平安時代についてわかりやすく part8「源平合戦(治承・寿永の乱)編」

前回の「平安時代-院政編-」に続いて、今回は「平安時代-源平の争乱編-」です。

「平氏にあらずんば人にあらず」。平時忠が発したこの言葉通り、平氏は栄華を極めます。しかし、「おごれる人も久しからず」平氏の世も長くは続きませんでした。

源平の争乱

源氏と平氏の戦いは、現在まで影響を与えています。

例えば、紅白。学校の赤白帽子に、紅白歌合戦。白地に赤丸の日本の国旗も実は、源平合戦と関係しているとかしていないとか。

平安時代までは、赤地に金の日輪「錦の御旗(にしきのみはた)」が与えられていました。

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(画像は錦の御旗 – Wikipediaより)

官軍を主張する平氏は、御旗の色である赤旗をかかげ、対する源氏白旗をかかげました。源氏は、御旗にちなんで白地赤丸の旗を使用。その後、代々武家政権は源氏の末裔であると名乗り(たがり)、今に至るとのこと。(wiki調べ)

1177年:鹿ケ谷の陰謀

ここまでの流れ

平氏が政治の実権を握りはじめると、中央の官職は次々と平氏関係者に独占されていきます。

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(画像は「系図で見てみよう (天皇家/後白河帝以降)」権中納言の歴史語りより)

かつて重要ポストについていた貴族たちからは、当然不満の声が。

「平治の乱」で幽閉された後白河上皇と二条天皇を、結果助けたかたちとなった清盛。しかし、1161年、後白河天皇に憲仁親王(高倉天皇)が生まれると、彼を立太子する動きに対して二条天皇は怒り、院政を停止

後白河上皇と二条天皇が対立する中、清盛は二条天皇を支持することに。清盛の妻、時子が二条天皇の乳母だったからとも言われています。

ただ、1164年の蓮華王院造営や、三十三間堂の千体千手観音立像安置など、清盛は後白河上皇に対する配慮も忘れてはいませんでした。

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(画像は「圧倒的スケールで出迎える美しき千手観音立像群に釘付け」J-TRIP Smart Magazine関西より)

1165年、二条天皇が崩御すると、徐々に院政派が力を取り戻していきます。清盛の出家後、同じく出家した後白河上皇(法皇)とは良い関係だったようですが・・1169年、延暦寺の僧たちが尾張国知行国主「藤原成親」の流罪を訴え、起こした強訴「嘉応の強訴(かおうのごうそ)」を巡って、政治的な対立状態に。

勢力を増していく清盛に対して、後白河上皇、院政は徐々に苛立ちを感じ始め、1176年、二人の関係を留めていた「滋子(しげこ)」[建春門院]の死を期に、対立は深まります。後白河上皇の妃、滋子は平清盛の妻「時子」の異母妹で、高倉天皇の母でした。

平氏の擁立する高倉天皇には皇子がおらず、「今、高倉を譲位させれば、大きな顔をしている平氏を遠ざけられる・・」と思ったかどうかはわかりませんが、後白河上皇側は、院近臣を重要な役職に就けていきました。対する平氏側も左・右大将に一族を就け、人事を巡るバトルに。

鹿ケ谷の陰謀

※ここからが「鹿ケ谷の陰謀」です。

1177年、法皇の院近臣である「藤原成親(ふじわらのなりちか)」「西光(さいこう)」「俊寛(しゅんかん)」らは、鹿ケ谷の山荘で平家打倒をたびたび計画していましたが、「多田行綱(ただゆきつな)」[源行綱]の密告により発覚。

西光は拷問を受けた後、斬首。俊寛は薩摩国の鬼界ヶ島に流され自害。成親は備前国に流され、食事を与えられずに死亡しました。

ちなみに、後白河上皇には処分を受けませんでした。これが「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」です。が、実は平氏側のでっち上げた事件だったのでは?という説もあります。

1179年:治承三年の政変

「鹿ヶ谷の陰謀」の後、平清盛の子「重盛(しげもり)」が病死。すると、後白河法皇の院近臣の一人が、重盛の知行国を没収。

今まで抱いていた不満が爆発し、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉院政は停止され、平氏に反対する関白以下多数の貴族が解任されました。平家による独裁状態となります。これが、「治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)」です。

当然のように、貴族、大寺社、地方武士など反平氏勢力はイライラが膨らんでいきます。

1180年~1185:治承・寿永の乱(≒源平合戦、源平の戦い)

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(画像は治承・寿永の乱 – Wikipediaより)

