前回↓
平安時代の「親政」。宇多天皇による「寛平の治」、醍醐天皇による「延喜の治」、村上天皇による「天暦の治」など年表を追って紹介します。
に続いて、今回は「平安時代-摂関政治(後期)編-」です。
天皇による親政が終わり、再び摂関政治です。
- 藤原北家による摂関政治(後期)
- 平安時代の年表⑦摂関政治(後期)
- 天皇系図
- 967年:村上天皇崩御、冷泉天皇即位
- 969年:安和の変
- 同年:冷泉天皇譲位、円融天皇即位
- 984年:円融天皇譲位、花山天皇即位
- 986年:花山天皇出家、一条天皇即位
- 995年:藤原道長、氏長者となる
- 1000年:一帝二后状態に
- 1011年:一条天皇譲位、三条天皇即位
- 1016年:三条天皇退位、後一条天皇即位
- 1018年:一家三立后の達成
- 1019年:刀伊の入寇
- 1020年:法成寺建立
- 1021年:『御堂関白記』完成
- 1028年:平忠常の乱
- 1036年:後一条天皇崩御、後朱雀天皇即位
- 1045年:後朱雀天皇譲位、後冷泉天皇即位
- 1051年:前九年合戦(前九年の役)
- 1052年:末法の始まり
- 1053年:平等院鳳凰堂建立
- 1068年:後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位
藤原北家による摂関政治(後期)
天皇の幼少期は摂政として、成人後は関白として政務を行う摂関政治。
平安時代、貴族の間では夫が妻の家に通い(夜這い)、できた子供は妻の家で育てる「招婿婚(しょうせいこん)」が一般的でした。そのため、摂政関白となるには、天皇との外戚関係が重視されました。
摂関の実態
前回説明した887年「阿衡の紛議」で、存在感を見せ付けた藤原基経の四男、藤原北家「藤原忠平(ふじわらのただひら)」。彼の子孫によって、摂関の地位が独占されます。
摂関が人事権に大きな影響力を持っていたため、貴族はこぞって富を献上。やがて、貴族の地位が固定します。
「国司(受領)」を希望する者が金銭を納める「成功(ずりょう)」、私的な「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」からの収入により、摂関家には莫大な富が集中することに。
「昨年の行事や儀式をそのまま行うことが良い」という平安な考え方にのっとり、目立った改革は行われませんでした。
雅な方たちは「源氏物語(げんじものがたり)」のような、恋愛中心の生活・・?貴族は日常の儀式や作法を細かく記録するために、日記をつけるように。大量に残された日記によって、当時の生活の詳細まで知ることができるそうです。
藤原氏略系図
氏長者を巡る争い
969年「安和の変(あんなのへん)」で、他氏排斥を完了した藤原北家の皆さん。今度は、氏の中のトップ「氏長者(うじのちょうじゃ)」を巡って争いを開始。
「兼通(かねみち)」と「兼家(かねいえ)」
「道隆(みちたか)」と「道兼(みちかね)」
「伊周(これちか)」と「道長(みちなが)」
の争いを経て、最終的に藤原道長が勝利。
子の「頼道(よりみち)」と共に、摂関家全盛期を迎えます。
平安時代の年表⑦摂関政治(後期)
天皇系図
967年:村上天皇崩御、冷泉天皇即位
「冷泉天皇(れいぜいてんのう)」(在位967-969年)は、村上天皇の第二皇子。母は藤原忠平の子「師輔(もろすけ)」の娘「藤原安子(ふじわらのあんし)」。
969年:安和の変
村上天皇崩御の後、醍醐天皇の皇子で左大臣の「源高明(みなもとのたかあきら)」が、藤原氏らによって謀反を密告されました。
詳しい内容はわかっていないそうですが、結果として彼は大宰府へ左遷。「安和の変(あんなのへん)」です。
醍醐源氏の排斥をもって、藤原氏の地位は完全に確立。他氏排斥が完了しました。
同年:冷泉天皇譲位、円融天皇即位
「円融天皇(えんゆうてんのう)」(在位969-984年)は、村上天皇の第五皇子で冷泉天皇の同母弟。
摂政には「藤原実頼(ふじわらのさねより)」が就任。実朝が亡くなると「藤原伊尹(ふじわらのこれただ)」が引継ぎます。
伊尹が亡くなると、(兄)「藤原兼通(ふじわらのかねみち)」と(弟)「藤原兼家(ふじわらのかねいえ)」の間で争いがおき、ひとまず兼通が関白に。
984年:円融天皇譲位、花山天皇即位
「花山天皇(かざんてんのう)」(在位:984-986年)は、冷泉天皇と懐子(藤原伊尹の娘)の第一皇子。
986年:花山天皇出家、一条天皇即位
兼家の陰謀で、花山天皇が出家。
代わって7歳で即位したのが「一条天皇(いちじょうてんのう)」(在位986-1011年)。円融天皇と詮子(藤原兼家の娘)の第1皇子です。
摂政・関白には藤原兼家が就きました。彼の死後は、長男の道隆が引き継ぎます。道隆が病で倒れると、弟の道兼が関白に就任しますが、病で死亡(七日関白)。
道隆の子「伊周」と、彼の叔父「道長」で争い、道長が勝利。
995年:藤原道長、氏長者となる
「藤原道長(ふじわらのみちなが)」は、「内覧(ないらん)」(天皇に関係する文書などを先に見ることが許された令外官)となり、やがて右大臣に任ぜられ、藤原氏長者となります。
