奈良時代の政治についてわかりやすく【2】藤原氏と律令、お坊さんと煩悩

前回↓

奈良時代についてわかりやすく【1】平城京とせんとくん

平城京と”せんとくん”でおなじみ奈良時代について説明します。平城京の造り、RPGなどで登場する「朱雀」についても触れました。

に続いて、今回は藤原氏の政治編です。

天皇家と藤原氏の密接な関係。四兄弟の登場。民の置かれた状況を理解していった聖武天皇。巨根の道鏡に、最後まで皇族の掟を破らなかった女帝・孝謙天皇など、この時代の人間ドラマはなかなかのもの。

※長くなったのでページを分けました。記事下のボタンクリックで、2ページ目に移動します。

目次

奈良時代の政治

律令制

律令制は、飛鳥時代「大宝律令(たいほうりつりょう)」の仕組みとほぼ同じです。「律(りつ)」は現在の刑法、「令(りょう)」は行政法・民法にあたります。

律令の歴史をまとめると

近江令(おうみりょう)
668年?天智天皇の命令で中臣鎌足が編纂。原本は無く、存在が疑問視されている。

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
681年編纂開始。689年に持統天皇が施行。現存せず。

天智天皇の「息子(大友皇子)」vs「弟(大海人皇子)」でバチバチ争った「壬申の乱」で、勝利した弟・大海人皇子(天武天皇)の命令で編纂されました。

大宝律令(たいほうりつりょう)
701年制定。編纂に関わったのは刑部親王藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂など。

養老律令(ようろうりつりょう)
757年に施行。藤原不比等により大宝律令が編修されたもの。

大宝律令との違いは、実はよくわかっていないそう。大宝律令も編纂していた藤原不比等が編修していたのですが、彼が720年に亡くなったため、後の藤原仲麻呂によって757年に施行されます。

奈良時代の律令・税・身分などは、飛鳥時代と大体同じだろう・・
ということで、前回説明した

・律令と官職については「大宝律令」
・税・口分田・兵役制度については「税などの負担」
・身分については「身分」

飛鳥時代についてわかりやすく【3】勝者、天武天皇

古代日本最大の親戚バトル、大海人皇子(後の天武天皇)vs大友皇子「壬申の乱」。持統天皇の政治に、条坊制を備えた藤原京への遷都。大宝律令や白鳳文化についても見ていきます。

を参考にしてください。

蝦夷に対する政策

当時、東方(関東?・東北・北海道)に住む人々のことを「蝦夷(えみし)」と呼んでいました。

私は中学生のときに「蝦夷の”夷”は”大きな弓を持った人”。つまり、野蛮人を表す侮蔑を込めた呼び方なんだ。蘇我蝦夷も歴史の敗者なので、(記録上)後から名前を変えられたのかもしれない」と習った記憶があります。

検索で「蘇我入鹿と馬子を足すと”馬鹿(バカ)”になる」という記事を見つけました。「罪を犯した者の名前が変えられる」という風習(後で紹介する和気清麻呂→別部穢麻呂とか)があったようで、蘇我氏の一族も、後から変えられた名前なのかもしれません。

7世紀中頃から、蝦夷を支配下に置く政策が進行。日本海沿いに「蝦夷対策の拠点」を置き、周辺地域は政府の支配下となりました。

8世紀に入ってからも、征東政策は継続。712年に現在の山形・秋田県にあたる「出羽国(でわのくに)」を設置、733年に「秋田城」、724年には現在の宮城県に「多賀城(たがじょう)」を築き、蝦夷対策の拠点としました。

幾度も戦いを繰り広げましたが、特に774年~811年までの戦争を「三十八年戦争」と呼びます。途中、あの「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と「阿弖流爲(アテルイ)」のバトルも。

もののけ姫と蝦夷

余談ですが『もののけ姫』の主人公アシタカの一族も、縄文系の蝦夷一族でした。

巨大な岩を祀った投入堂(なげいれどう)みたいなとこで、おじいさんが「大和との戦に敗れ、この地に潜んでから五百有余年。いまや大和の王の力は無い、将軍どもの牙も折れたと聞く」と語ったシーン。

(写真は投入堂 – Wikipediaより)

もののけ姫の時代設定が(乱世で鉄砲があったとしても不思議ではない)室町時代(1336~1573年)あたりだとすると、その”500年”以上前の奈良時代は、まだ大和(天皇サイド)とバチバチ戦っていた頃でしょうか。

東に追いやられた蝦夷。物語ではこの後、ヒイ様(巫女ばあさん)が西の国(大和の王が住む都)に「祟り神化する最終兵器アシタカ」を送ります。笑

話を戻し、南九州(現在の鹿児島・宮崎県)で暮らしていた「隼人(はやと)」と呼ばれた人々に対しても、713年に「大隅国(おおすみのくに)」を設置。こちらは、政府の支配下に入ることとなりました。

