鎌倉時代についてわかりやすく【3】北条氏の台頭と有力御家人の排斥

前回↓

鎌倉時代の年表【2】征夷大将軍に、おれ(源頼朝)はなる!1180~1192年

源頼朝が源義経追討に乗じて獲得した、守護・地頭任命の権利。現在の教科書では、これをもって(1185年)鎌倉幕府成立とみているそう。武士の世が本格的にはじまります。

に続いて、今回は「鎌倉時代-北条氏の台頭編-」です。

鎌倉時代の重要人物「北条氏」と、北条氏に排斥された有力御家人についてみていきます。

北条氏の台頭

1199年、鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」が亡くなり、2代将軍には子の「源頼家(みなもとのよりいえ)」が就きました。

(画像は源頼家 – Wikipediaより)

しかし、18歳のリーダー頼家は御家人たちに受け入れられず、代わりに有力御家人たちによる「合議制(ごうぎせい)」がしかれることに。

やがて、主導権争いへと発展。

そんな中、実権を握ったのが北条氏でした。

13人の合議制

2人以上で相談することを合議、合議によって意思決定する制度を「合議制(ごうぎせい)」と言います。

頼朝の死(1199年2月)から数ヵ月後、有力御家人13人によってしかれた「十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)」。

家督を継いだはずの頼家は、訴訟の裁決権を制限され、2代将軍は早くも力を奪われることに。

メンバーは、武将
「北条時政(ほうじょうときまさ)」
「北条義時(ほうじょうよしとき)」
「三浦義澄(みうらよしずみ)」
「八田知家(はったともいえ)」
「和田義盛(わだよしもり)」
「比企能員(ひきよしかず)」
「安達盛長(あだちもりなが)」
「足立遠元(あだちとおもと)」
「梶原景時(かじわらかげとき)」
文官
「大江広元(おおえのひろもと)」
「三善康信(みよしやすのぶ)」
「中原親能(なかはらちかよし)」
「二階堂行政(にかいどうゆきまさ)」
13人

ちなみに、13人全員で合議されたことは無いそう(wikiより)。

北条氏

合議の中心となったのが、北条氏です。

まずは、平氏打倒のため頼朝と共に挙兵した「北条時政(ほうじょうときまさ)」。

(画像は北条時政 – Wikipediaより)

時政は伊豆国の豪族で、元々は「平治の乱(へいじのらん)で平清盛に敗れ、伊豆国へ流された源義朝の子・頼朝の、”監視役”」でした。

しかし、頼朝と共に挙兵し、長女の政子は頼朝の妻に。時政は鎌倉幕府の初代執権として、実権を握ります。

ちなみに、北条氏の武士団は弱小だったそう。

続いて、時政の娘で頼朝の妻かつ2代将軍頼家の母「北条政子(ほうじょうまさこ)」。

(画像は北条政子 – Wikipediaより)

頼朝の死後、出家して尼となり、一時は将軍の代わりもしていた政子は「尼将軍(あましょうぐん)」として有名です。頼朝の女性関係でブチ切れたというエピソードもあり、嫉妬深い女性として知られているのだとか。

そして、2代執権になった政子の弟「北条義時(ほうじょうよしとき)」。

鎌倉幕府歴代執権

(画像は「鎌倉幕府歴代執権」家系図作成本舗より)

北条氏の台頭①有力御家人の排斥

北条氏による、有力御家人の排斥。

主導権争いの始まりです。

※登場人物が多く、字だけなので理解しづらいですが、脳内で好きな(嫌いな)キャラクターを当てはめると多少イメージしやすくなります(笑)。

梶原景時

13人メンバーの一人で、頼朝と頼家から信用されていた「梶原景時(かじわらかげとき)」。

(画像は梶原景時 – Wikipediaより)

彼は頼朝の死後、追放されます。

ある日、御家人の一人「結城朝光(ゆうきともみつ)」が、亡き頼朝を思い「忠臣二君に仕えず・・」と語りました。

この発言を聞いた景時が「これは謀反(むほん)ですぞ!」と2代将軍頼家にチクったところ、朝光の死刑が決定。

しかし、この件を朝光に伝えた者がいました。「景時が将軍にチクったので、あなたは謀反の罪で殺されます」と彼に伝えたのが北条時政の娘「阿波局(あわのつぼね)」。

驚いた朝光と、景時をよく思わない御家人ら66人によって非難の連判状(2名以上の判が押された文書)がしたためられ、景時は鎌倉を追放されることに。

1200年、景時は一族と京都へ向かう道中、「駿河国(するがのくに)」にて在地武士たちの襲撃を受け、討死

wikiによると、1185年~1195年の駿河国の守護は北条時政、1210年~1219年が北条義時だそうで、景時の失脚に北条氏が関わっていた可能性がかなり高いのだそう。

