飛鳥時代についてわかりやすく【1】聖徳太子と蘇我氏

続きです。

飛鳥時代のできごと「聖徳太子編」

蘇我氏vs物部氏

まずは「蘇我氏vs物部氏」。
「仏教を巡る争い」が有名です。

538年に「仏教」が伝わると、崇仏派(仏を崇拝する仏教取り入れたい派)の「蘇我稲目(そがのいなめ)」と、廃(排)仏派(仏教入れたくない派)で神道バリバリの「物部尾輿(もののべのおこし)」との間で争いが起きます。

抗争は子供の代まで受け継がれ、587年に「蘇我馬子(そがのうまこ)」が「物部守屋(もののべのもりや)」を滅ぼし決着がつきました。物部守屋は「疫病が流行ったのは、蘇我氏が仏教を広めたせいだ!」と敏達天皇に言ったとか。「宗教戦争」ですね。

大伴金村(おおとものかなむら)」は、物部尾輿から「朝鮮半島政策の失策」(磐井の乱関係)を非難され、540年に失脚しています。

物部氏を滅ぼし、大伴氏は失脚。
これで蘇我氏の敵が消えました。
蘇我無双のはじまりです。

蘇我ファミリー

蘇我馬子は新しい拠点として「飛鳥」を選びました。

馬子は外戚パワーを利用し、蘇我一族の妃が産んだ天皇用明天皇(ようめいてんのう)」「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」を、次々と即位させます。

しかし、崇峻天皇はそんな馬子に反感を抱き・・暗殺されます。

崇峻天皇が消され、代わりとして、馬子の姪で敏達天皇(びだつてんのう)の后の額田部王女(ぬかたべおうじょ)を「推古天皇(すいこてんのう)」(554~628年)として即位させます。初の女性天皇(当時は大王)です。

(写真は「推古天皇」/推古天皇 – Wikipediaより)

推古天皇即位後まもなく、甥の聖徳太子が摂政(職位としては当時存在しない)となり、馬子や推古天皇と協調しながら、蘇我ファミリーによる中央集権国家作り開始。

聖徳太子の政治

有名なのは
603年に制定された「冠位十二階の制(かんいじゅうにかいのせい)」。
臣下を12の等級に分け、「個人の才能や功績」に応じて授けられる、一代限りの位。

604年に制定された「憲法十七条(十七条の憲法)」。
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。・・
二に曰く、篤く三宝を敬へ。・・
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。・・


十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。

と続く、役人となる諸豪族に向けた戒めで、初の成文法(文章化された法律)。

ただ、注目すべきはこれらの制度・憲法自体より、制定された年なんだとか。

前後関係を見てみましょう。

遣隋使

(写真は「当時の遣隋使船のイメージ」/DonPanchoのホームページより)

一人前の国

まず、第一回目の「遣隋使(けんずいし)」(隋に派遣した使い)が600年
しかし、この事実は日本書紀には載っていません(中国側には記録されています)。

何故か?おそらく、門前払いを受けたとのこと。

日本書紀には、第二回目の遣隋使から記載。
この第二回目の遣隋使が607年

この間、何があったのか。そう、冠位十二階の制(603年)と憲法十七条(604年)の制定です。では何故、こんなに急いで冠位制や憲法を作ったのか。

歴史学者の見解は、”中国に対してのアピール”。つまり、「我が国にもきちんとした制度がある。一人前の国家だ!」というアピールです。「外交交渉」に利用したんですね。

もしかすると一度目の遣隋使で「文明国として最低限の制度も無いのに、対等な外交とかププー」みたいな扱いを受けたのかもしれません(想像)。

対等関係?

さて、第二次遣隋使として派遣された人物は、皆大好き「小野妹子(おののいもこ)」。「なのに、妹子!」で盛り上がる人気者。蘇我馬子の「子」があまり騒がれないところをみると、やはり「妹」の力ですね。笑

隋に到着した妹子率いる倭国代表チームは、時の皇帝「煬帝(ようだい)」に国書を渡します。その国書の内容が・・

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々

聞いたことあります。
一般的には「倭国の天子と隋の天子は、対等関係だよ」という意思表示で、「日没する処」という表現に煬帝がブチギレ!と教えられると思います。が、私は「この文章は、中国の難しい本に書かれている内容をもじった、粋な(教養の高さをアピールする)文なんだ」と習いました。

手元の資料には「これをもって対等の外交を目指したと考えるのは、問題がある」と書かれています。また、ブチ切れた煬帝が日本に攻めてこなかった理由は、「自分の国(と朝鮮とのバトル)で手一杯だった」という説が一般的。