奈良時代は、まだ「大和の王に力がある」時代です。

藤原氏とその他の政治

今回の主役、藤原氏

前回、飛鳥時代に登場した中臣鎌足。
彼が亡くなる直前、相棒の天智天皇から賜った「藤原」の姓を持つ一族。

以後長きにわたって、力を保ち続けます。

少し都市伝説的な話だと、佐藤、後藤、加藤、工藤、安藤、内藤など藤のつく苗字は、藤原氏に由来するのだとか。ただ実際には、本当の藤原氏に近い血筋ほど別の姓を名乗り、全国の藤原さんは「明治初期に勝手につけた名字」であることも多いとか。

藤原氏系図

ややこしくなったら見てください。

●藤原氏

(写真は子孫が語る藤原不比等の顕彰シンポジウムより)

天皇系図

●天皇家

(写真は歴代天皇系図(神代六)/家系図作成本舗より)

①藤原不比等(権力者) / 元明(天皇)&元正(天皇)

奈良時代の政治は、「権力者」と「天皇」を分けて考えると良いそうです。

最初の権力者は「藤原不比等(ふじわらのふひと)」。

(写真は藤原不比等 – Wikipediaより)

同時期の天皇は「元明天皇(げんめいてんのう)」(在位707-715年)と、「元正天皇(げんしょうてんのう)」(在位715-724年)。

ここまでの流れは、天武天皇→(天武の妻の)持統天皇→(天武&持統の孫の)文武天皇→(文武天皇の母の)元明天皇→(文武天皇の姉の)元正天皇

息子の文武天皇が707年に亡くなったので、元明天皇が後を継いで即位しました。その次の元正天皇は、元明天皇の娘であり文武天皇の姉。

飛鳥時代でもちょこちょこ名前が出てきた藤原不比等。彼は藤原鎌足(中臣鎌足)の息子(次男?)です。

さて、前回の流れから考えて、おかしな点が一つあります。

「中臣鎌足(藤原鎌足)って、中大兄皇子(天智天皇)とタッグを組んで、乙巳の変で蘇我氏倒してブイブイいわせてたけど、壬申の乱(天智天皇の弟vs息子)で天智天皇の弟(大海人皇子→天武天皇)が勝利した後、没落したんじゃねぇの?」という点。

どうやら、そんなこと無かったようです。不比等は持統天皇(天武天皇の皇后)にかなり信頼されていたようで、大宝律令の編纂にも関わっていますし、養老律令も不比等。

不比等が活躍するのは、天武天皇が崩御して持統天皇が実権を握るようになってからです。

外戚関係

天武&持統夫婦の孫・文武天皇の夫人として、藤原不比等の長女「宮子(みやこ)」が入内。藤原氏のターニングポイント、出世コース定番の外戚関係です。

その文武天皇と宮子の子が、後の聖武天皇。藤原京から平城京への遷都も、藤原不比等が中心となって行います。

「天皇の奥さんが自分の血筋になると、そんなに力持てるの?」と(わたし含め)不思議に思う方もいるでしょう。

当時のシステムとして妻問婚(つまどいこん)というものがあり、男が女の家に夜な夜な通うという形態をとっていました。更に時代が進むと婿入婚(招婿婚)となり「夫婦でできた子供は妻の家で育てる」という形式に。

「時期天皇となる子供を、わが家で育てられる」ので、外戚の影響力は相当なものとなりました。その代わり、女性側の財政負担は莫大なものだったそう。

不比等で検索すると「実は天智天皇の息子だった説」「竹取物語でかぐや姫に求婚した車持皇子のモデルかもしれない説(不比等の母が車持与志古娘)」など興味深い話もちらほら。

それでは、具体的な政策など見ていきます。710年より数年遡りますが、分けるとややこしいので一緒に説明します。

708年:和同開珎

(写真は和同開珎銀銭/和同開珎 – Wikipediaより)

683年、日本初の銭貨「富本銭(ふほんせん)」が登場。

708年の「和同開珎(わどうかいちん)」は、日本初の流通貨幣。お金として流通させようとした貨幣です。

708年に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡(当時は武蔵国)で銅が産出。それを記念して元号を「和同」とし、和同開珎が鋳造・発行されます。1文で米2kgが買えたとか(wiki調べ)。