比企能員

続いても13人メンバーの一人「比企能員(ひきよしかず)」。

(画像は妙本寺由来 日蓮宗 霊跡本山 比企谷 妙本寺より)

彼の一族も滅亡します。

景時の失脚後、北条氏と源頼家との関係はバチバチでした。

1203年、頼家側の人間が北条氏側の「阿野全成(あのぜんじょう)」をはめ、謀反の疑いで殺害します。

殺された阿野全成の妻が、先ほど登場した「阿波局(あわのつぼね)」。頼家は彼女の身柄も要求しますが、北条政子がそれを拒否。

同年、頼家は病に倒れ危篤状態に。

吾妻鏡(あずまかがみ)』によると、2代将軍頼家は、家督を彼の子一幡(いちまん)」と、彼の弟千幡(せんまん)」に分割して相続させようとしました(※wikiによると、一幡に日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭、千幡に関西38ヶ国の総地頭)。

一幡の母「若狭局(わかさのつぼね)」は比企能員の娘で、比企能員は一幡を推したい。

一方、千幡の乳母は(北条時政の娘で政子の妹の)阿波局で、北条氏は千幡を推したい。

この中途半端な相続に怒った比企能員は、千幡と、後ろ盾になっていた北条氏らを滅ぼそうと考えます。北条氏とバチバチの頼家も、この作戦を許可。

しかし、時政の方が一枚上手。逆に一幡含む比企一族は滅ぼされてしまいます。

愚管抄(ぐかんしょう)』によると、病に倒れた頼家は、子の一幡に家督を譲ろうとしましたが、一幡と外戚関係にある比企氏の台頭を恐れた北条時政が、これに反発。

比企能員を呼び出して殺し、後に大軍を使って比企一族を滅ぼし、逃げ延びた一幡と母も捕らえて刺し殺したというお話。

その後、頼家は伊豆国の修禅寺に送られ、北条時政によって擁立された千幡は、征夷大将軍に就任しました。

彼が鎌倉幕府3代将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」です。

(画像は源実朝 – Wikipediaより)

翌年、修禅寺に幽閉されていた2代将軍頼家は、北条氏の兵によって殺されました。『愚管抄』によると、入浴中、首に紐を巻かれ刺殺されたそう。

執権とは?

排斥の途中ですが、「執権」について少し説明します。

北条時政は、「大江広元(おおえのひろもと)」と並び、幕府の中心機関である政所の別当に就任。彼は12歳の3代将軍・実朝の補佐として実権を握りました。

将軍を補佐し、政所や侍所の別当を兼ね、事実上、鎌倉幕府の実権を握る地位を「執権(しっけん)」と呼びます。

時政が鎌倉幕府の初代執権。事実上、鎌倉は北条氏の政権となります。

ちなみに、”執権”はもともと朝廷で用いられた言葉だそう。

畠山重忠

次の標的。

1204年、将軍実朝の妻を迎えるにあたり、京都で宴会が催されました。その席で、御家人の「平賀朝雅(ひらがともまさ)」と武将「畠山重保(はたけやましげやす)」が口論になります。この口論が、後の火種に。

