弥生時代についてわかりやすく~未だ謎の邪馬台国~

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縄文時代についてわかりやすく~貝塚見つけた外国人~

「縄文時代」は磨製石器を使う新石器時代。縄文土器に竪穴式住居、大森貝塚、三内丸山遺跡などの遺跡、土偶やアミニズム、抜歯などの通過儀礼についても触れています。

に続いて、今回は「弥生時代」です。

弥生時代といえば水稲農耕(すいとうのうこう)、本格的な米作りの始まりです。

手元の資料によると、紀元前5世紀はじめ頃に水稲耕作を基礎とする農耕文化が成立し、弥生時代に突入。紀元3世紀頃まで続いたとのことです。wikiだと紀元前3世紀中頃~紀元後3世紀中頃まで。

稲作の技術は、(中国を起源とする)大陸の人たちが稲と共に海を渡り、北部九州に伝えたと言われています。「外国との交流」といえば、だいたい北九州のイメージです。沖縄行くより朝鮮の方が近いですし。

稲作のはじまりは、生産経済(農耕経済)のはじまりです。

ただし、北海道では流行らなかったとのこと。寒さに強い品種が無かったのかもしれませんし、鮭とか取り放題で食べ物が豊富(アイヌ文化のイメージ)だったのかもしれません。ということで、北海道は縄文時代の文化を継続しました。これを「続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)といいます。

沖縄でも稲作は流行らなかったようです。

弥生時代

「弥生時代」の名前の由来は「弥生式土器」が発見された「(旧)東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現)東京都文京区弥生」なのだそう。検索しましたが、東京大学周辺のようです。

土器!考古学!という感じがします。文献を基に研究する歴史学の活躍は、もう少し後の方。

(写真は「弥生式土器」/弥生時代 – Wikipediaより)

稲作と高床式倉庫

米作り、「農耕」の始まりです。

お米を作るには「道具」が必要。

鍬(くわ)や鋤(すき)など基本的な農具の他、「石包丁(いしぼうちょう)」と呼ばれる、稲穂を摘むための道具を使用していました。

(写真は公益財団法人広島県教育事業団事務局/遺跡探訪のへやより)

作った米の保存場所として使われた「高床式倉庫」。”式”を除いた「高床倉庫」という言い方もあるらしいですね(どっちでもいい)。

雨が降っても床上浸水しにくく、湿度管理もバツグンだそう。

(写真は高床式倉庫 – Wikipediaより)

秘策「ねずみ返し」を使えば、米の安全対策はバッチリ。

(写真はねずみ返し – Wikipediaより)

弥生時代の暮らし

弥生時代の住まいは、縄文時代と変わらず「竪穴式住居」でした。

水を引くための「水路」の整備、田んぼを畔(あぜ)で区切るなど、高いレベルで水田稲作を行っていたそうです。そして、本格的に稲作を行うため定住するようになります。

「人力だけ」で米の世話をする場合、相当の人手が必要になります。

まずは「田植え」。

田植えを少人数で行うのは非常に効率が悪い。苗を植える人、運ぶ人、太鼓叩きながら歌う人(笑)など分担して行うと、作業が早いですね。弥生時代のことはわかりませんが。

(写真は田植え – Wikipediaより)

「稲刈り」も同様で、刈る人、運ぶ人、束ねて干す人などに分担すると、効率的です。

一昔前だと「今日は田中さん、明日は山田さん家の稲刈りを手伝いましょう」なんて感じで、一斉に作業を行ったり。一家総出で作業をするため「稲刈りの時期は学校が休み」なんて地域もありました。

(写真は稲刈り – Wikipediaより)

その他、土地の整備や水の管理も一人では困難です。

このように、稲作が浸透すると必然的にムラ(集落)が形成されていきます。カタカナで”ムラ”と書くのは、現在使われている「村」と区別するためだとか。「クニ」や「イエ」もカタカナで書きます。

そして、ご近所付き合いが生活(米作り)に直結する社会で、怖いのが村八分(むらはちぶ)です。

「ねぇアナタ。〇〇さん家の奥さん、いつも行事に参加しないのよ。来年からは、田植え・稲刈りの手伝いはやめましょうよ」

「そうだな。あそこの旦那も無愛想だし、水路の使用を制限して、ひとつ懲らしめてやるか。へっへっへ」

なんてことになると、もうその村では米が作れません。

「核家族化が問題だ」「最近の連中は近所付き合いが悪い」なんて言いますが、村文化も相当な闇を抱えていたんですよね。農家の減少と機械化でご近所付き合いが希薄になるのは、自然な流れかもしれません。

環濠集落

「ムラ(集落)」が大きくなるにつれ、持てる者、持たざる者による「貧富の差」が生まれ、集団のリーダー(ムラのリーダーはムラオサ)とフォロワーの「上下関係(身分の差)」が生まれます。

そして、集落同士の「争い」も増えます。

(写真は吉野ヶ里遺跡/玉川学園「教材ライブラリー」より)

