前回↓
平安時代の武士といえば源氏と平氏。勢力を拡大していった彼らのルーツと歴史、天皇家や摂関家との関わりを紹介します。
に続いて、今回は「平安時代-院政編-」です。
- 中世のはじまり
- 平安時代の院政
- 平安時代の年表⑧院政
- 天皇系図
- 院政関係系図
- 1068年:後冷泉天皇譲位、後三条天皇即位
- 1069年:延久の荘園整理令
- 1072年:宣旨枡(延久宣旨枡)の制定
- 1073年:後三条天皇(72年譲位/73年崩御)、白河天皇即位
- 1083年:後三年合戦(後三年の役)
- 1086年:白河天皇譲位、堀河天皇即位
- 1107年:堀河天皇崩御、鳥羽天皇即位
- 1123年:鳥羽天皇譲位、崇徳天皇即位
- 1141年:崇徳天皇譲位、近衛天皇即位
- 1155年:近衛天皇崩御、後白河天皇即位
- 1156年:保元の乱
- 1158年:後白河天皇譲位、二条天皇即位
- 1159年:平治の乱
- 1165年:二条天皇譲位、六条天皇即位
- 1167年:平清盛が太政大臣に就任
- 1168年:六条天皇譲位、高倉天皇即位
- 1173年:大輪田泊をを拡張
- 1177年:鹿ケ谷の陰謀
- 1179年:治承三年の政変
- 1180年:高倉天皇譲位、安徳天皇即位
- 同年:福原京へ遷都?
- 1183年:後鳥羽天皇即位、(1185年)安徳天皇崩御
中世のはじまり
このあたりから「中世(ちゅうせい)」に突入します。中世は西洋的な考え方で、日本の時代区分だと「平安時代末期(もしくは鎌倉幕府の成立)か~室町時代」あたりを指すのだそう。
「武士(騎士)の登場」とそれに伴う「封建制」「荘園公領制」など、中世ヨーロッパと比較しても類似点が多く、世界史と横軸で比べても面白そうです。
今回は院政を中心に、摂関家、武家、寺社など、権力が分散した時代。後に政治は乱れ、法や権威によらず実力でのし上がる時代へ。
平安時代の院政
院政とは?
天皇を退いた上皇(太政天皇)が、現天皇に代わり政権を握る「院政(いんせい)」。上皇となった後、実際に政治を行った者を特に「治天の君(ちてんのきみ)」と呼びます。
上皇は「院庁(いんのちょう)」と呼ばれる政務機関を置き、院庁の職員は「院司(いんし)」、主に中下級貴族で組織された上皇の側近は「院近臣(いんのきんしん)」と呼ばれ、たびたび摂関家や大寺社と対立しました。
公的な命令は「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」、私的な命令は「院宣(いんぜん)」によって伝達。
院御所の北側に、上皇の警護にあたる「北面武士(ほくめんのぶし)」を設置。武士の詰所のことを特に「武者所(むしゃどころ)」と呼びました。
院政期に摂政関白が無くなったわけではありませんが、実権を握っていたのは上皇で、平安時代末期においては「白河上皇」「鳥羽上皇」「後白河上皇」の3上皇が有名です。
3人とも仏教が大好きで、やがて出家して法皇に。
※上皇と法皇を区別するのが面倒なので、ここでは基本的に上皇と書きます。
そして!
上皇の侍として有名なのが「平氏」。
藤原氏(摂関家)の侍が「源氏」。
それぞれ出世し、後に戦いに。
知行国と院分国
院政の時代、貴族の給料システムは実質的に崩壊していました。
解決策として、上級貴族や有力寺社に一国の支配権(知行権)を与え、「知行国主(ちぎょうこくしゅ)」とします。「知行国(ちぎょうこく)」では知行国主が自由に国司を任命でき、収益を得ました。
一方、院や女院(天皇・上皇と関係の近い女性)は「院分国(いんぶんこく)」を所有し、そこからあがる収益を(朝廷から支給される)給与の代わりとします。更に院は荘園も所有し、寄進による収益もありました。
僧兵
白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇とも仏教が大好き。
しかし、国から大寺院への支援金が十分でないなどの不満から、僧侶自身が武装し「僧兵(そうへい)」が大暴れ。御神木を人質に強訴(強硬手段で訴えること)するなど、僧にあるまじき振る舞いをみせます。
特に影響が大きかったのは、「南都(なんと)」と呼ばれる「興福寺(こうふくじ)」の奈良法師と、「北嶺(ほくれい)」と呼ばれる「延暦寺(えんりゃくじ)」の山法師。
白河上皇が語ったとされる「三不如意(さんふにょい)」に、
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(白河天皇 – Wikipediaより)
とあります。私の思い通りにならないことの一つは、賀茂川の氾濫による水害。二つ目は、すごろくのサイコロの目(賭博の禁止令を守らなかったことを嘆いたという説もある)。そして最後が、延暦寺の山法師。僧兵は、上皇をかなり困らせていたようです。
僧兵の鎮圧に武士が活躍したため、武士の中央政界への影響が、ますます大きくなりました。
平安時代の年表⑧院政
天皇系図
院政関係系図
1068年:後冷泉天皇譲位、後三条天皇即位
