飛鳥時代についてわかりやすく【3】勝者、天武天皇

前回↓

飛鳥時代についてわかりやすく【2】中大兄皇子(天智天皇)と鎌足の出会い

「飛鳥時代」の続きです。乙巳の変で蘇我氏が滅亡。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の運命的な出会いから、大化の改新、白村江の戦いなどを見ていきます。

に続いて、今回は天武天皇編です。
古代日本最大の戦い「壬申の乱」を経て、中央集権国家へ。

目次

飛鳥時代

壬申の乱

総勢6万人で争った、古代日本最大の内乱。
ある時期、日本の歴史教科書から消えた、皇族による軍事クーデターです。

(前回登場した)天智天皇が亡くなった翌672年、皇位継承をめぐって「壬申の乱(じんしんのらん)」が起きました。

「弟」vs「息子」の戦い。

天智天皇の大海人皇子(おおあまのみこ)」(?~686年)と

(写真は「天武天皇」/天武天皇 – Wikipediaより)

天智天皇の息子大友皇子(おおとものおうじ)」(648~672年)の戦いです。

(写真は「弘文天皇」/弘文天皇 – Wikipediaより)

結論から言うと、天智天皇の弟・大海人皇子が勝利。彼はやがて「天武天皇(てんむてんのう)」として即位します。

詳しく見ていきましょう。

天智天皇ははじめ、弟である「大海人皇子」を皇太子(次期天皇)として立て、政治に関わらせていました。しかし、671年に息子の「大友皇子」を「太政大臣(だいじょうだいじん)」につけると、「やっぱり息子を後継者にしようかな」という空気を匂わせ始めます。

血統優先の世襲制ですね。
これに、弟の大海人皇子は反対。

死の間際、天智天皇は大海人皇子に「弟よ息子を頼むぞ」と頼みますが、「私は病気なので無理です。僧になります」と言い残し、彼は奈良の吉野へ出家

天智天皇が亡くなると、ひとまず24歳の息子・大友皇子が跡を継ぎましたが、ここで出家したはずの大海人皇子が動き出します。

では、出家した彼がなぜ反乱を起こしたのか
手元の資料によると

・彼の奥さん(後の持統天皇)の意向
・天智天皇を嫌っていた豪族たちが、彼の息子に継がせたくなかった
・大友皇子の母親の血筋が良くなかった
・大海人皇子の野心。彼はこの展開を狙っていた
などの説があるそう。

彼は「白村江での大敗後の政治」に関わっているので、「豪族からの人気」も得ていたようです。

古代日本最大の、内乱がはじまります。
戦の途中経過はこんな感じ。

(写真は「乱の経過」/【壬申の乱】関ケ原町歴史民俗資料館より)

詳しく説明する力が無いので、資料を参考にまとめます。

・大友皇子(天智天皇の息子)が畿内各地で徴兵を開始。

大海人皇子(天智天皇の弟)が伊賀で謎の占いを始める。すると、伊賀の兵士数百人が彼に従った。

・大海人皇子が「伊勢神宮」の天照大神を遥拝(遠くから拝むこと)し、伊勢、尾張、美濃など、数万人の東国兵士をGet(伊勢周辺の豪族たちの心を動かしたのでしょう)。

・地図の通り戦いは進み、大海人皇子が勝利大友皇子は自害しました。

どうも「大海人皇子」は神秘的な力の使い手だったようです。昔の人はすごかったんですね。私は信じますよ、えぇ、信じますとも。

天武天皇の政治

勝利した大海人皇子は673年、飛鳥の「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」で「天武天皇(てんむてんのう)」として即位しました。

(写真は「飛鳥資料館の飛鳥浄御原宮模型」/古代史探訪より)

彼はこれまでの「大王」にかわって、「天皇」という称号を制定します。「日本」という言葉も誕生しました。

重要な役職に、「豪族」ではなく「皇后」や「皇子」などの皇族を用い政治を開始。「皇親政治(こうしんせいじ)」と言います。第二の蘇我氏誕生を、恐れたのかもしれません。

壬申の乱後、有力な豪族の力は弱まっていました。そして、天武天皇の政治によって、より一層、天皇の権力は高まっていきます。

675年、豪族の私有民である民部を廃止

681年、歴史書の編纂を開始。これが後の『日本書紀』や『古事記』となります。

682年、官人に対して、生活費・物資にあたる「食封(じきふ)」の制度改定を進めます。

おそらく683年に「富本銭(ふほんせん)」の鋳造開始(wikiより)。

(写真は「富本銭(複製品)」/富本銭 – Wikipediaより)

