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平安時代についてわかりやすく【1】平安京と桓武天皇

前回↓

奈良時代についてわかりやすく【1】平城京とせんとくん

平城京と”せんとくん”でおなじみ奈良時代について説明します。平城京の造り、RPGなどで登場する「朱雀」についても触れました。

に続いて、今回は「平安時代」です。

ウグイスも泣きたくなるくらい、長い平安時代。かな文字の誕生、文学の発展のおかげで、当時の情報がたっぷり残っています。まずは平安時代の流れを把握して、その後に平安時代の文化を紹介します。

京都に平安京(都)を置いてから、政治の中心が鎌倉に移るまでの時代が「平安時代(へいあんじだい)」。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」~「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」の794年~1192年までと教えられました。

が、しかし!
現在では「守護・地頭を設置した1185年から鎌倉幕府が成立した」とする意見が強いそうです。語呂的には”いいくに(1192)”最強ですが。

約400年も続いた平安時代。
長い戦いになりそうです。

平安時代とは?

少しだけ奈良時代に遡ります。

平安遷都の理由

奈良時代は、支配者(権力者)がコロコロ代わり、飢饉、疫病、反乱などの不幸もあってか、遷都を繰り返した「せんとくん」の時代でした。

そして、都は奈良から京都へ。
794年に平安京に落ち着くのですが、少し前の784年に「長岡京(ながおかきょう)」(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区あたり)を一度はさみます。

京都へ遷都した桓武天皇(かんむてんのう)は、天智天皇系の皇室。

奈良の平城京から京都への遷都は、「僧の道鏡」や「仏教大好き天武天皇系の権力者」をはじめとする奈良時代に複雑に絡み合ってしまった「仏教政治(南都六宗など)」とのしがらみを断つ意味もあったのだとか。

藤原種継暗殺と早良親王のハンスト

長岡京遷都の翌785年、遷都に反対する勢力により、造営リーダー「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」が暗殺されます。

暗殺理由は
・藤原四家の誰かが(式家の)種継を消したかった説
・桓武天皇が息子に譲位したかったので弟をハメた説
・大伴氏、佐伯氏が調子に乗っているのが許せなかった説
などなど。

この事件で疑いをかけられたのが、桓武天皇の弟早良親王(さわらしんのう)」と、大伴氏、佐伯氏。

早良親王は無罪を訴えます。
更に親王はハンガー・ストライキを決行。京都の乙訓寺に幽閉された彼は、断食をはじめます。しかし、淡路国に流される途中で憤死(憤慨しながら死ぬこと)。

ハンストで餓死・・彼は無実だったのかもしれません。

この後、桓武天皇の皇后と母が亡くなります。「早良親王の祟りじゃー」と恐れる人々が、「怨霊(おんりょう)」を鎮めるためはじめた信仰が「御霊会(ごりょうえ)」。

平安京

(画像は平安京 – Wikipediaより)

794年平安京(へいあんきょう)」へ遷都。

若干の例外を除き、約1000年もの間、日本の都となります。

平安時代の途中で、平清盛が貿易を行っていた神戸港の近くに「福原京(ふくはらきょう)」を造営し、遷都を強行しますが、なんやかんやで平安京に戻ります。

”平安”を求め、遷都した山城国(現在の京都)。山に囲まれていた「山背国」は「山城国(やましろのくに)」に改められました。

これまで同様、唐の長安を参考に造られた都城で、現在の京都府京都市・京都市街に位置。大きさは東西約4.5km、南北約5.2km。お寺は「東寺(とうじ)」と「西寺(さいじ)」が認められました。

遷都には、以前道鏡のゴタゴタで「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という名を付けられた「和気清麻呂(わけのきよまろ)」も関わっています。

平安京の地形

官職の一つに「陰陽師(おんみょうじ)」が置かれた時代。

平安京の造営にも陰陽道(風水)が取り入れられています。

(画像は「「陰陽師」はなぜ削除されなかったのか – “豪血寺”サントラCDが発表」マイナビニュースより)

↑懐かしい。笑

交通の利便性も平安京の特徴です。

(画像は平安京へ出かけよう・風俗博物館より)

すぐ横を流れる鴨川、これが淀川へと繋がっているため(淀川水系)、難波(現在の大阪)への移動がスムーズ。反対側には桂川も流れています。

桓武天皇の政策

(画像は桓武天皇 – Wikipediaより)

平安時代初期の天皇「桓武天皇(かんむてんのう)」(在位781-806年)。

彼が行った二大政策が、「平安京造都」と「蝦夷の征討」。天皇自ら政治を行います。

805年「徳政相論(とくせいそうろん)」では、彼の二大政策が民の負担になっているという意見を聞き、打ち切りを決断。民のことを真摯に考えた天皇としても知られています。

蝦夷の平定

桓武天皇は蝦夷政策に力を入れました。

平安時代における蝦夷とは、「東北地方で暮らす中央政府に帰属しない人々」のこと。民の意見を聞く天皇も、支配下にない蝦夷には厳しい。前回少し話した『もののけ姫』アシタカの一族も、これに入るのかもしれません。

(画像は城柵 – Wikipediaより)
(画像は徳丹城の歴史「古代城柵の分布」より)

東北各地で「城柵(じょうさく)」を拠点とします。城柵の中または周辺に移住させた農民を「柵戸(さくこ)」、朝廷の支配に属した蝦夷を「俘囚(ふしゅう)」とし、国内各地に移住させ「同化政策(一方の文化を、受け入れるよう他の民族に強いること)」を行いました。

797年坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となります。

802年「胆沢城(いさわじょう)」を築城。蝦夷の族長「阿弖流爲(あてるい)」を降伏させ、「命だけは助けたる!」と約束するも、中央の貴族たちに反対され、やむなく処刑

803年、胆沢城の北方に「志波城(しわじょう)」を築造。北上川の上流地域、日本海側は米代川流域まで支配下におきました。774年~811年までの蝦夷征討を特に「三十八年戦争」と呼びます。

律令政治の限界

重い税の負担、戸籍の偽造、農民の逃亡、土地の不足・荒廃など、律令を中心とした統治は限界に近づいていました。

そんな中、桓武天皇は地方の改革に力を入れます。

勘解由使

奈良時代まで、国司の任期が終わると「解由状(げゆじょう)」という引継ぎ文章が交付されていましたが、利得権を巡って問題がたえませんでした。

これを解決する方法として、国司を監視する勘解由使(かげゆし)」を設置。解由状の審査を行います。

健児の制

健児の制(こんでいのせい)」を設け、それまで農民の負担となっていた徴兵を改めました。

量より質。軍団兵士を廃止。郡司の子弟や有力農民から志願した、少数精鋭軍団を組織。国ごとに20~200人程度、60日交代で国内の治安維持にあたらせました。

農民の負担軽減

戸籍の偽造や手続きの煩雑さから、班田収受の期間を「6年1班」から「12年1班」に改めます。

農民に対して強制的に稲を貸し付ける公出挙(くすいこ)の利息を「5割」から「3割」に減らし、労役である雑徭(ぞうよう)は「年間60日」から半分の「30日」に削減。

厳しい民の現状に理解を示した桓武天皇でしたが、時すでに遅し

平安時代の続き>平安時代「年表①」

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