平安時代についてわかりやすく part3「寛平・延喜・天暦の治編」

前回の「平安時代-摂関政治(前期)編-」に続いて、今回は「平安時代-寛平/延喜・天暦の治編-」です。

藤原氏の摂関政治から、天皇主導で政治を行う親政に戻ります。

平安時代の年表③寛平の治

前回の続きです。891年、藤原基経が亡くなると、宇多天皇は基経の長男「藤原時平(ふじわらのときひら)」と、学者の「菅原道真(すがわらのみちざね)」を抜擢します。

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(画像は藤原時平 – Wikipediaより)

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(画像は菅原道真 – Wikipediaより)

母が藤原氏一族とは関係無かったこともあり、宇多天皇は摂政・関白を置かず親政を開始。藤原北家と関わりの無い人物も重用していきます。

宇多天皇の治世は「寛平の治(かんぴょうのち)」と称されます。

894年:遣唐使の停止

遣唐大使、菅原道真による建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」によって、遣唐使が停止(廃止)されました。

唐の内乱による衰え、渡航費用、遣唐使の危険性などから総合的に判断しての停止。道真自身、危険な渡航をしたくなかったのかもしれません。上手いこと日本に残った道真でしたが、まさかあんなことが起ころうとは・・。

民間による私的な貿易・交流は継続します。

平安時代の年表④延喜の治

醍醐天皇時代の治世を「延喜の治(えんぎのち)」と呼び、後の「天暦の治」と合わせて「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」と呼びます。

平安時代前期は藤原氏による摂関政治でしたが、ここで一度途切れます。醍醐天皇は摂関を置かず、天皇自らが主導する「親政(しんせい)」へ。三代格式の一つ「延喜格式(えんぎきゃくしき)」もこの時代です。

897年:宇多天皇譲位、醍醐天皇即位

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(画像は醍醐天皇 – Wikipediaより)

醍醐天皇(だいごてんのう)」(在位897-930年)は、宇多天皇の第一皇子。

祖父である光孝天皇が、宇多天皇を含む皇子皇女らを臣籍降下(皇族が姓を与えられて臣下の籍に降りること)させたため、醍醐天皇は臣籍身分として生まれた唯一の天皇とのこと(wiki調べ)。

最近話題の「女系天皇」で、皇籍を離脱した旧皇族を復活させるという話がありますが、宇多天皇や醍醐天皇の例を引き合いに出す人も。

901年:昌泰の変

右大臣まで上りつめた菅原道真でしたが、901年、左大臣藤原時平により大宰府へと左遷されます。これが、「昌泰の変(しょうたいのへん)」です。

道真が、娘を宇多上皇の皇子(真寂法親王)の妃としたことで、「あいつら、次の天皇狙ってんじゃねえの?」と警戒され、左遷されたとのこと。wikiによると、宇多上皇vs.醍醐天皇&藤原時平の構図が出来上がっていたとか。

なんにせよ、道長を排斥できて時平は万々歳。

902年:最後の班田収授

延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)」を出し、違法な荘園の整理・停止を命じますが、逆に各地では荘園の公認を認める動きが活発化します。

905年:古今和歌集を奏上

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(画像は「12世紀ごろの書写」古今和歌集 – Wikipediaより)

醍醐天皇の命で、万葉集に収められなかった歌を中心に「古今和歌集(こきんわかしゅう)」が編纂されました。完成したのは912年という説もあるようです。

907年:唐の滅亡

菅原道真の読み通り。

914年:意見封事十二箇条を奏上

三善清行(みよしのきよゆき)」によって、「意見封事十二箇条(いけんじゅうにかじょう)」が提出されました。

戸籍の偽造や浮浪・逃亡者の増加、有力貴族や寺社の所有する荘園問題などで、902年には班田収受がストップ。

土地と税、政治問題に対する意見書です。

926年:渤海の滅亡

日本と仲の良かった「渤海(ぼっかい)」が、半農半牧の民族「契丹(きったん)」の侵略により滅亡

平安時代の年表⑤摂関政治の復活(一時)

朱雀天皇が8歳で即位、叔父であり時平の弟「藤原忠平(ふじわらのただひら)」が摂関を務め、一時的に摂関政治が復活します

930年:清涼殿落雷事件

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(画像は清涼殿落雷事件 – Wikipediaより)

この頃、内裏の清涼殿に落雷した「清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)」をはじめ、天災が相次ぎます。大宰府に左遷された菅原道真の怨霊のせいだと考えられ、やがて道真は天神様として北野天満宮に祀られることに。

同年:醍醐天皇譲位&崩御、朱雀天皇即位

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(画像は朱雀天皇 – Wikipediaより)

朱雀天皇(すざくてんのう)」(在位930-946年)は、醍醐天皇の第十一皇子。母は基経の娘「藤原穏子」(ふじわらのおんし)。

清涼殿落雷事件をきっかけに体調を崩した醍醐天皇が、崩御。代わって、朱雀天皇が8歳で即位しました。

936年:高麗が朝鮮半島を統一

朝鮮半島を統一していた新羅で王位継承争いが起き、国が分裂(後三国時代)。新しく「高麗(こうらい)」半島を治めることに。

939年:承平・天慶の乱

承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」は、同時期に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」と「藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)」の総称です。承平・天慶の元号からそう呼ばれています。

※詳細は後でまとめて紹介します。

平安時代の年表⑥天暦の治

村上天皇時代の治世を「天暦の治(てんりゃくのち)」と呼びます。前の「延喜の治」と合わせて「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」と呼びます。

946年:朱雀天皇譲位、村上天皇即位

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(画像は村上天皇 – Wikipediaより)

村上天皇(むらかみてんのう)」(在位:946-967年)は、醍醐天皇の第十四皇子、朱雀天皇の弟。

はじめこそ藤原忠平関白を務めていましたが、彼が亡くなると摂関は置かず、親政を復活させます。でも実のところ、いろいろと周りに口出しされ、親政とは名ばかりだったそう。

958年:乾元大宝の鋳造

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(画像は「乾元大寳(レプリカ)」乾元大宝 – Wikipediaより)

乾元大宝(けんげんたいほう)」は、和同開珎からはじまった、最後の本朝十二銭(皇朝十二銭)です。

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(画像は「皇朝十二銭と関連銭貨(開基勝寳は模造)」より)

和同開珎 708年(和銅元年)
万年通宝(萬年通寳) 760年(天平宝字4年)
神功開宝(神功開寳) 765年(天平神護元年)
隆平永宝(隆平永寳) 796年(延暦15年)
富寿神宝(富壽神寳) 818年(弘仁9年)
承和昌宝(承和昌寳) 835年(承和2年)
長年大宝(長年大寳) 848年(嘉祥元年)
饒益神宝(饒益神寳) 859年(貞観元年)
貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年)
寛平大宝(寛平大寳) 890年(寛平2年)
延喜通宝(延喜通寳) 907年(延喜7年)
乾元大宝(乹元大寳) 958年(天徳2年)
~皇朝十二銭 – Wikipediaより~

続きは>平安時代「摂関政治(後期)編」

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