前回↓
平安時代末期の院政。仏教大好き白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇。平清盛をはじめるとする、平氏の栄華にも注目です。
に続いて、今回は「平安時代-源平の争乱編-」です。
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「平氏にあらずんば人にあらず」。
この言葉通り、平氏は栄華を極めます。しかし「おごれる人も久しからず」。平氏の世も長くは続きませんでした。
源平の争乱
源氏と平氏の戦いは、現在にまで影響を与えています。
例えば、紅白。学校の赤白帽子に、紅白歌合戦。白地に赤丸の日本の国旗も、実は源平合戦と関係しているとかいないとか。
平安時代まで、赤地に金の日輪「錦の御旗(にしきのみはた)」が与えられていました。
官軍を主張する平氏は、御旗の色の赤旗をかかげ、対する源氏は白旗をかかげました。源氏は、御旗にちなんで白地赤丸の旗を使用。
その後、代々武家政権は源氏の末裔であると名乗り(たがり)、今に至るとのこと(wiki調べ)。
1177年:鹿ケ谷の陰謀
ここまでの流れ
平氏が政治の実権を握ると、中央の官職は次々と平氏関係者に独占されていきます。
かつて重要ポストについていた貴族たちから募る、不満の声。
前回説明した「平治の乱」で、幽閉された「後白河上皇」と「二条天皇」を結果的に助けた清盛。
しかし、1161年、後白河天皇に「憲仁親王(高倉天皇)」が生まれると、彼を立太子する動きに二条天皇が怒り、院政を停止。
後白河上皇と二条天皇が対立する中、清盛は二条天皇を支持することに。清盛の妻「時子(ときこ)」が二条天皇の乳母だったからとも言われています。
ただ、1164年の蓮華王院造営や、三十三間堂の千体千手観音立像安置など、清盛は後白河上皇に対する配慮も忘れず、上手く立ち回っていたようです。
1165年、二条天皇が崩御すると、徐々に院政派が力を取り戻していきます。清盛の出家後、同じく出家した後白河上皇(法皇)とは良い関係だったようですが・・。1169年、延暦寺の僧たちが尾張国知行国主「藤原成親」の流罪を訴え、起こした強訴「嘉応の強訴(かおうのごうそ)」を巡って、政治的な対立状態に。
勢力を増していく清盛に対して、後白河上皇、院政は徐々に苛立ちを感じ始め、1176年、二人の関係を留めていた「滋子(しげこ)」(建春門院)の死を期に、対立は深まります。※後白河上皇の妃「滋子」は、平清盛の妻「時子」の異母妹で、高倉天皇の母。
平氏の擁立する高倉天皇には皇子がおらず、「今、高倉を譲位させれば、大きな顔をしている平氏を遠ざけられる・・」と思ったかどうかはわかりませんが、後白河上皇側は、院近臣を重要な役職に就けていきました。対する平氏側も左・右大将に一族を就け、人事を巡るバトルに。
鹿ケ谷の陰謀
※ここから「鹿ケ谷の陰謀」です。
1177年、法皇の院近臣である「藤原成親(ふじわらのなりちか)」「西光(さいこう)」「俊寛(しゅんかん)」らは、鹿ケ谷の山荘で平家打倒をたびたび計画していましたが、「多田行綱(ただゆきつな)」(源行綱)の密告により発覚。
西光は拷問を受けた後、斬首。
俊寛は薩摩国の鬼界ヶ島に流され自害。
成親は備前国に流され、食事を与えられずに死亡しました。
ちなみに、後白河上皇は処分を受けませんでした。これが「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」です。が、「平氏側のでっち上げた事件だったのでは?」という説もあります。
1179年:治承三年の政変
「鹿ヶ谷の陰謀」の後、平清盛の子「重盛(しげもり)」が病死。すると、後白河法皇の院近臣の一人が、重盛の知行国を没収。
今まで抱いていた不満が爆発し、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。院政は停止され、平氏に反対する関白以下多数の貴族が解任されました。平家による独裁状態となります。これが「治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)」です。