684年、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定。
「真人(まひと)」「朝臣(あそみ)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置(いなぎ)」の8つの姓に再編成。天皇以外の皇族にも姓を与えます。

685年、冠位が48階に拡大。

686年、天武天皇崩御

持統天皇

天武天皇の意思は、妻である鸕野讚良(うののさらら)に引き継がれました。彼女が「持統天皇(じとうてんのう)」(645~703年)として即位します。

(写真は「持統天皇」/持統天皇 – Wikipediaより)

が、彼女の即位にも、ひと悶着あったようです。

天武天皇の死後、皇太子(次期天皇)は持統天皇との子である「草壁皇子(くさかべのおうじ)」だったのですが、草壁皇子の異母兄弟で「大津皇子(おおつのみこ)」という優秀なライバルがいました。

686年、大津皇子は謀反の罪で処刑されます。謀反の内容については資料がありませんが、持統天皇が仕組んだ陰謀と言われているのだとか(wiki調べ)。

しかし、そこまでして守った「草壁皇子」は689年に死亡。

彼の息子で持統天皇の孫にあたる「軽皇子(かるのみこ)」はまだ若かったため、彼が一人前になるまで、実質的に持統天皇が政治を行うことに。ドロドロです。

689年、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」施行。

690年、戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」の作成。※6年に一度作成

692年、作成された戸籍を元に「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」。

694年、天武天皇の頃より着手していた、飛鳥の北方に位置する「藤原京(ふじわらきょう)」が完成。遷都します。

藤原京は日本初の「都城(とじょう)」で、唐に習って朱雀大路(すざくおおじ)、碁盤の目状に張り巡らされた路、左右対称を意識した「条坊制(じょうぼうせい)」などを備えた都。

(写真は「藤原京条坊」/藤原京 – Wikipediaより)

役所だけの「宮」から、都市全体を含む「京」へと変わり、役人が都に住み始めます。

697年、孫の軽皇子が「文武天皇(もんむてんのう)」(683~707年)として即位しますが、持統天皇は「太上天皇(だいじょうてんのう)」として政治の実権を握り続けます。

(写真は「文武天皇」/文武天皇 – Wikipediaより)

大宝律令

701年、日本史上初めて「(りつ)」と「(りょう)」が揃った「大宝律令(たいほうりつりょう)」を制定。文武天皇の時代です。

唐の律令に習ったもので、刑法にあたる「律」は497条、行政法・民放にあたる「令」は953条あったと考えられています。

藤原不比等(ふじわらのふひと)」「刑部親王(おさかべしんのう)」らによって、編纂が進められました。

(写真は「藤原不比等」/藤原不比等 – Wikipediaより)

刑罰には笞(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死(し)の五刑があり、貴族は減刑などの特権を得ましたが、八虐(はちぎゃく)と呼ばれる国家・天皇・尊属に対する罪には、減免・恩赦はありませんでした。

二官八省

「律令官制表」

(写真は「大宝律令(701年)官制図」/家庭教師のジャニアスより)

細かい説明になります。
「イライラする!」という方は飛ばしてください。
私も飛ばしたいです。笑

二官八省(にかんはっしょう)」
wikiを参考に、簡単に説明します。
※色分けは見やすくするためで、特に意味はありません。

二官
神祇官(じんぎかん)
朝廷の祭祀を司る官庁名。

太政官(だいじょうかん)
司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。一応、合議制。

ー「太政大臣(だいじょうだいじん)」
太政官におけるNo1。適任者がいなければ設置しない「則闕の官(そっけつのかん)」。

ー「左大臣(さだいじん)」
太政官におけるNo.2。でも、太政大臣は則闕の官なので、普段は事実上の最高位。太政官の職務を統べる議政官の首座。

ちなみに、左右で左の方が偉い理由

中国では「吉事尚左、凶事右」として左を貴ぶ老子や道教の影響で主に左が貴ばれたが、時代によって左右の貴賎が変わり、時代順に周は左を貴び、戦国・秦・漢は右を、六朝・隋・唐・宋は左を、元は右を、明・清は左を貴んだ。

