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平安時代についてわかりやすく【3】藤原氏の摂関政治(前期)と他氏排斥

前回↓

平安時代についてわかりやすく【1】平安京と桓武天皇

平安京に落ち着いた平安時代。約400年続いた時代を、わかりやすく説明します。まずは桓武天皇による遷都と蝦夷討伐。

に続いて、今回は「平安時代-摂関政治(前期)編-」です。

奈良時代に続いて再び藤原氏の登場です。

平安時代の摂関政治(前期)

前回説明した「薬子の変」で、平城太上天皇側についた藤原式家が没落。嵯峨天皇に味方した藤原北家の時代へ。「摂関政治(せっかんせいじ)」のはじまりです。

これまでの藤原氏をさっと振り返ると
中臣鎌足(死の直前に藤原姓を賜り藤原鎌足)」

鎌足の次男「藤原不比等

不比等の息子で藤原四兄弟の一人、北家の祖「藤原房前

房前の三男「藤原真楯」

真楯の三男「藤原内麻呂」

内麻呂の次男「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」
という流れ。

天皇/藤原北家系図

天皇系図

(画像は「歴代天皇系図(神代七)」家系図作成本舗より)
(画像は「歴代天皇系図(神代八)」家系図作成本舗より)

藤原北家系図

(画像は藤原定方(三条右大臣) 千人万首より)

藤原北家

まずは、藤原北家の主要メンバーを紹介します。

系図を見るとわかりやすいですが、外戚政策により地位を確立します。他氏排斥との合わせ技で、怖いものなし。

藤原冬嗣

(画像は藤原冬嗣 – Wikipediaより)

「薬子の変」で、嵯峨天皇より蔵人頭に任ぜられた北家の「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」。

彼は娘の「順子(じゅんし)」を仁明天皇の妃とし、「外戚関係(がいせきかんけい)」を利用しつつ、北家の地位を確かなものとしていきます。

藤原良房

(画像は藤原良房 – Wikipediaより)

冬嗣の息子「藤原良房(ふじわらよしふさ)」。

彼は皇族以外の人臣として初めて摂政(せっしょう)となった人物。藤原北家による摂関政治のはじまりです。

藤原基経

(画像は藤原基経 – Wikipediaより)

良房の養子「藤原基経(ふじわらのもとつね)」。関白。

藤原氏による他氏排斥

藤原氏以外有力氏族を蹴散らした「他氏排斥(たしはいせき)」を順に見ていきます。

①承和の変(842年)

※詳細は後の年表で説明します。

藤原良房が、伴氏橘氏を排斥。

②応天門の変(866年)

藤原良房が、伴氏紀氏を排斥。

③阿衡の紛議(887年~)

藤原基経が、橘氏を排斥。

④昌泰の変(901年)

藤原時平が、菅原氏を排斥。

⑤安和の変(969年)

藤原実頼が、醍醐源氏を排斥。

それでは、他氏排斥の詳細と時代の流れをみていきます。

平安時代の年表②

第54代「仁明天皇」~第59代「宇多天皇」あたりまで。

833年:淳和天皇譲位、仁明天皇即位

「薬子の変」で平城天皇と戦った嵯峨天皇の息子「仁明天皇(にんみょうてんのう)」(在位833-850年)。淳和天皇からみると、甥。

842年:承和の変

仁明天皇の即位後、皇太子に淳和天皇と正子内親王の皇子「恒貞親王(つねさだしんのう)」が立てられました。

しかし、藤原良房の妹「順子(じゅんし)」が仁明天皇の妃となると、827年には「道康親王(後の文徳天皇)」が誕生。840年に淳和上皇が崩御し、842年には嵯峨上皇が重い病にかかります。

「おいおい、やばいぞ」と思ったのが、恒貞親王(皇太子)に仕える「伴健岑(とものこわみね)」と「橘逸勢(たちばなのはやなり)」。「恒貞親王が良房に消される」と感じたのでしょう。

ただちに、恒貞親王を東国へ非難させる計画を立てますが、計画がバレてしまい、伴健岑と橘逸勢は謀反人として排斥され、恒貞親王は廃太子となります。伴氏と橘の排斥が完了した、「承和の変(じょうわのへん)」。