当然、貴族、大寺社、地方武士などの反平氏勢力は、イライラが増すばかり。
1180年~1185:治承・寿永の乱(≒源平合戦、源平の戦い)
平氏と源氏の戦いで有名な「治承・寿永の乱(源平合戦)」。
平安時代のクライマックスです。
1180年
高倉天皇と平徳子(清盛の娘)の第一皇子「安徳天皇(あんとくてんのう)」が、わずか1歳で即位。
平氏の傀儡としての高倉院政がはじまります。
5月:以仁王の挙兵
後白河上皇の皇子「以仁王(もちひとおう)」は、安徳天皇即位により「皇位継承の可能性が限りなく0」に近づいてしまいました。
おまけに荘園の一部まで没収された彼は、ある決断をします。
かつて清盛と信頼関係にあった「源頼政(みなもとのよりまさ)」(摂津源氏)と共に、挙兵を計画。
挙兵を呼びかけるため、源氏や大寺社、反平氏勢力に令旨(皇子の命令書)を出します。
しかし、直前で計画がバレてしまい、以仁王は園城寺へ逃げ込みます。そして、頼政と共に脱出。宇治川を挟んだ「橋合戦」などを経て、宇治平等院での防戦に。
やがて頼政側の仲間は次々に倒れ、もはやこれまでと、頼政は辞世の句「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」を残し腹切り自害。
以仁王は脱出しましたが、敵の矢に当たり落馬、討ち取られました(wiki調べ)。
しかし、この以仁王が諸国に伝えた「令旨(りょうじ)」が、各地の反平氏勢力に火をつけ、「治承・寿永の乱」の幕開けとなります。
6月:福原京へ遷都
※前回説明しました。
平氏の貿易港、現在の兵庫県神戸市に遷都するも、反対多数で平安京へ戻ることに。
8月:源頼朝、伊豆で挙兵
以仁王の令旨を受け取った者の一人「源頼朝(みなもとのよりとも)」が、8月17日に挙兵。
前回、1159年「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の子、頼朝。処刑を免れ、伊豆国へ流された彼の復讐劇。物語っぽい展開です。
同月:石橋山の戦い
源頼朝の流刑地となった「伊豆国(いずのくに)」。
彼はここで20年以上暮らし、その間に豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の娘「北条政子(ほうじょうまさこ)」を妻としていました。
知行国主はじめ、地方の支配者は「平氏の者」であふれていた時期。
かつての支配者だった豪族たちには、イライラが溜まっていました。そんな豪族の協力が得られるだろうと予想し、かつ源氏追討で自身にも危機が迫っていると感じた頼朝は、8月17日、北条時政らとともに挙兵。
手始めに、平時忠と懇意にあった伊豆国目代「山木兼隆(やまきかねたか)」を襲撃。討ち取ります。
次に「相模国(さがみのくに)」制圧を目指し、強力な助っ人「三浦軍との合流を予定」していました。
石橋山に陣を構える頼朝。しかし、三浦軍との合流前に「大庭景親(おおばかげちか)」率いる平氏方の軍勢に、夜戦を仕掛けました。
頼朝の300騎に対して相手は3000騎。結果、頼朝軍は敗北。数日間の山中逃亡の後、船で「安房国(あわのくに)」に逃れます。
これが「石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)」です。
10月:富士川の戦い
やっと強力な助っ人(豪族)、三浦氏と合流した頼朝。
源氏は、以前説明した「後三年合戦」(で恩賞を支払った一件)あたりから東国武士に人気があったので、その他にも多くの「東国武士」が頼朝に従いました。※土地所有権を朝廷から任されている(頼朝が土地所有権を認める)とホラを吹いて、仲間を集めた説あり。
10月6日、頼朝は先祖ゆかりの地「相模国鎌倉」に入り、根拠地とします。※後の鎌倉幕府
同じ頃、甲斐国で「甲斐源氏(かいげんじ)」、信濃国で「源義仲(みなもとのよしなか)」(木曾義仲)が挙兵。
