源確保のため「公営田(くえいでん)」を設けます。良田1万2000町を、年間6万人以上の百姓を使って耕作させました。

戸籍などを元に、人に対して課していた「人頭税」から、「土地税」へ課税方式を変更。やがて官人も、給与・経費に充てるための「諸司田(しょしでん)」を持ち、9世紀には天皇が「勅旨田(ちょくしでん)」、皇族も「賜田(しでん)」と呼ばれる田地を持つようになります。

833年:令義解を編纂

淳和天皇が「清原夏野(きよはらのなつの)」らに命じ、編纂させた「令義解(りょうのぎげ)」。これまでいくつもあった令の条文解釈が、公的に統一

9世紀後半には、学者「惟宗直本(これむねのなおもと)」によって私的に編まれた「令集解(りょうのしゅうげ)」が登場。

平安時代の外交

平安時代、日本のご近所さんは大荒れ状態。

この頃、わが国は外交面で「孤立主義」をとり、貴族社会では「海外=穢れた地」という価値観もみられるようになります。

中国

8世紀の後半ごろから唐が衰え、907年に唐が滅亡。しばらく混乱期が続き、960年に「(そう)」が建国され、979年に中国を統一。

遣唐使が廃止された一方で、私的な貿易は盛んに行われました。

渤海は926年、半農半牧の民族「契丹(きったん)」によって滅ぼされました。

朝鮮半島

新羅が王位継承争いによって分裂。
936年、「高麗(こうらい)」が半島を統一。

 

次回は再び、藤原氏の登場です。

平安時代の続き>平安時代「摂関政治(前期)編」

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