左右 – Wikipediaより

ー「右大臣(うだいじん)」
太政官におけるNo.3。

ーー「大納言(だいなごん)」
1ランク下。

ーーー「左弁官(さべんかん)」
各省と、その傘下の役職の監督が主な仕事。

ーーーー「中務省(なかつかさしょう)」
天皇の補佐、詔勅の宣下など朝廷に関する職務を担う。

ーーーー「式部省(しきぶしょう)」
文官の人事、役人養成の教育機関である大学寮の統括など。

ーーーー「治部省(じぶしょう)」
姓氏に関する訴訟、戸籍関係の管理、仏事に対する監督、外国からの使節の接待など。

ーーーー「民部省(みんぶしょう)」
財政や租税などを管轄。

ーーー「少納言(しょうなごん)」
定員3名で、事務などの実務を担う。

ーーー「右弁官(うべんかん)」
各省と、その傘下の役職の監督が主な仕事。

ーーーー「兵部省(ひょうぶしょう)」
武官の人事、武器の管理や軍事防衛関連全般を担う。

ーーーー「刑部省(ぎょうぶしょう)」
司法全般を管轄。重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行など。

ーーーー「大蔵省(おおくらしょう)」
朝廷の倉庫を管轄し、朝廷の銭貨・金銀・調・貢物の出納など。

ーーーー「宮内省(くないしょう)」
宮廷の修繕や食事、掃除、医療などの庶務一切と、天皇の財産を管理。

以上が二官八省です。

一台五衛府

一台五衛府(いちだいごえふ)」
こちらもwikiを参考に。

一台
弾正台(だんじょうだい)
監察・警察機構で、中央行政の監察や京内の風俗の取り締まりを行う。

五衛府
衛門府(えもんふ)
宮門を守衛し、通行者を検察する。

左兵衛府(さひょうえふ) / 右兵衛府(うひょうえふ)
天皇やその家族の近侍・護衛。

左衛士府(さえじふ) / 右衛士府(うえじふ)
君主を警衛する、君主直属の軍人または軍団。

以上が一台五衛府。

地方(五畿七道)

五畿七道(ごきしちどう)」

(写真は「五畿七道」/五畿七道より)

畿内は「大和(やまと)」「山背(やましろ)」「摂津(せっつ)」「河内(かわち)」「和泉(いずみ)」の五国に分けられました。

さらに、七道と言われる「東海道(とうかいどう)」「東山道(とうさんどう)」「北陸道(ほくりくどう)」「山陽道(さんようどう)」「山陰道(さんいんどう)」「南海道(なんかいどう)」「西海道(さいかいどう)」に区分されます。

地方は「(こく)」「(ぐん)」「(り)」(後に郷に改称)の3段階の行政組織に分けられ(国郡里制)、それぞれに

国司中央貴族から任命。6年(のちに4年)交代。
郡司:かつての国造で地方豪族。世襲制も認められる。
里長(郷長):里の有力者。
を置いて統治させました。

直接人民と関わり支配していたのは、郡司や里長とのこと。権力を使い、汚いこともしていたようです。しかし、一番偉いのは中央から派遣された国司。中央集権国家作りが、着々と進行。

更に重要な地域には、官庁を設けました。
京には、左・右京職
摂津には、摂津職
現在の九州北部には、大宰府

税などの負担

班田収授法

戸籍を元に、碁盤目に区切られた(条里制)「口分田(くぶんでん)」が6歳以上の男女に与えられ、税が課せられました。口分田は6年に1回の支給で、亡くなった場合の回収も同じ年です。

租庸調などの税

口分田に応じて、租庸調などの厳しい税が農民に課されました。

「祖」
稲で納める税。wikiによると「田1段につき2束2把」、収穫した稲の大体3~10%程度とのこと。

国衙(国司が置かれた国)に納入されたようで、京ではなく地方に対する税でした。

「庸」
正丁(21歳~60歳の男性)と次丁(61歳以上の男性と軽度身体障害者)に対して課せられました。本来は都(京)での労役(歳役)が課せられるのですが、そんなことをすると米を作る男がいなくなってしまうので、実際には布・米・塩などで払ったとのこと。現在で言う人頭税の一種。

「調」
正丁、次丁、中男(17歳~20歳の男性)に対して課せられました。布で納めるのが基本ですが、代わりとして地方の特産品や雑物(塩・鉄・水産物など)、貨幣なども認められ、京(中央政府)の主要財源となりました。

その他
他に、地方で年間60日以内の労役などを課せる「雑徭(ぞうよう)」などがありました。

さらに、正丁3~4人に1人の割合で兵役があり、「衛士(えじ)」となって都の警備にあたったり、「防人(さきもり)」となって大宰府で三年間、北九州の防衛にあたったようです。しかも、旅費の一部は自己負担であったため、遠方から徴兵された場合、その負担は極めて重いものとなりました。

