縄文時代についてわかりやすく~貝塚見つけた外国人~

前回↓

日本における旧石器時代と打製石器

打製石器を使用し移住生活をしていた「旧石器時代」。岩宿遺跡と発見者・相沢忠洋さんのエピソードも紹介します。

に続いて、今回は「縄文時代」です。
「縄文」の名付け親は、意外な人物でした。

目次

「旧石器時代」の次は、世界史だと磨製石器を使う「新石器時代」(中石器時代を含む)です。耕作が始まり、石器以外にも銅器青銅器鉄器の使用へと発展していきます。

が、日本では新石器時代を「縄文時代」と「弥生時代」に分けて考えています。

手元の資料では約1万2000年前から縄文時代に入り、2400年前まで続いたとのこと。wikiでは約1万5000年前~2300年前。世界史だと中石器時代・新石器時代に相当します。

稲作が入ってくるまでが縄文時代、という認識で良いと思います。農耕も行われた形跡があるようですが、生活基盤になるレベルではなかったそう。基本的には取ったり、獲ったりして暮らしていたようです(採集経済)。

縄文時代は約1万年も続いているんですね。その間、世界ではいくつかの文明が起こり、滅亡を繰り返しています。栄枯盛衰。

良く言えば、日本では平和な時代が長く続いたということなのかも。

氷河期も約1万年前には終わりを告げ、地球が温暖化して海水面が上昇、「日本列島」が誕生しました。日本は島国だったからこそ、長期に渡って採集経済が続いたのかもしれません。

それでは、縄文時代の特徴を見ていきましょう。

縄文時代

縄文土器

縄文土器の特徴は、縄を転がしてつけた「縄文」と呼ばれる模様です。

(写真は縄文土器 – Wikipediaより)
(写真は縄文土器 – Wikipediaより)

土器は食物の煮炊きや、貯蔵用として使われました。

土器の出現で、人々の食生活は大幅に変化します。まず、ドングリなど木の実の「アク抜き」ができる用になりました。更に、直火以外の加熱ができるようになり、調理のバリエーションが増えました。

大森貝塚

(写真はエドワード・S・モース – Wikipediaより)

「縄文」の名付け親は日本人ではなく、アメリカ人の動物学者「エドワード・S・モース」です。

日本の考古学、人類学の基礎を作り、進化論を体系的に伝えたのも彼。

モースは明治時代、助っ人外国人として東京大学の教授を務めていたときに、「大森貝塚(おおもりかいづか)」を発見します。

(写真は大森貝塚 – Wikipedia / 品川経済新聞より)
(写真は大森貝塚 – Wikipedia / 品川経済新聞より)

彼はなんと「汽車の車窓」から貝塚を発見しました。横浜駅-新橋駅間を走っている途中、「ん?あそこ、貝塚っぽくね?」と言ったかどうかはわかりませんが、東京の車窓から・・。

貝はただのゴミじゃない

ところで「貝塚」って不思議です。社会科教師は「貝塚はゴミ捨て場だったんだよ」と言っていましたが、「いやいや、どんだけ貝食うねん。ラッコか」と、心の中でツッコんだ人もいるはず(・・私だけ?)。

実は貝のおかげで、過去の遺物が消えずに残っているらしいのです。日本の土は基本的に酸性で、土に埋まってしばらく経つと、たいていのものは溶けて無くなってしまいます。

が!貝は違います。貝殻に含まれる「石灰分(炭酸カルシウム)」が、土壌を中和してくれるおかげで、貝殻は消えません。そして、貝の近くにある過去の遺物も一緒に保存されるということらしいです。

三内丸山遺跡

お次は遺跡。「三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)」(青森県)が縄文時代の遺跡として有名です。

(写真は三内丸山遺跡 – Wikipediaより)

大きい。500人規模の大規模集落跡です。

屋根のない矢倉みたいなやつは、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)というらしいです。”高い”というだけで圧倒されます。

磨製石器とその他の道具

繰り返しになりますが、縄文時代は世界史だと「新石器時代」にあたります。しかし、新石器時代の特徴である「耕作」が、縄文時代にはほとんど行われていません。狩猟、採集、漁労などで、十分食料を得ることができたのでしょう。