708年~963年にかけて鋳造された12種類の銅銭を「本朝(皇朝)十二銭(ほんちょうじゅうにせん)」と呼びます。

710年:平城京へ遷都

説明したので省略。

711年:蓄銭叙位令

和同開珎を流通させるため「蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)」を出します。

「一定の銭を蓄えた人には位階を与えるよ!」という方針でしたが、結局、京や畿内以外の地域では現物交換が中心で、あまり流通しなかったとか。

712年:出羽国(でわのくに)を設置

蝦夷(えみし)に対しての政策。出羽国は現在の山形・秋田県あたり。

713年には、大隅国(おおすみのくに)を設置。こちらは、隼人(はやと)に対する政策です。大隅国は、鹿児島県の東の方。

712年:『古事記』の完成

歴史書であり文学作品でもある『古事記(こじき)』。

この8年後に作られる『日本書紀』が、外国向けに作られたものであるのに対して、古事記は国内向けに作られたと言われています。古事記の方が文学的で、歴史書としては日本書紀の方が優れているそう。

学校で習った記憶では、「稗田阿礼(ひえだのあれ)」というめちゃめちゃ記憶力の良い人が、彼自身が覚えていた『帝紀』や『旧辞』の内容を声に出し、それを「太安万侶(おおのやすまろ)」らが編纂したという話でした。

ちなみに「稗田阿礼は女性だった」説、「実は藤原不比等のペンネームだった」説があるそう。

720年:『日本書紀』の完成

(写真は日本書紀(平安時代の写本)/日本書紀 – Wikipedia)

日本最古の正史(公式に編纂された王朝の歴史書)『日本書紀(にほんしょき)』。「舎人親王(とねりしんのう)」らによって作成。完成は古事記の8年後。

720年:藤原不比等 没

②長屋王(権力者) / 元正(天皇)・聖武(天皇)

藤原不比等の次は、左大臣の「長屋王(ながやのおおきみorながやおう)」。

同時期の天皇は、先ほどの元正天皇と、文武天皇&藤原宮古の子である「聖武天皇(しょうむてんのう)」(在位724-749年)。

(写真は聖武天皇 – Wikipediaより)

聖武天皇は、大仏を作らせた天皇として有名です。譲位の直前に出家したという話もあります。そして、彼の皇后が「藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)」・・不比等の娘です。

不比等の死後、政権を握った長屋王は、天武天皇の孫でした。再び天皇・皇族中心の政治「皇親政治(こうしんせいじ)」に戻った・・と安心したのも束の間。彼は自殺に追い込まれます。

彼を自殺に追い込んだとされる事件が、729年「長屋王の変」。その事件の首謀者が、不比等の息子たち「藤原四兄弟」です。※後で説明します。

722年:百万町歩開墾計画

農民に食料と道具を支給し、10日間、田地開墾に従事させる「百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)」。ちなみに、当時の日本で開墾できる土地は、百万町歩も無かったそう。

723年:三世一身の法(養老七年の格)

三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」は、後の「墾田永年私財法」の前段階みたいなやつです。

灌漑施設(池や溝)を新しく作って開墾した場合、3世代までの所有を認め、既にある灌漑施設(古い池や溝)を使った場合は、その世代に限り所有を認めるという法。

だんだん口分田を与える土地が足りなくなってきたようで「お前たちで、新しい土地を切り開け!」と煽りましたが、失敗します。

724年:聖武天皇即位

729年:長屋王の変

729年、「長屋王は左道(西洋のやばい黒魔術)を学んで、国を傾けようとしています」と密告された長屋王は、邸宅を兵に囲まれ、自殺に追い込まれました(wikiより)。

王子も自殺に追い込まれましたが、その他の関係者は許されました。藤原四兄弟によって仕組まれた事件です。

事件の原因の一つは、長屋王の正義感にあるのだとか。

あるとき、聖武天皇と藤原光明子との間に生まれた子が亡くなりました。さらに、聖武天皇と別の夫人の間に子が誕生。皇位継承の危機、藤原氏にとっては大問題です。

(後に紹介する)藤原四兄弟は、自分たちの力が及ばなくなることを危惧し、とりあえず(藤原不比等の娘の)光明子を皇后に立てて乗り切ろうとします。

しかし、「皇后になれるのは皇族だけ」というルールが存在しました。後に(天皇の血筋ではないのに)女性天皇として即位する可能性があったからでしょう。

そのルールを長屋王は主張したそうで、結果、長屋王の変で自殺。同年、藤原光明子は立后(皇后になることを定めること)を果たしています。

729年:光明皇后

「長屋王の変」の後、光明子を皇后にするとの詔が出されました。
藤原氏の思い通りに。

 

いよいよ、藤原四兄弟(藤原四子)の登場です。

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コメント

  1. 匿名 より:

    字のまちいがいありました。

  2. 匿名 より:

    ⑥道鏡(権力者) / 称徳(天皇)

    勢いのあった藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)も、後ろ盾であった光明天皇が亡くなると、次第に力を失い、恵美押勝の乱で討死。

    光明皇后 ですよね⁈