平清盛は、孫の「平維盛(たいらのこれもり)」を総大将とする追討軍を、東国へ送ります。
平氏軍は途中、兵を集めながら進軍するも、飢えなどが重なり士気は相当低かったそう。
ちなみに、このときの平氏7万騎、頼朝20万騎という記録は誇張で、手元の資料によると実際は1/10程度だそう。
結局、平氏軍は戦わずして撤退するのですが、あの逸話が有名です。
平氏軍と源氏軍は、富士川を挟んでのにらみ合い。夜、平家軍の部隊が、源氏軍の後ろに回ろうと富士川の浅瀬に馬で乗り入れます。その時、水鳥の大群が一斉に飛び立ちました。その羽音にビビッた(源氏軍が攻めてきたと勘違いした)平氏軍は大混乱。うろたえ、逃げ惑い、撤退。
水鳥のエピソードには誇張があるという見方もありますが、とにもかくにも、戦わずして頼朝軍が勝利します。これが、「富士川の戦い(ふじがわのたたかい)」です。
その翌日、頼朝のもとに、九郎義経なるものが20騎あまりで尋ねてきます。彼が、後に語り継がれる有名人「源義経(みなもとのよしつね)」です。
頼朝は、弟の義経が駆けつけたことに感動して涙したといいます。※兄弟の出会いには諸説あるそう。
その後、頼朝は平氏軍を追って都を攻めようとはせず、しばらく鎌倉で力を蓄え、東国の反勢力を整えます。
12月:南都焼討
反平氏勢力は畿内でも活発化し、大寺社もそれに加勢。
そんな中、清盛は子の「平重衡(たいらのしげひら)」に命令し、興福寺、東大寺大仏などを焼き討ちにしました。「南都焼討(なんとやきうち)」です。
1181年
2月:平清盛、熱病に死す
南都焼討のバチが当たったのか、清盛が熱病で亡くなります。三男の「平宗盛(たいらのむねもり)」が後を任されました。
この年、降水量の減少で、西日本に「養和の飢饉(ようわのききん)」と呼ばれる大飢饉が発生。
飢饉に関して少し調べたのですが、悪い意味で刺激が強すぎたため詳細は省略します。
ちなみに、当時は死体があちこちに転がっているのが日常風景だったようで、便所も一般的ではなく、普及するのは糞尿が肥料として使えると気がついた、中世後半あたりだそう。”穢れ”に対する過剰な反応は、そうした日常も強く影響していたのかもしれません。
4月:墨俣川の戦い
めずらしく平氏勢が勝利した、おもしろい戦いです。
大仏を焼いた平重衡を総大将に、頼朝軍追討隊を再び東国へ送ります。しかし、今回は頼朝の叔父「源行家(みなもとのゆきいえ)」が、墨俣川(すのまたがわ)で待ち構えていました。
この行家が、物語的にもおもしろいキャラ。
↑このひょうきんな顔。wikiによると、頼朝に恩を売るため、この役割を請け負ったそう。
前回の富士川と同じく、川を挟んでのにらみ合い。今度は、行家側が夜の奇襲を狙って川を渡る展開に。
ひっそり川を渡った行家勢。しかし、「なんか近づいてくる奴らいるけど、あれ、服濡れてね?味方じゃないよね」と平氏軍に見破られます。結果、ボロ負け。
これが「墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)」です。
1183年
5月:倶利伽羅峠の戦い
飢餓が若干落ち着いてきた、1183年4月。平維盛を総大将とする平氏軍は、北陸道へ向かいます。北陸道で勢力を伸ばしていたのが、頼朝の1ヵ月後に挙兵した源義仲(木曾義仲)。
越前国に入った平氏軍は、義仲の兵が篭城する火打城を前にストップ。
川をせき止め、周りを湖にしていた城を、攻めることができずに困惑。しかし、城に篭っていた平泉寺長吏斉明が平氏側と内通し「柵を壊せば、水が引きますよ」と教えたため、城は落とされました。「火打城の戦い(ひうちじょうのたたかい)」です。
途中、般若野で休んでいた平氏軍に、義仲の先遣隊が夜襲をかけた「般若野の戦い(はんにゃののたたかい)」を挟み、いよいよ倶利伽羅峠(くりからとうげ)へ。
一度後退した平氏軍は、平通盛、平知度の3万騎を、能登国志保山へ。本隊の7万騎を、加賀国と越中国の境、「倶利伽羅山(砺波山)」に進めます。