授業で習った「防人の歌」が記憶にあります。万葉集に収録されているようですが、有名なのはこの歌。

唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

(現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。(防人歌 – Wikipediaより)

税に対する厳しさを歌った歌としては「山上憶良(やまのうえのおくら)」による和歌『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)も有名です。

身分

律令制の元では「官位相当制」と呼ばれる官僚序列システムがしかれました。

(写真は東京法令「日本史のアーカイブ」/山武の世界史より)

初位(そい)から一位までの位階(いかい)がありますが、簡単に言えば「同じ位階の官職は、同じ偉さ」ということです。昇進の際も、官位が関係してきます。

五位以上の官人と家族は「貴族(きぞく)」となり、多くの特権を得ました。また、三位以上の公卿(くぎょう)の子は、大学に入学しなくても一定の位階が授けられる「蔭位の姓(おんいのせい)」というものがありました。

中央・地方諸官庁には「四等官制(しとうかんせい)」が敷かれます。
上から「長官(かみ)」、「次官(すけ)」、「判官(じょう)」、「主典(さんかん)」。省の長官は「卿(きょう)」、国司の長官は「守(かみ)」など、様々な表記方法があります。詳しく知りたい方は、検索してみてください。笑

一方、人民は公民(一般的な農民)、貴族、品部、雑戸などの「良民(りょうみん)」。そして「賤民(せんみん)」と呼ばれる不自由民の、陵戸、官戸、公奴婢、家人、私奴婢に分けられました(五色の賤)。

こうして中央集権国家作りも完成に近づき、ようやく「中国」に堂々と顔向けできるように。

大宝律令の翌702年、久方ぶりに遣唐使を派遣し、「律令」「日本という国号」「天皇という君主号」「大宝という元号」などを報告。未だ唐の作法を受ける「新羅」に対して優位を示します。

白鳳文化

最後は文化。

7世紀後半~8世紀初頭、wikiだと645年~710年における、清新な(新鮮でいきいきしている)文化を「白鳳文化(はくほうぶんか)」と呼びます。

中国風の藤原京で見られる、天皇や貴族中心の華やかな文化。仏教を中心に、西側の国から入ってきた文化も影響しているそう。

めちゃくちゃさらっと紹介します。笑

造営や維持費を、国からもらった「大寺(だいじ)」。

大官大寺(だいかんだいじ)」

(写真は「大官大寺跡」/大官大寺跡より)

薬師寺(やくしじ)」

(写真は「薬師寺」/薬師寺 – Wikipediaより)

仏像彫刻

薬師寺金堂薬師三尊像(やくしじこんどうやくしさんそんぞう)」

(写真は「薬師三尊像」/薬師寺公式サイトより)

薬師寺東院堂聖観音像(やくしじとういんどうしょうかんのんぞう)」

(写真は「聖観世音菩薩像」/薬師寺公式サイトより)

興福寺仏頭(こうふくじむっとう)」

(写真は「銅造仏頭(どうぞうぶっとう)」/法相宗大本山 興福寺より)

壁画

法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)」

(写真は「法隆寺金堂壁画」/法隆寺金堂壁画 – Wikipediaより)

高松塚古墳壁画(たかまつづかこふんへきが)」

(写真は「高松塚古墳壁画 西壁女子群像」/高松塚古墳 – Wikipediaより)

あたりが、手元の資料に載っていました。

氏寺(うじでら)は大流行し、692年に行われた調査では545か所にも達したようです。

たまにお寺を見に行きますが、歴史を知った上で見ると、なんだか距離が近くなった感じがします。

仏教だけでなく、伊勢神宮を中心とする神祇制度(しんぎせいど)も整備され、「大嘗会(だいじょうえ)」も確立されました。

文学では、白村江の戦いで「百済」から亡命してきた貴族によって広められた「漢詩(かんし)」も流行。大友皇子や大津皇子の漢詩は「懐風藻(かいふうそう)」に収められています。

古来からの歌謡は、長歌・短歌の形式が定まり、漢字を用いた本格的な「和歌(わか)」として成立。奈良時代後期にできた万葉集には「額田王(ぬかたのおおきみ)」や「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」らの作品が収録されています。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
/額田王

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
/柿本人麻呂

飛鳥時代は以上です。
ありがとうございました。

次回は>奈良時代

コメント

  1. より:

    地方組織の、国、郡、里、の郡の漢字が群になってます!

    分かりやすくて、いつも参考にしてます!ありがとうございます!