冊封体制

あともう一つ、面白い見方があります。

この時期、日本は「新羅」に対して軍を派遣していました。
そして朝鮮の諸国は、中国の冊封(さくほう)を受けていました。

冊封体制のイメージは「へー、君たち貢物をもってきたんだ。天子(天命を受け天下を治めている君主=中国の皇帝)に服従するということだね。じゃあ、称号とか印章(卑弥呼がもらった金印とか)とか授けるよ」という感じ。

「中国が周りの国を力で無理やり!」ではなく、「文明レベルが圧倒時に進んだ世界(天下)の中心であるこの国の、一員にしてあげるよ」という感じで、中華思想に基づいているのだとか。

冊封を受けることで、中国との戦争回避、中国との貿易、冊封国家同士の貿易でのメリットなど、いろいろあったそう。

この冊封体制から日本が独立することで、未だに冊封を受けている「朝鮮諸国」に対して、優位性を示そうとした、という見方。

その後の遣隋使

ちなみに、妹子は煬帝からの返書を百済に盗まれ無くしたそう。

しかし、彼はすぐに赦され昇進までしていることから「激オコの煬帝が日本を(対等ではなく)下にみるような返事をしたので、無くしたことにした」という説が有力です。

結果として、隋が高句麗と緊張関係だったこともあってか、倭国(日本)の要望「冊封なき朝貢」は認められたそう(wikiより)。

608年第三次遣隋使では、留学生や学問僧も海を渡ります。

614年、最後の第四次遣隋使では、「犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)」を派遣しました。

突然ですが、「遣隋使」でいやな思い出があります。

小学校の社会見学で博物館に行った時、「遣隋使の時代の船」を再現したアトラクションがありました。某テーマパークのアトラクション「バック・トゥ・ザ・〇ューチャー」を遥かに越える(物理的)衝撃でした。

「脳を激しくシェイクする上下の動き」と「船上で剣を交え殺し合う映像」の融合で、特殊な眼鏡なしでも、乗っている生徒の半数が吐き気を催した、という思い出。

当時の渡航は命がけだったんですね。

聖徳太子と仏教

聖徳太子といえば「仏教」です。

蘇我氏も仏教にどっぷりですから、当時のリーダーたちは好き嫌いに関係なく、仏教に目を向けます。そして、これまでの「古墳」に代わり、「氏寺(うじでら)」の建立(こんりゅう)が権威の象徴になります。

588年、蘇我馬子の発願で「飛鳥寺(法興寺)」の建立開始。

593年、聖徳太子による「四天王寺(してんのうじ)」建立。

(写真は「四天王寺」/四天王寺 – Wikipediaより)

594年、「仏教興隆の詔(ぶっきょうこうりゅうのみことのり)」発布。
聖徳太子が摂政になった翌年、政治の中心に仏教が据えられました。

607年、聖徳太子による「法隆寺(斑鳩寺)」建立。

(写真は「法隆寺」/法隆寺 – Wikipediaより)

百済が滅びた影響で、多くの技術指導者や僧が倭国に流れてきました。同時に新しい建築技術も伝わり、この頃から大規模な寺院が建設されるようになります。

多くの豪族や一般の民衆は「仏教の複雑な教理」なんてわかりませんから、「大きなお寺」「ピカピカの仏像」などを見て「なんかすげぇー。ありがたや」と信仰するようになったのだとか。キリスト教もそうですが、建築と芸術は宗教への「入口」になりますね。

仏教あれこれ

それでは、資料集的にさっとこの時代の仏教を紹介します。

彫刻

まずは、古式微笑をたたえる「北魏様式」

(写真は「釈迦如来像(飛鳥大仏)」/飛鳥寺 – Wikipediaより)

釈迦如来像(しゃかにょらいぞう) / 飛鳥寺

(写真は「釈迦三尊像」/ 奈良 法隆寺の総合情報サイトより)

釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう) / 法隆寺金堂

(写真は「救世観音菩薩立像」/ 奈良 法隆寺の総合情報サイトより)

救世観音像(ぐぜかんのんぞう) / 法隆寺夢殿

お次は、温かみがあり崇高な「南梁様式」。

(写真は「百済観音像模造」/ 百済観音 – Wikipediaより)

百済観音像(くだらかんのんぞう) / 法隆寺

(写真は「半跏思惟像」/ 東京国立博物館より)

半跏思惟像(はんかしゆいぞう) / 中宮寺

(写真は「宝冠弥勒(半跏思惟像)」/京都トリビア × Trivia in Kyotoより)

半跏思惟像(はんかしゆいぞう) / 広隆寺

工芸

(写真は「玉虫厨子」/国宝 玉虫厨子より)

玉虫厨子(たまむしのずし) / 法隆寺

(写真は「天寿国繍帳」/天寿国繍帳 – Wikipediaより)

天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)/中宮寺

美術工芸品は西アジア、インド、ギリシャなどの影響を受けているようそうで、「ペガサス」も描かれているのだとか。この時代ですでに、西の彼方の文化が日本に入ってきているんですね。

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