前回↓
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後、実権は子の源頼家に受け継がれず。北条氏が執権として力を振るうことに。自身の地位を不動のものとするため、有力御家人の排斥をはじめます。
に続いて、今回は「鎌倉時代-承久の乱編-」です。
鎌倉幕府(北条氏) vs. 朝廷(後鳥羽上皇)。
政子の演説と、論点のすり替えにも注目です。
承久の乱
3代将軍・源実朝暗殺
1219年、3代将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」が暗殺されます。
和歌や蹴鞠を好み、武家よりも公家文化に親しみのあった実朝。武士として右大臣にまで上りつめましたが、朝廷に近づきすぎたためか、消されることに。
右大臣昇任を祝う鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)での式典で、2代将軍「源頼家(みなもとのよりいえ)」の子「公暁(くぎょう)」によって殺されました。公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬り付けたそう(wikiより)。
公暁を裏で北条氏が操っていたという説がありますが、定かではなく、後に公暁も殺されています。
ここで、源氏の正統(正しい系統・血筋)は途絶えました。
摂家将軍
実朝の暗殺後、北条氏は鎌倉幕府の新しい将軍として親王(天皇の男子)を迎えたいと申し出ます。
が、「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)」がこれを拒否。
仕方がないので、源頼朝の妹のひ孫にあたる2歳の男の子を将軍として迎えました。
第4代将軍「藤原頼経(ふじわらのよりつね)」です。
「藤原」という氏からわかるように、彼は摂家(摂政・関白に任じられる家柄)出身。「摂家将軍(せっけしょうぐん)」と言われています。
対する「源頼朝(初代)」「頼家(2代)」「実朝(3代)」は、源氏将軍と呼ぶそうです。
ただし、鎌倉幕府の実権は北条氏が握っていたので、将軍とは名ばかりのものでした。
承久の乱の経過
「鎌倉幕府(北条氏) vs. 朝廷(後鳥羽上皇)」
史上初、武家政権と朝廷の戦い。
朝廷や貴族の不満
源頼朝は鎌倉幕府を開いた後、朝廷から許しをもらい全国の荘園や公領に地頭を設置していきました。
しかし、時が経ち「地頭の支配力」が強まると、年貢の未納など横暴を働くように。経済基盤だった土地が侵され、領主(貴族や皇族)との対立が進みます。
鎌倉幕府の力が増す一方で、朝廷や貴族の力は衰え、彼らに寄進する者は減り、収入が激減。
後鳥羽上皇
「朝廷が力を持っていた、あの頃(平安時代後期)に戻りたい!」
と思っていたかどうかは知りませんが、少なくとも武士ではなく「朝廷側に主導権を取り戻したい」と、後鳥羽上皇は考えていたようです。
上皇は、鎌倉幕府3代将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」に高い官位(右大臣)を与え、実朝の妻には母方の叔父の娘を選んでやり、着々と実朝を手なずけていきました。
後鳥羽上皇は文武に優れた人物だったようで、和歌や蹴鞠、琵琶、馬に弓に兵法と、何でもできたそうです。
北条氏と後鳥羽上皇の対立
実朝の死後、鎌倉将軍の代役は「北条政子(ほうじょうまさこ)」が務め、その補佐に2代執権「北条義時(ほうじょうよしとき)」がつきました。
前述のとおり、北条氏が新しい将軍として親王を要請しますが、後鳥羽上皇は「俺の妾(妻以外で経済的な面倒を見ている愛人)の持ってる土地の地頭職さ、やめてくんね?」と条件を提示。
この条件を呑んでしまうと、頼朝が手に入れた「守護・地頭任命の権利」を根底から揺るがすことになり、全ての御家人から反感を買うため、断ります。
両者の関係は、急速に悪化。
「北条義時追討」の院宣
後鳥羽上皇は、戦いの準備を整えていました。
元々、院直属の武士であった「北面の武士(ほくめんのぶし)」に加え、新たに「西面の武士(さいめんのぶし)」を組織。畿内近国(大和、山城、河内、和泉、摂津の周辺)の武士だけでなく、中には鎌倉幕府の御家人も含まれていました。
1221年5月、後鳥羽上皇は兵を集めます。
上皇は、三浦氏、小山氏、武田氏など有力御家人に「北条義時追討の院宣」を発しました。同様に、諸国の武士に対しても「義時追討の命令」を出します。
後鳥羽上皇の読み
戦いがはじまります。
後鳥羽上皇は「鎌倉幕府の中にも義時に不満を抱いている御家人はたくさんいるだろうし、彼に味方する者なんてほとんどいないはず。ましてや、朝廷を敵に回す武士なんているわけねえよ」と考えていました。
「鎌倉幕府を潰せ!」ではなく「義時を討て!」なので、「鎌倉の御家人たちも上皇に味方するはずだ」と考えていたのです。
が、そうはならず。
まず、院宣を伝えた有力御家人・三浦氏一族の中に、幕府側についた者がいました。後鳥羽上皇の近臣「三浦胤義(みうらたねよし)」の弟「三浦義村(みうらよしむら)」です。