しかし、氷河期が終わり、気温が上昇するにつれて、大型の動物は死に絶え、すばしっこい小動物が増えてきました。

こうなると、獲物を捕らえるために、より進化した槍や弓矢などの武器が必要となります。

(写真は山口県立山口博物館より)

槍に用いる、打製石器の「尖頭器」

(写真は市原市埋蔵文化財調査センター電脳展示室より)

さらに縄文時代では、新石器時代らしく「磨製石器」の使用も始まりました。

磨製石器は、砂や研ぎ石で磨いて作る石器。包丁の刃を研ぐような感覚でしょうか。

(写真は榎戸貝塚出土骨角器/横須賀市より)

その他に、骨角器(こっかくき)なども使用していたそうです。

動物の骨や角などを加工して「釣り針」や武器の先に付ける「鏃(やじり)」に使っていたんだとか。

かなり本格的ですね。返しもちゃんと付いています。釣り針を手作りって、すごいです。こんなの根掛かりしたら、もったいなくて潜って回収しに行っちゃう。笑

(写真は丸木舟 – Wikipediaより)

木をくり抜いて作った丸木舟(まるきぶね)。

釣りをするために、船も乗りこなしていたようです。

縄文時代中期頃からは、マグロやカツオを取る「遠洋漁業」が発達、イルカ漁も始まっていたようです。想像以上に本格的な漁業です。

竪穴住居

(写真は岩淵遺跡/国見町ホームページより)

竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)も縄文時代の特徴です。

まず地面を円形や方形(四角)に窪めて、そこに柱を数本建て、梁などで固定して骨組みを作ります。その上に土、葦(ヨシもしくはアシ)などの植物で屋根を作って完成!

小学校高学年くらいなら、頑張れば「秘密基地」として一軒建てれそう。

(写真は竪穴式住居 – Wikipediaより)

骨組みはこんな感じ。

・・無理か。笑

縄文時代の文化

1万年も前の文化がわかるなんて・・考古学すごい。

アミニズム

アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。

アニミズム – Wikipedia

語源は「アニマ」。「アニメーション」の語源でもあります。

アニマ、アニミズム、『もののけ姫』ですかね。笑

アシタカの村に、たしか縄文土器あったような。

自然を畏れる人々と、そんなもの恐れるに足らんというエボシ。

科学の進んだ現代においても、日本人には少なからず、自然に対する「畏れ」を感じる心がある気がします。

サンを生贄として犬神(モロ)に捧げるというのは、やりすぎですが。

土偶と石棒

(写真は土偶 – Wikipediaより)

女性をかたどった土偶(どぐう)も縄文時代の特徴。

ちなみに埴輪(はにわ)は古墳時代(もう少し後)です。

体の一部が破壊されているケースが多いそうで、「ケガを直す、おまじない的なものなんじゃないか」という説や、土偶のほとんどが女性ということから「妊娠、子供に関係する願いや祈り、お守りなのかも」など、いくつかの説があるようです。

(写真は石棒 – Wikipediaより)

男性を象徴する石棒(せきぼう)も、縄文時代を代表する磨製石器の一つ。

生や性は、どの時代・場所でも神秘なんですね。

儀式

縄文時代の死体の埋葬方法は屈葬(くっそう)です。字の通り、手足を屈折させて体育座りのような状態で葬ります。

「死人が蘇るのを防ぐ為」という説、「胎児と同じ体勢にさせて復活を願った」という真逆の説もあります。

そして、通過儀礼で抜歯(ばっし)が行われていました。人生の節目節目に歯を抜く風習。歯に溝を掘ってフォークのようにする研歯(けんし)は、集落の統率者や呪術者の印だったとか。

テレビでよく見るのは、少数民族が通過儀礼として「入れ墨」を入れる習慣。昔テレビで「成人の証としてバンジージャンプをする」というアフリカの民族をみました。伸びない紐を足にくくりつけ、落下後に頭を少し地面にぶつけていたような記憶があります。

幼いうちに施す男子の「割礼」は、ユダヤ・キリスト・イスラム教あたりで広く行われる儀式。

縄文時代の儀式には、どんな意味があったのでしょうか。

今回は、以上です。
ありがとうございました。

次回は>弥生時代

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