平氏と源氏の戦いで有名な「治承・寿永の乱(源平合戦)」。平安時代のクライマックスです。

1180年

高倉天皇と平徳子(清盛の娘)の第一皇子、安徳天皇が、わずか1歳で即位平氏の傀儡としての高倉院政がはじまります。

5月:以仁王の挙兵

後白河上皇の皇子「以仁王(もちひとおう)」は、安徳天皇即位により、皇位継承の可能性が限りなく0に近づいてしまいました。さらに荘園の一部を没収された彼は、ある決断をします。

かつては清盛と信頼関係にあった「源頼政(みなもとのよりまさ)」[摂津源氏]と共に、挙兵を計画

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(画像は以仁王 – Wikipediaより)

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(画像は源頼政 – Wikipediaより)

挙兵を呼びかけるため、源氏大寺社反平氏勢力令旨(皇子の命令書)を出します。

しかし、直前で計画がバレてしまい、以仁王は園城寺へ逃げ込み、やがて頼政と共に脱出。宇治川を挟んだ「橋合戦」などを経て、宇治平等院での防戦に。

やがて、頼政側の仲間が次々に倒れ、もはやこれまでと、頼政は辞世の句「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」を残し腹切り自害。以仁王は脱出するも、敵の矢に当たり落馬、討ち取られました。(wiki調べ)

しかし、この以仁王が諸国に伝えた「令旨(りょうじ)」が、各地の反平氏勢力に火をつけ、「治承・寿永の乱」の幕開けとなります。

6月:福原京へ遷都

前回説明しました。現在の兵庫県神戸市に遷都するも、反対多数で平安京へ戻ることに。

8月:源頼朝、伊豆で挙兵

以仁王の令旨を受け取った者の一人、「源頼朝(みなもとのよりとも)」が8月17日に挙兵。

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(画像は源頼朝 – Wikipediaより)

前回、1159年「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の子、頼朝。処刑を免れ、伊豆国へ流された彼の復讐劇。物語っぽい展開です。

同月:石橋山の戦い

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(画像は歌川国芳『源頼朝石橋山旗上合戦』小田原デジタルアーカイブより)

源頼朝の流刑地となった「伊豆国(いずのくに)」。彼はここで20年以上暮らし、その間に豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の娘「北条政子(ほうじょうまさこ)」を妻とします。

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(画像は北条時政 – Wikipediaより)

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(画像は北条政子 – Wikipediaより)

知行国主をはじめ、地方の支配者は平氏の者であふれていた時期。かつての支配者だった豪族たちには、イライラが溜まっていました。彼ら豪族の協力が得られると予想し、かつ源氏追討で自身にも危機が迫っていると感じた頼朝は、8月17日、北条時政らとともに挙兵

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(画像は「治承4年の関東」石橋山の戦い – Wikipediaより)

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(画像は「石橋山の戦い」石橋山の戦い – Wikipediaより)

手始めに、平時忠と懇意にあった伊豆国目代「山木兼隆(やまきかねたか)」を襲撃、討ち取ります。

次に「相模国(さがみのくに)」制圧を目指し、強力な助っ人三浦軍との合流を予定していました。

石橋山に陣を構える頼朝。しかし、三浦軍との合流前に「大庭景親(おおばかげちか)」率いる平氏方の軍勢に、夜戦を仕掛けました。頼朝の300騎に対して相手は3000騎。結果、頼朝軍は敗北。数日間の山中逃亡の後、船で「安房国(あわのくに)」に逃れます。

これが「石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)」です。

10月:富士川の戦い

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(画像は富士川の戦い – Wikipediaより)

やっと強力な助っ人(豪族)、三浦氏と合流した頼朝。また、源氏は「後三年合戦」(で恩賞を支払った一件)あたりから東国武士に人気があったので、多くの東国武士が頼朝に従いました。※土地所有権を朝廷から任されている(頼朝が土地所有権を認める)とホラを吹いて、仲間を集めた説も。

10月6日、頼朝は先祖ゆかりの地、相模国鎌倉に入り、根拠地とします。※後の鎌倉幕府

同じ頃、甲斐国で「甲斐源氏(かいげんじ)」、信濃国で「源義仲(みなもとのよしなか)」[木曾義仲]が挙兵。

平清盛は、孫の「平維盛(たいらのこれもり)」を総大将とする追討軍を東国へ送ります。

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(画像は平維盛 – Wikipediaより)

平氏軍は途中、兵を集めながら進軍するも、飢えなどが重なり士気は相当低かったとか。ちなみに、このときの平氏7万騎、頼朝20万騎という記録は誇張で、手元の資料によると実際は1/10程度だそう。

結局、平氏軍は戦わずして撤退するのですが、その理由として、あの逸話が有名です。

平氏軍と源氏軍は、富士川を挟んでのにらみ合い。夜、平家軍の部隊が源氏軍の後ろに回ろうと、富士川の浅瀬に馬で乗り入れます。その時、水鳥の大群が一斉に飛び立ちました。その羽音にビビッた(源氏軍が攻めてきたと勘違いした)平氏軍は大混乱。うろたえ、逃げ惑い、撤退しました。