後冷泉天皇譲位の後、「後三条天皇(ごさんじょうてんのう)」(在位1068-1073年)が即位。後朱雀天皇と禎子内親王(ていしないしんのう)の第二皇子。
摂関政治を行っていた藤原氏を直接外戚としない、170年ぶりの天皇です。
反摂関家の人物を登用。中級貴族だが学識に優れる「大江匡房(おおえのまさふさ)」なども登用し、積極的な親政を行いました。
「摂関政治」から「院政」へのターニングポイントです。
1069年:延久の荘園整理令
今度の荘園整理は規模が違います。
1069年「延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」が出されると、公正な審査を行う機関として「記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)」(略して記録所)を設置。
反摂関家の人物や、天皇の側近を重要なポジションに置き、「荘園領主」と「国司」の両方から報告書を取って審査しました。
摂関家の荘園も含め不正な荘園が整理され、大きな成果をあげました。
天皇人気も回復し、荘園の寄進が増加。以後、荘園と公領の区別が明確になります。
1072年:宣旨枡(延久宣旨枡)の制定
荘園整理中に気づいたのか、各地でバラバラだった枡(ます)の大きさを公的に指定しました(公定枡)。年貢を納めるときの基準となります。
1073年:後三条天皇(72年譲位/73年崩御)、白河天皇即位
後三条天皇は譲位の後、院政を行おうとしていた説もあります。が、近年の研究では、退位の原因は病による説が有力だそう(wiki調べ)。
「白河天皇(しらかわてんのう)」(在位1073-1087年)は後三条天皇の第一皇子。関白は置きましたが、政治は天皇主導の親政を目指します。彼は後に、堀河、鳥羽、崇徳天皇のときに院政を行います。
1083年:後三年合戦(後三年の役)
※前回説明したので省略します。
1086年:白河天皇譲位、堀河天皇即位
白河天皇が自身の第二皇子「堀河天皇(ほりかわてんのう)」(在位:1086(1087)-1107年)に譲位、院政を開始。引き続き摂政関白が置かれ、はじめのうちは摂関政治、後に天皇が成人すると親政のような状態に。
仏教好きの白河上皇は出家し法皇となっていたのですが、若干22歳の摂政、藤原忠実が頼りなかったこともあり、やがて白河上皇の院政へ移行。
白河上皇に重用されたのが「平正盛(たいらのまさもり)」。
伊賀国の荘園を上皇に寄進。受領や北面武士となり、「源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)」に派遣され、これを鎮圧。
1107年:堀河天皇崩御、鳥羽天皇即位
堀河天皇の崩御の後、子の「鳥羽天皇(とばてんのう)」が5歳で即位。
祖父である白河法皇(上皇)の院政が本格化しますが、祖父の崩御後は彼が、崇徳・近衛・後白河天皇のときに院政を行います。
1123年:鳥羽天皇譲位、崇徳天皇即位
鳥羽天皇が自身の第一皇子「崇徳天皇(すとくてんのう)」(在位1123-1142年)に譲位、上皇となります。※画像は崇徳院怨霊ver.です。
鳥羽上皇のお気に入りが、正盛の子「平忠盛(たいらのただもり)」でした。貴族、そして院近臣としても重用します。
1141年:崇徳天皇譲位、近衛天皇即位
鳥羽上皇と「藤原得子(ふじわらのとくし)」の第九皇子「近衛天皇(このえてんのう)」(在位1141(1142)-1155年)。
鳥羽上皇が得子を寵愛していたため、崇徳天皇に譲位を迫り、二人の子を天皇にしたとのこと。
1155年:近衛天皇崩御、後白河天皇即位
鳥羽上皇の第四皇子「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」(在位:1155-1158年)。彼も院政を行った治天の君として有名です。
1156年:保元の乱
鳥羽上皇が崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇が即位。
ここで1つ目の問題が起きます。近衛天皇は崇徳天皇の養子となっていたにも関わらず、「弟」とみなされ、(直系尊属でないので)崇徳上皇は院政を行えないという事態に。
しかし、幸か不幸か近衛天皇が病にかかります。次は崇徳の第一皇子「重仁親王」が即位かと思われていた矢先、次は守仁(後の二条天皇)即位の流れに。結局は守仁の父、後白河天皇が即位し、崇徳の不満は爆発寸前。
天皇家以外にも摂関家の対立が加わり、バトル開始。
この対立で、「源義朝(みなもとのよしとも)」は「平清盛(たいらのきよもり)」らとともに後白河天皇方についたのですが、相手である崇徳上皇側には父「源為義(みなもとのためよし)」と、弟の「為朝(ためとも)」がいました。親子同士の戦いです。
東国で戦い慣れしていた義朝は「夜襲をかけましょう」と進言。しかし、戦いを知らない貴族は卑怯なやり方に躊躇します。が、最後は義朝の案が採用され、夜襲を決行。火を放ち、後白河天皇方が勝利。