敵の襲撃から、集落を守るために考案されたのが「環濠集落(かんごうしゅうらく)」です。

集落の周囲に堀を作り、水を引いたりもしたそう。

この進化版が、お城の周りにある「お堀」。ちなみに「古墳」の周りにある堀は、古墳を作る時に必要な土を掘った跡らしいので、意味合いが違うようです。

「ムラ」がいくつか集まると「クニ」へと発展します。クニのトップは「王」。後に卑弥呼などの大物アイドル(女王)も登場してくるわけですね。

金属器

弥生時代のもう一つの特徴は金属器です。

一般的な歴史(時代)の流れでは「石器」→「青銅器」→「鉄器」の順でレベルアップしていきます。

そしてRPGだと、鋼、金、銀、プラチナに、炎、氷、雷、疾風などの属性が追加されていくわけですね。笑

世界史で「ヒッタイトのやつらが、なんかすげー武器を使ってるらしい。鉄っていうらしいぜ」と習った記憶がありますが、やはり鉄はすごいらしい。

wikiによると、最初の「鉄器文化」は紀元前15世紀頃に現れたヒッタイト。青銅器にいたっては、メソポタミア・エジプトで紀元前3500年頃から使用されていたそう。

しかし!日本に金属器がやってきたのは弥生時代、つまり紀元前5世紀頃。既に大陸では、鉄器を使ってブイブイ言わせているやつらがいました。ということで、「青銅器→鉄器」の順を踏むことなく、青銅器と鉄器はほぼ同時に伝わります。

となると!
モロい青銅器を、あえて武器として使う必要はありません。

RPG的には、最初の村でいきなり強い武器を手に入れたようなもの。青銅器を道具屋で売る選択肢はないので、「銅矛(どうほこ)」「銅鐸(どうたく)」「銅鏡(どうきょう)」「銅剣(どうけん)」など、祭器や宝器として使用しました。

(写真は復元された「銅剣・銅矛」/吉野ヶ里歴史公園より)
(写真は復元された「銅鐸」/銅鐸博物館 – 山楽ぶらり探訪より)
(写真は復元された「銅鏡」/銅鏡の復元|まっちーpapaより)
(写真は復元された「銅鏡」/銅鏡の復元|まっちーpapaより)

ピッカピカですね。教科書に載っているのはサビて青くなっているものばかりですが、こうして見ると確かに美しい。当時の人であれば、この輝きで神秘的なものを感じたかもしれません。

鉄器は「武器」や「農具・工具・その他実用品(刃とか)」などに使用されました。

遺跡など

(写真は吉野ヶ里遺跡 – Wikipediaより)

大規模な環濠集落跡で有名な「吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)」(佐賀県)。50ヘクタールもあるそうです。※1ヘクタールは、100m×100m=10,000㎡

(写真は登呂遺跡 – Wikipediaより)

田んぼと集落の遺跡「登呂遺跡(とろいせき)」(静岡県)も重要だそう。

水田跡や、井戸の跡、竪穴式住居、高床式倉庫の跡など発掘されました。

縄文人と弥生人

縄文時代から日本にいた人、つまり大昔から日本にいた人たちのことを「縄文人」と呼び、弥生時代に稲を持って大陸から渡ってきた人たちのことを(狭義では)「弥生人」と呼ぶそうです。

「君って縄文人系の顔だよね」「あなた弥生人っぽくない?」という超どうでもいい会話で登場する、アレです。

一般的に縄文人は彫が深く、二重まぶた。厚い唇で顎の骨が大きいのが特徴。「古モンゴロイド」に分類されるようです。

一方、弥生人の特徴は、縄文人と比べてのっぺりとした平たい顔。一重まぶたで、歯が大きい。「新モンゴロイド」に分類されるようです。

ネットの情報によると「唇を動かさずにウィンクができる」と、縄文人よりの顔だとか。

邪馬台国

最後は邪馬台国(やまたいこく)です。

『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)によると、紀元2世紀の終わり頃、倭(わ)は争い乱れていました。

そこで、国々が話し合って邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」を王として立てたところ、争いは収まり、約30からなる小国連合が生まれました。

(画像は『卑弥呼』/Himiko – Wikipediaより)

そして239年、卑弥呼は(ぎ)の皇帝に「使い」と「送りもの(男女の奴隷10人、織物など)」を送り、代わりに金印、銅鏡100枚をはじめとするお土産と「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号をもらいました。三国志で有名な「魏(ぎ)」「呉(ご)」「蜀(しょく)」の魏です。

ちなみに、教科書でも有名な「漢委奴國王」と書かれた金印は、紀元57年に光武帝が与えたもの(読み方をめぐって論争があるのだとか)。卑弥呼がもらった「親魏倭王」とは別物だそうです。

(写真は『金印』/福岡市博物館より)
(写真は『金印』/福岡市博物館より)

卑弥呼はいわゆる巫女のような存在で「鬼道(きどう)」の使い手だったとか。シャーマンみたいな感じでしょうか。なので、政治的なことは全て弟が担当しました。

卑弥呼が死んだ後、男をリーダーに立てたところ再び争いが起きます。そこで、「壱与(いよ)」という13歳の少女を王にすると、争いが収まりました。「少女」ってところが、日本らしいですね。笑

身分もはっきりと分かれていたそうで、「下戸(げこ)」が「大人(だいじん)」と道ですれ違ったとき、下戸は草むらに入る。会話をするときは、ひざまずくか、うずくまる姿勢を取らなければいけなかったそう。

さて、邪馬台国の最大の関心ごとと言えば「邪馬台国はどこにあったのか?」という問題。大きく「北部九州」説と「近畿の大和」説で割れていますが、未だに決着は付いていません。皆さんは、どちらだと思いますか?

今回は以上です。
ありがとうございました。

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