対する義仲の本隊も、倶利伽羅山へと向かいました。そして、そのうちの一隊を密かに平氏軍の背後へ回します。
夜、平氏軍が寝静まった頃合いを狙い、突如大きな音をたてながら仕掛けた奇襲。驚いた平氏軍は混乱の中、敵のいない方へと逃げ惑い、倶利伽羅峠の谷底へ。
一仕事終えた義仲勢は、二手に分かれていたもう一方(3万騎)の平氏軍を倒しに向かいます。
しかし、先に向かわせていた1万騎はすでに敗走していました。その1万騎を率いていたのが「墨俣川の戦い」で服を濡らして奇襲を失敗させた、行家。※行家はちゃっかり、頼朝から義仲に乗り換えていました。
しかし、援軍として義仲の2万騎が駆けつけ無事勝利。
ちなみに、有名な「牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけて敵陣に放った」という戦術は、疑問視する声が大きいようです。
これが、「倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)」です。
7月:源義仲の上洛
源義仲たちは平氏を追って、京都に攻め入ります。
平氏は安徳天皇を連れ、三種の神器を手に、六波羅に火を放って都落ち。九州を目指し、西に逃れます。このとき、後白河上皇は比叡山に脱出しました。
ついに都に入った義仲。しかし、都は飢饉の直後。ただでさえ食糧不足で苦しむ民から、義仲のつれてきた兵たちは略奪、乱暴狼藉を働きました。義仲に政治的な配慮が乏しかったこともあり、後白河上皇にも嫌われます。
ちなみに、後白河上皇に謁見する際、義仲と行家は二人並ばず、序列を争ったそう。その後、与えられた任国についても、行家は文句を言ったそうです(wiki調べ)。
安徳天皇不在の中、後鳥羽天皇が(神器なき)即位。
10月:寿永二年十月宣旨
流れが変わります。後白河上皇は義仲に”平氏追討”を命じ、西に向かわせました。
その間、源頼朝は後白河上皇に丁寧な申状(文書)を送ります。
義仲と比較し頼朝を気に入ったのか、上皇は赦免と同時に東国の支配権を頼朝に与えました。「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」。
同月:水島の戦い
平氏追討のため平氏軍の拠点、讃岐の屋島へと向かった義仲軍。しかし、その手前の備中国水島あたりで平氏軍に敗れます。勝利した平氏軍は、これを機に力を蓄えました。「水島の戦い(みずしまのたたかい)」です。
その後、義仲の耳に、頼朝の弟「源義経」が兵を率いて都へやってくるとの情報が入ります。後白河上皇の手引きだと知った義仲は、上皇に怒りの抗議。
11月:法住寺合戦
11月、後白河上皇は義仲に対して「西に行って平氏軍を追討してこい。なに、頼朝軍と戦うだと?命令に背くということは、謀反でいいのだな?」と脅しをかけます。
このとき、上皇はしっかりと寺社などから僧兵を集め、武装化していました。上皇が呼んだ義経の軍も、すぐそこまできています。
義仲は「相手が法皇でも、敵に背中は見せられん」と、ついにバトル開始。義仲は後白河上皇、後鳥羽天皇を幽閉。政権を握り、40人以上の官人を解任させました。
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コメント
めがねたぬき
大変判り易く分解して開設されているとおもいます。私自身日本史が好きで中卒の浅知識で、市販の歴史書などを参考にしていますが、御氏の内容記事は大変参考になりました。お礼申し上げます。
ただ、できれば御氏の歴史観としての「私考」があればとおもいました。
今後も良い参考記事をお願いします。 和歌山県65才 年金生活者。
とても、わかりやすかったです!
定期考査の前日まで、源氏と平氏の戦いの内容が頭に入って来ず、諦めかけていた時に、こちらのサイトを見つけました。
丁寧に、図ものっていて、すごく頭に残って、なるほどと思えました。
おかげで、テストの点数も良かったです!
鎌倉時代からも、こちらで勉強していこうと思います。
これからも応援してます。