彼は院宣を知るやいなや、即行で北条義時に報告します。一足早く情報を得ることができた北条氏は、素早い対応をとりました。
ちなみに彼は、和田義盛を裏切り北条義時に襲撃の計画を伝えた、あの三浦義村。「三浦の犬は友を食らう」と言われていたそう。
北条政子の演説
実朝の死後、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝の妻「北条政子(ほうじょうまさこ)」が、将軍を代行していました。
「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれた彼女は、「義時追放の院宣」に動揺する御家人たちに向かって演説します。※『吾妻鏡』では「安達景盛(あだちかげもり)」が代読。
皆、心を一つにして良くお聞きなさい。これが今度の最後の命令です。頼朝様が平家などの天下の敵を征伐して、関東に幕府を造って以来、朝廷の位にしても、褒美に与えられた領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものでしょう。感謝の気持ちは浅いものではありませんね。それなのに、今反逆の家来のでっち上げの訴えのために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。勇敢なる侍としての名誉を守ろうと思う者は、藤性足利秀康や三浦胤義を討ち取って、源氏三代將軍の残した鎌倉を守りなさい。但し、京都朝廷側に付きたいと思う者は、宣言しなさい。
『吾妻鏡入門 第廿五巻五月』承久三年辛巳(1221)五月大より
※演説は『吾妻鏡』承久3年5月19日条に記されている話ですが、『吾妻鏡』は幕府により編纂されたもの。当然、編纂には北条氏が関わっているので、政子の神がかり的なエピソード含め、真偽は不明とのこと。
この演説を聞いた御家人たちの中には涙するものもおり、命をかけて恩に答えようと思ったそうです。
ちなみに、上皇の「義時追討」の院宣から
「義時を守る」
↓
「頼朝の恩に答える」
↓
「鎌倉幕府を守る」
と、話の筋がすり替わっていることに注目です。
「頼朝様が造った鎌倉幕府なのに、北条の野郎が実権を独り占めしやがって。俺が義時を倒して、鎌倉の政権を執る!」という選択肢が、見えづらくなってしまいました。
鎌倉の勝利
2代執権・義時の長子「北条泰時(ほうじょうやすとき)」を鎌倉軍の大将とし、東海道、東山道、北陸道の3ルートから京都へ進みます。
道中で兵力は増し、最終的に鎌倉軍は19万騎に膨れ上がっていたそう(おそらく誇張)。
鎌倉の大軍は朝廷軍に圧勝し、京都を占領しました。
戦後処理
上皇の処罰
乱の後、後鳥羽上皇は「隠岐島(おきのしま)」に、順徳上皇(じゅんとくてんのう)は「佐渡島(さどがしま)」に、土御門上皇(つちみかどじょうこう)は(自ら望み)「土佐(とさ)」に流されました。
「仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)」を廃し、「後堀河天皇(ごほりかわてんのう)」を即位させます。
六波羅探題
北条泰時と叔父の「北条時房(ほうじょうときふさ)」は京都にとどまり、それぞれ六波羅(京都、鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯)の北と南に住み、京都の警備にあたりました。彼らの職を「六波羅探題(ろくはらたんだい)」と呼びます。
平清盛(たいらのきよもり)の旧邸を役所とし、西国の御家人たちの統括および、朝廷の監視も行いました。※wikiによると、はじめ京都の治安維持は「検非違使(けびいし)」の役目で探題の権限外と考えていたが、後に彼らの力が低下したので治安維持も行うようになったとのこと。
「探題」は執権に次ぐ要職となり、北条氏一族が任命されることになります。
新恩給与
戦いに敗れた朝廷側の所領3000ヵ所は、幕府が没収しました。
この土地に対して、幕府は地頭職を補任(官職に任命)する権利を得ました。これを「新補地頭(しんぽじとう)」と呼びます。
多くの御家人が畿内、西日本の土地を管理することになり、幕府の勢力は拡大。※「承久の乱」以前の地頭を「本補地頭(ほんぽじとう)」と呼びます。
新補地頭のために定めたのが「新補率法(しんぽりっぽう)」。
主な内容は
・田畠11町につき1町は、課税を免除(地頭の給与に)
・田畠1段あたり5升の米を徴収して良い
・山野や河海からの利益を半分貰える
というものでした。
公武二元支配の崩壊
承久の乱後、朝廷の力が著しく低下したため、先述した「朝廷(公家)」と「幕府(武家)」の二元的支配の形が崩れます。
「上皇・貴族」と「武士」の主従関係は薄れ、大寺社の僧兵による暴走など鎮圧のため軍事力が必要な場合は「朝廷が幕府に援助を要求する」という形に変化。
さらに、皇位継承や朝廷の政治にも、幕府が干渉するようになりました。
鎌倉時代の続き>鎌倉時代「朝廷の衰退編」
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