処罰された人物一覧」←wikiリンク
wikiに載ってるだけでも40人近く処罰されています。

もちろん、道康親王が皇太子として立てられました。

850年:仁明天皇譲位、文徳天皇即位

(画像は文徳天皇 – Wikipediaより)

文徳天皇(もんとくてんのう)」(在位:850-858年)は、仁明天皇の第一皇子。母は藤原順子。妃は「藤原明子(ふじわらのめいし)」、藤原良房の娘です。外戚政策は進みます。

857年:藤原良房が太政大臣に

良房、頂点に上り詰めました。

858年:文徳天皇崩御、清和天皇即位

(画像は清和天皇 – Wikipediaより)

清和天皇(せいわてんのう)」(在位:858-876年)は、文徳天皇と藤原明子(良房の娘)の皇子。

若干9歳で即位したため、藤原良房が「摂政(せっしょう)」を務めることに。「こども店長」ならぬ「こども天皇」。

摂政とは、幼少・女性・病弱な天皇に代わって政務を行う役職のこと。皇族以外の人臣(家来、臣下)として摂政になったのは、良房が初めてです。

866年:応天門の変

(画像は「平安神宮の応天門」応天門の変 – Wikipediaより)

866年、応天門が放火されます。

「放火犯は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ!」と証言した大納言の「伴善男(とものよしお)」(=伴大納言)が、逆に排斥されたという事件。

(画像は「伴大納言絵詞」応天門の変 – Wikipediaより)

もともと、源信と伴善男の仲はよくありませんでした。伴善男が源信を告発した直後、藤原良房は源信を弁護し、無実とします。その後「真犯人は伴善男親子だ!」という訴えがあり、伴氏は有罪、流刑に。

処罰された人物一覧」←wikiリンクです

応天門の変(おうてんもんのへん)」で、関係者である伴氏紀氏排斥。当然ながら、藤原良房にとって都合の良い状況に。誰が放火させたのか謎ですが、黒幕は良房かもしれません。

876年:清和天皇譲位、陽成天皇即位

(画像は陽成天皇 – Wikipediaより)

陽成天皇(ようぜいてんのう)」(在位:876-884年)は清和天皇の皇子、母は藤原高子

またまた9歳の子供天皇です。藤原基経摂政に就きました。

884年:陽成天皇退位、光孝天皇即位

(画像は光孝天皇 – Wikipediaより)

883年、宮中で突然、陽成天皇の乳兄弟が殴り殺されるという事件が起きます。

その事件に陽成天皇が関わっていたという噂があり、藤原基経から迫られ、陽成天皇は退位(表向きは病気による自発的退位)。(wiki調べ)

陽成天皇はかなりの不良だったようで、撲殺事件を起こしてもおかしくない人物だったそう・・やべえよ。もちろん、基経の策略の可能性もあります。

陽成天皇に代わって、55歳で即位した「光孝天皇(こうこうてんのう)」(在位884-887年)。彼は四代前、仁明天皇の第三皇子。藤原基経が「関白(かんぱく)」となります。関白とは、(成人の)天皇を補佐する令外官(りょうげのかん)のこと。

887年:光孝天皇崩御、宇多天皇即位

(画像は宇多天皇 – Wikipediaより)

宇多天皇(うだてんのう)」(在位887-897年)は、光孝天皇の第七皇子。

同年:阿衡の紛議(阿衡事件)

宇多天皇の即位後、藤原基経は関白に任じられます。

先例にのっとり、一度辞退した上で二度目の詔勅を受け取りました。しかし、受け取った文書「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の”阿衡”という二文字に引っかかった基経。

学者の藤原佐世いわく「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」とのこと。激オコの基経は一切の政務を放棄、国政は半年以上ストップ。「おい、これ書いたん誰や!」と、いちゃもんをつけ「橘広相(たちばなのひろみ)」が罷免されます。

橘氏排斥完了!

やがて基経の怒りは収まり正式に関白として就任しました、というお話(wiki調べ)。「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」です。

平安時代の続き>平安時代「寛平・延喜・天暦の治編」

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