1000年:一帝二后状態に
1000年、道長の娘「彰子(しょうし)」を一条天皇の中宮とします。
既に、ライバル「藤原伊周(ふじわらのこれちか)」の妹「定子(ていし)」が皇后となっていましたが、強行し、一帝二后状態に。
この定子に仕えたのが、『枕草子』で有名な「清少納言(せいしょうなごん)」。
彰子に仕えたのが、『源氏物語』で有名な「紫式部(むらさきしきぶ)」です。紫式部は自身の『紫式部日記』で、清少納言をディスっているのだとか。
1011年:一条天皇譲位、三条天皇即位
「三条天皇(さんじょうてんのう)」(在位1011-1016年)は、冷泉天皇と超子(藤原道長の姉)の第二皇子。
1012年に道長の次女「妍子(けんし)」が中宮となりますが、「藤原済時(ふじわらのなりとき)」の娘「娍子(せいこ)」も皇后としたため、二后状態に。
1016年:三条天皇退位、後一条天皇即位
「後一条天皇(ごいちじょうてんのう)」(在位1016-1036年)は、一条天皇と彰子(藤原道長の娘)の第二皇子。8歳で即位し、道長が摂政となりました。
1018年:一家三立后の達成
1018年、道長の娘「威子(いし)」を、道長の孫・後一条天皇の中宮とします(叔母と甥の関係)。
皇后を3人出した道長は「一家三立后(いっかさんりっこう)」を達成。立后の日、祝宴の場で詠んだ歌がこれ↓
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない
藤原道長 – Wikipediaより
1019年:刀伊の入寇
女真族(満洲民族)とみられる海賊が、九州北部を襲った事件「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」。
この事件で捕虜となった日本人を、高麗が救出してくれたというエピソードも。「刀伊」は、高麗語で夷狄 (いてき) を意味する言葉。
9世紀~11世紀にかけて、日本は新羅や高麗などの海賊から、数十回も襲撃・略奪を受けていたそうです(wikiより)。
1020年:法成寺建立
道長によって建てられた、摂関期最大級の寺院。
1021年:『御堂関白記』完成
道長が著した日記。
1028年:平忠常の乱
※詳細は後でまとめて紹介します。
1036年:後一条天皇崩御、後朱雀天皇即位
「後朱雀天皇(ごすざくてんのう)」(在位1036-1045年)は、一条天皇と彰子(藤原道長の娘)の第三皇子。
関白には道長の長男「藤原頼通(ふじわらのよりみち)」が就きました。
1021年、道長の娘で後朱雀天皇の叔母に当たる「嬉子(きし)」が、東宮妃として入内。
1045年:後朱雀天皇譲位、後冷泉天皇即位
「後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)」(在位1045-1068年)は、後朱雀天皇と嬉子(藤原道長の娘)の第一皇子。
1051年:前九年合戦(前九年の役)
1051~1062年まで、東北の太平洋側にある陸奥国で起きた戦争。
九年と言いながらで実際は12年で、古事記などにもそう書かれていたため、かつては「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。しかし『太平記』などには「前九年の役」と書かれていたため一般化した、という説が有力だそう。
※詳細は後でまとめて紹介します。
1052年:末法の始まり
末法というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことである。正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。
末法 – Wikipediaより
末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。
wikiによると、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が生きていた時代は、紀元前6世紀か紀元前5世紀あたりらしいので、約1500年後にあたるこの時期が、「末法(まっぽう)」だと考えられていたようです。
1053年:平等院鳳凰堂建立
藤原頼通によって、現在の京都府宇治市に建てられた寺院。
紫式部による長編物語『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルの一人と言われる嵯峨源氏の「源融(みなもとのとおる)」。彼の別荘だったものが宇多天皇に渡り、孫の源重信を経て、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものを、寺院として改めたのが平等院の始まり(wikiより)。
10円玉でも有名です。
1068年:後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位
時代は、摂関政治から「院政(いんせい)」へ・・。
平安時代の続き>平安時代「荘園と武士編」
コメント
「兼道」ではなく「兼通」
変換間違い修正しました。
ご指摘ありがとうございます!