奈良時代についてわかりやすく【1】平城京とせんとくん

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飛鳥時代についてわかりやすく【1】聖徳太子と蘇我氏

「飛鳥時代」に入ると次々に登場する「聖徳太子・蘇我氏・推古天皇」などの人物。古墳時代からの変化、蘇我氏と物部氏の仏教を巡る戦い、「冠位十二階の制」「十七条の憲法」を作った秘密についても触れました。

に続いて、今回は「奈良時代」です。
このページで平城京と大まかな奈良時代の紹介、次ページで藤原氏の政治、最後に奈良時代の文化を紹介します。

目次

奈良時代(ならじだい)」は、せんとくんの時代です。笑

(写真はせんとくん《OFFICIAL》twitterより)

2010年に行われた「平城遷都1300年祭」の公式マスコットキャラクター。仏様に鹿の角をぶっ刺した斬新なデザイン。ゆるキャラとして成功を収めた数少ないキャラクター、それがせんとくんです。

2010年で1300年記念ということは2010-1300=710・・なんと!いや「南都(710年)きれいな平城京」。”南都”と語呂合わせするのは、山城国(現在の京都府南部)から見て、南に奈良が位置するからでしょう。

奈良時代

奈良時代は、平安京に都を遷すまでの710年~794年を指します。

遷都くん

”せんとくん”の名の通り、実は710年~794年までの間に「平城京(710)→恭仁京(740)→紫香楽宮(74?)→難波宮(744)→平城京(745)→長岡京(784)→平安京(794)」と、何度も遷都を繰り返しているのです。※実際には行ったり来たりしているようなので、年号は参考程度に。

(写真は平城遷都1300年記念事業準備事務局資料より)

都が変わるということは、支配者(権力者)も代わります。

平安京(794)」以後は、数か月だけ「福原京(1180)」に遷都し、再び「平安京(1180)」。そして「東京(1868)」に都を遷し、現在に至ります。

目まぐるしく遷都する時代は、奈良時代で最後です。

平城京の特徴

710年、元明天皇(げんめいてんのう)のときに遷都された「平城京(へいじょうきょうorへいぜいきょう)」。

藤原京よりも北、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市あたりに位置していました(wiki調べ)。

(写真は平城京復元模型/嵐山町web博物詩より)

唐の長安に習って作られた平城京には、いくつかの特徴があります。

都城制と条坊制

飛鳥時代の藤原京と同じく、南北中央の朱雀大路左京右京を区切ります。宮(北側)から見て左・右です。南北を、東西を、碁盤目状に区切った左右対称の方形都市。

天皇の住居や役所のある「宮」と、役人たちの生活する家を含めた全体を「京」と呼びます。横の出っ張りは「外京」と呼ばれ、後から拡張されたもの。その端には東大寺がくっついています。

(写真は平城宮跡へようこそ – 奈良平城京略年表より)

朱雀門

(写真は朱雀門 – Wikipediaより)

朱雀門(すざくもん)」は、いわゆる正門。

ゲームや漫画でよく登場する朱雀(すざく)。実は中国の伝説上の神鳥で、南方を守る守護神とのこと。

朱雀門は宮城の”南”から伸びているので、朱雀門なのでしょう。鳳凰(ほうおう)、不死鳥、フェニックス、インド神話に登場するガルーダ等と同一起源とする説や、同一視されることもあるようです。

(【風水】四神相応 | i無料占いより)

南が朱雀ということは、残りの三方にもそれぞれ守護神がいます。

東を青龍西を白虎北を玄武が司ります。これらを四神(ししん)、四獣(しじゅう)、四象(ししょう)などと呼びます。

最近だと『ファイナルファンタジー零式』で、四神が出てきました。

大内裏

(大内裏 – Wikipediaより)

※↑は平安京の大内裏です(平城京の画像が見つからなかった)。

大内裏(だいだいり)」は、平城京における宮城の部分。中に、内裏(だいり)、大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)があります。

―内裏

「内裏(だいり)」は、天皇が私的に使用する場所。

―大極殿

(写真は第一次大極殿/平城宮跡ガイドより)

「大極殿(だいごくでん)」の中には玉座(高御座)があり、国家的な儀式や謁見の際に使用。

(写真は高御座 – Wikipediaより)

ちなみに、大極殿の大極は「太極」のこと。

(写真は太極 – Wikipediaより)

―朝堂院

(写真は朝堂院 – Wikipediaより)

※↑も平安京の朝堂院です。

「朝堂院(ちょうどういん)」は宮城の中心となる正殿のことで、八省院とも言われます。

その他

藤原京などと同じく、寺院東西の市、貴族・官人・庶民のなどがあり、人口は約10万人ほど。

平城宮に隣接する長屋王邸宅跡から3万5000点という大量の木簡が出土し、当時の日常や実態を知る貴重な資料となりました。

奈良時代の外交

(写真はMap of Balhae.jpg – Wikipediaより)

唐と新羅との関係

飛鳥時代に続き、唐(618~907年)との関係も継続します。遣唐使は、多い時で500人が4隻の船に分乗して海を渡るのですが、到着できる確率は低く、常に遭難の危険を伴いました。

8世紀には約20年に一度のペースで遣唐使が派遣されたようですが、問題が起きます。

新羅との関係悪化のせいで、今まで利用していた「北路」ではなく、危険な「南路」を利用せざるを得なくなりました。

(写真は遣唐使 – Wikipediaより)

663年「白村江の戦い」以後、仲良しだった百済は滅亡。新羅と唐との戦争中は、新羅が日本を頼る場面もあったのですが、渤海の成立や唐からの冊封体制を受けて、日本との友好関係を続ける必要が無くなり、なんやかんやで新羅との関係は悪化。

唐からの冊封を受けていない日本が、新羅をdisったのかもしれません。

藤原仲麻呂(706~764)のときには、新羅侵攻の計画まで立てたそう(実現せずに終わる)。一方で、商売人たちと新羅との関係は活発化したとか。経済は正直です。

遣唐使、阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ 698~770年)」は留学生として唐に渡り、時の皇帝「玄宗(げんそう)」に気に入られ、帰国を果たせず唐で客死した人物。科挙にも合格したというからすごい。同じく「藤原清河(ふじわらのきよかわ)」も帰国できなかったらしい。

同時期の留学生には、「吉備真備(きびのまきび)」や学問僧の「玄昉(げんぼう)」がいます。後で紹介する、橘諸兄のアドバイザーとなった2人。

ちなみに、皇帝の玄宗は、世界三大美人の一人と言われる「楊貴妃(ようきひ)」を”好きすぎた”皇帝としても有名。

阿倍仲麻呂といえば、小学生のときに覚えさせられた「百人一首」のイメージが強いです。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる

 三笠の山に 出(い)でし月かも

-安倍仲麿(7番)『古今集』羇旅・406-

【現代語訳】
天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は
 奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。

京都せんべい おかき専門店【長岡京小倉山荘】より

渤海との関係

ちなみに、「渤海(ぼっかい 698~926年)」とは飛鳥時代に引き続き友好関係を維持。

奈良時代の交通

駅制

書く場所が他に無いので、ここで奈良時代の交通について触れます。

飛鳥時代で紹介した「五畿七道(ごきしちどう)」のもとで、国家によって管理・整備された官道を作り、情報伝達システムとして「駅制(えきせい)」が導入されました。

16km毎に駅家(うまや)を設置。馬や食料を提供することで官吏や使者の移動効率がアップ。

官吏は駅鈴(えきれい)という鈴を朝廷より支給され、駅鈴によってサービスを受けることができたそうです。

(写真は駅鈴 – Wikipediaより)

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