平賀朝雅は、北条時政と後妻「牧の方(まきのかた)」の娘婿だったのですが、彼は義母の牧の方に「重保に悪口を言われた!」と報告。

報告を受けた彼女は、夫の時政に「重保とその父、畠山重忠(はたけやましげただ)に謀反の疑いあり!」と報告。

ちなみに、畠山重忠は「武蔵国の有力御家人」で、平賀朝雅は「武蔵国の国司」。

時政は、京都守護のため鎌倉を離れていた平賀朝雅に代わり、武蔵国の国務を行っていました。力も人望もある畠山氏は、時政にとって邪魔者だったそう。

さて、ここで意外な展開。

時政は畠山氏の謀反の件を、子の「北条義時(ほうじょうよしとき)」に話しました。すると義時は「重忠はそんなことするはずない!」と否定。

重忠は義時の友人だったそうで、友情で争いが避けられるかと思いきや、牧の方サイドから圧力をかけられた義時は、畠山氏討伐に同意。

1205年、虚偽の報告を受け、由比ヶ浜に誘い出された子の畠山重保。

彼は、時政の命を受けた「三浦義村(みうらよしむら)」に討たれます。鎌倉に呼び出された父・畠山重忠は、道中、義時の大軍によって討ち取られました。

義時の大軍に対し、百数十騎の少数で戦った重忠。途中、彼はハメられたと気づきますが、子の重保が死んだことを知り「潔く戦う事が武士の本懐」だとして、武蔵野国の二俣川(ふたまたがわ)で鎌倉幕府の大軍を迎え撃ちました。

北条時政の追放

やがて、嘘はバレる。

友人・重忠の兵が少数であったことなどから、北条義時は、謀反の報告が嘘だったと確信。

そんな中、時政と牧の方は将軍実朝を廃し、平賀朝雅を将軍につけようと画策。命を狙われた実朝は、母・政子が派遣した御家人らに守られながら、義時の邸宅に逃れます。

時政と牧の方らの画策により、友人を殺された義時。そして、息子である実朝を殺されかけた政子の怒りはMAX。

1205年、北条政子と義時は、時政と牧の方を伊豆に幽閉。京都にいた平賀朝雅は、殺害されました。

時政に代わり北条義時が政所別当となり、2代執権として実権を握るように。

北条氏の台頭②執権の地位確立

ここからは2代執権、北条時政の子「北条義時(ほうじょうよしとき)」。

和田義盛

続いては13人メンバー、そして侍所別当の「和田義盛(わだよしもり)」。

(画像は和田義盛 – Wikipediaより)

武勇に優れ、源頼朝挙兵の頃から支えてきた和田義盛。

1209年、60歳を過ぎた頃、義盛は「一生の余執(※仏教用語:心に残って離れない執着)」として「上総(かずさ)」の国司になることを望みました。

将軍実朝は彼の望みを了解しようとしますが、北条政子は「御家人が受領になることは慣例に反する」として却下。義盛の怒りゲージが溜まります。

1213年、御家人の一人「泉親衡(いずみちかひら)」が、2代将軍頼家の子「千寿丸(せんじゅまる)」を鎌倉将軍に擁立し、北条氏を倒そうとした計画が発覚。

この計画に関係したとして、義盛の身内が逮捕されます。一族98人を連れ御所に出向き、赦免を願い出た義盛でしたが、甥の「和田胤長(わだたねなが)」が赦されず。面目を潰され、更に怒りゲージ増加。

胤長の流罪が決まると、胤長の6歳の娘が悲しみのあまり病死。処分を決めた北条義時に対して、怒りゲージ増加。

さらに「罪人の屋敷は親族に引き渡される」という慣例に反し、胤長の屋敷が没収されます。義盛が将軍実朝に願い出て無事屋敷が戻ってきたのもつかの間、義時が「屋敷は泉親衡の乱で手柄を立てたやつらに与える」として、奪い取られました。

北条氏の挑発に怒りゲージMAXの義盛は、合戦を決意。

5月2日、和田義盛は北条義時らの邸宅を襲撃。しかし、仲間だったはずの有力御家人「三浦義村(みうらよしむら)」が義時側に寝返り、事前に襲撃計画を伝えていました。

和田勢は150騎で、大倉御所(鎌倉将軍の邸宅)に火を放ち攻めます。義盛の三男「朝比奈義秀(あさひなよしひで)」などの活躍で奮闘しますが、じわじわと幕府軍に押され由比ヶ浜(ゆいがはま)へ退却。

しかし翌朝、打倒北条氏の誘いに乗った「横山時兼(よこやまときかね)」率いる武士団「横山党(よこやまとう)」の約3000騎が和田勢に加わります。

一時的に勢いを盛り返した和田勢でしたが、やがて鎌倉の激戦で、新手を繰り出す幕府軍に苦戦。

義盛の子、義直が討ち取られます。「今は戦う甲斐もなし」と号泣する義盛。そこを江戸義範の郎党に攻められ、和田義盛は討ち取られました(wikiより)。

義盛が死んだことで空いたポジション「侍所別当」に、北条義時が就きます。政所別当も務める執権の地位は、不動のものに。

鎌倉時代の続き>鎌倉時代「承久の乱編」

コメント

タイトルとURLをコピーしました