乱が終わり、当然活躍に見合った恩賞がもらえると期待していた義朝でしたが、実際に与えられたのは「左馬頭(さまのかみ)」という、朝廷の馬の飼育や調教を行う役職。一方、特に何もしなかった貴族たちには重要な役職が与えられました。
また義朝は、親兄弟の命だけは助けてもらうようにと嘆願しますが、聞き入れられず、為義らは一族もろとも斬首。
これが、後の平治の乱につながった・・と以前まで言われていたそうですが、近年の研究では疑問視する声もあるのだとか(wiki調べ)。
この戦ではじめて合戦を見た都の貴族たちは、大きな衝撃を受けます。「慈円(じえん)」という僧は、自身の著で「保元の乱(ほうげんのらん)が武者の世の始まりになった」と記しています。
1158年:後白河天皇譲位、二条天皇即位
「二条天皇(にじょうてんのう)」(在位1158-1165年)は後白河天皇の第一皇子。
引き続き、平清盛が後白河上皇に重用されます。
1159年:平治の乱
「保元の乱」の後、政治の主導権を握ったのは「信西(しんぜい)」(=藤原通憲)でした。彼は1156年に「保元の新制(ほうげんのしんせい)」を出し、荘園の整理をはじめます。
権力を独占する信西に対して、同じく後白河上皇の院近臣だった「藤原信頼(ふじわらののぶより)」や、その他貴族たちは不満を抱いていました。
そこで、源義朝は反信西の彼らと手を結び、信西打倒の計画を立てます。
平清盛が熊野詣(熊野古道にお参り)に出かけている隙を狙って、反乱を起こしました。信西は地中に埋めた箱に隠れるも、掘り起こされる音に怯えて自害(wiki調べ)。
信頼側は、二条天皇と後白河上皇を幽閉。
平清盛はこの事件を知ると、若干迷った末、都へ戻ることを決意。
後白河上皇は脱出し、二条天皇は清盛の六波羅邸へ。天皇の命を受けた清盛は兵を上げ、信頼は処刑、義朝は子の頼朝らを連れて東国へ。馬も失い、なんとか尾張国野間で家来の家にたどりつくも、褒美に目のくらんだ家来によって殺害されました。
入浴中に襲撃を受けた義朝。彼は最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだといいます。
「平治の乱(へいじのらん)」です。
「平治の乱」の後、義朝の子「源頼朝(みなもとのよりとも)」も捕まり、処刑される予定でしたが、清盛の継母(父の再婚相手)である「池禅尼(いけのぜんに)」らの嘆願で助命されます。
彼は平安京から遠く東、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流されました。※蛭ヶ小島は実際には島ではありません。
この頼朝が後に、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となります。
1165年:二条天皇譲位、六条天皇即位
「六条天皇(ろくじょうてんのう)」(在位1165-1168年)は、二条天皇の第二皇子(第一皇子という説もある)。
1167年:平清盛が太政大臣に就任
武家(軍事貴族)として初めての太政大臣。
しかし、この時点では、実権の無いただの名誉職に過ぎなかったそう(wikiより)。清盛は3ヶ月で辞任。
1168年:六条天皇譲位、高倉天皇即位
「高倉天皇(たかくらてんのう)」(在位1168-1180年)は、後白河上皇の第7皇子。
同年、清盛は病に倒れ、出家します。
1173年:大輪田泊をを拡張
平忠盛の時代から行っていた、平氏の資金源の一つ「日宋貿易(にっそうぼうえき)」。現在の神戸港の一部にあたる「大輪田泊(おおわだのとまり)」を港とし、宋銭などの取引で莫大な利益を得ました。
九州から瀬戸内海を通って、畿内へと通じる航路の安全を願い「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」を信仰するように。
清盛によって大規模な社殿が造営されました。
1177年:鹿ケ谷の陰謀
※詳細は後でまとめて紹介します。
1179年:治承三年の政変
※こちらも詳細は後でまとめて。
1180年:高倉天皇譲位、安徳天皇即位
「安徳天皇(あんとくてんのう)」(在位1180-1185年)は、高倉天皇と「平徳子(たいらのとくこ)」の第一皇子。
1歳で即位しました。徳子は平清盛の娘で、外戚関係となります。
同年:福原京へ遷都?
現在の兵庫県神戸市中央区あたり、(平氏の貿易港)大輪田泊を見下ろす位置に「福原京(ふくはらきょう)」の造営計画があがります。
6月に天皇、上皇たちが福原を訪れ行宮(一時的な宮殿)が置かれますが、結局もとの平安京に戻ることに。
1183年:後鳥羽天皇即位、(1185年)安徳天皇崩御
「後鳥羽天皇(ごとばてんのう)」(在位1183-1198年)は、高倉天皇の第四皇子。
次回はいよいよ、「源平合戦」です。
平安時代の続き>平安時代「源平の争乱編」
コメント
捕捉なんですけど、平清盛は武士で初めて太政大臣になってます。付け加えていただけると分かりやすいです♪
また、年号も付け加えていただけると分かりやすいです!
書いてますよ♪