水鳥のエピソードには誇張があるという見方もありますが、とにもかくにも、戦わずして頼朝軍が勝利します。これが、「富士川の戦い(ふじがわのたたかい)」です。

その翌日、頼朝のもとに、九郎義経なるものが20騎あまりで尋ねてきました。彼が、後に語り継がれる戦をした「源義経(みなもとのよしつね)」です。

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(画像は源義経 – Wikipediaより)

頼朝は、の義経が駆けつけたことに感動して涙したといいます。※兄弟の出会いには諸説あるそう。

その後、頼朝は平氏軍を追って都を攻めようとはせず、しばらく鎌倉で力を蓄え、東国の反勢力を整えます。

12月:南都焼討

反平氏勢力は畿内でも活発化し、大寺社もそれに加勢。そんな中、清盛は子の「平重衡(たいらのしげひら)」に命令し、興福寺、東大寺大仏などを焼き討ちにしました。「南都焼討(なんとやきうち)」です。

1181年

2月:平清盛、熱病に死す。

南都焼討のバチが当たったのか、清盛が熱病で亡くなります。三男の「平宗盛(たいらのむねもり)」が後を任されました。

この年、降水量の減少で、西日本に「養和の飢饉(ようわのききん)」と呼ばれる大飢饉が発生します。

飢饉に関して少し調べたのですが、悪い意味で刺激が強すぎたため詳細は省略します。

ちなみに、当時は死体があちこちに転がっているのが日常風景だったようで、便所も一般的ではなく、普及するのは糞尿が肥料として使えると気がついた、中世後半あたり。”穢れ”に対する過剰な反応は、そうした日常も強く影響していたのかもしれません。

4月:墨俣川の戦い

めずらしく平氏勢が勝利した、おもしろい戦いです。
大仏を焼いた平重衡を総大将に、頼朝軍追討隊を再び東国へ送ります。しかし、今回は頼朝の叔父源行家(みなもとのゆきいえ)」が、墨俣川(すのまたがわ)で待ち構えていました。この行家が、物語的にもおもしろいキャラ。

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(画像は源行家 – Wikipediaより)

↑このひょうきんな顔。wikiによると、頼朝に恩を売るため、この役割を請け負ったそう。

前回の富士川と同じく、川を挟んでのにらみ合い。今度は、行家側が夜の奇襲を狙って川を渡る展開に。

ひっそり川を渡った行家勢。しかし、「なんか近づいてくる奴らいるけど、あれ、服濡れてね?味方じゃないよね」と平氏軍に見破られます。結果、ボロ負け

これが「墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)」です。

1183年

5月:倶利伽羅峠の戦い

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(画像は「倶利伽羅峠合戦の図」嵐山町web博物誌より)

飢餓が若干落ち着いてきた、1183年4月。平維盛を総大将とする平氏軍は、北陸道へ向かいます。北陸道で勢力を伸ばしていたのが、頼朝の1ヵ月後に挙兵した源義仲[木曾義仲]。

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(画像は源義仲 – Wikipediaより)

越前国に入った平氏軍は、義仲の兵が篭城する火打城を前にストップ。川をせき止め周りを湖にしていた城を、攻めることができずに困惑。しかし、城に篭っていた平泉寺長吏斉明が平氏側と内通し、「柵を壊せば、水が引きますよ」と教えたため、城は落とされました。「火打城の戦い(ひうちじょうのたたかい)」です。

途中、般若野で休んでいた平氏軍に、義仲の先遣隊が夜襲をかけた「般若野の戦い(はんにゃののたたかい)」を挟み、いよいよ倶利伽羅峠(くりからとうげ)へ。

一度後退した平氏軍は、平通盛、平知度の3万騎を、能登国志保山へ。本隊の7万騎を、加賀国と越中国の境、倶利伽羅山(砺波山)に進めます。

対する義仲の本隊も、倶利伽羅山へと向かいました。さらに、そのうち一隊は密かに平氏軍の背後に回します。夜、平氏軍が寝静まった頃合いを狙い、突如大きな音をたてながら奇襲を仕掛けました。驚いた平氏軍は、混乱の中、敵のいない方へと逃げ惑います。そして、倶利伽羅峠の谷底へ

一仕事終えた義仲勢は、二手に分かれていたもう一方(3万騎)の平氏軍を倒しに向かいます。しかし、先に向かわせていた1万騎はすでに敗走していました。その1万騎を率いていたのが、「墨俣川の戦い」で服を濡らして奇襲を失敗させた、行家。行家はちゃっかり、頼朝から義仲に乗り換えていました。

しかし、援軍として義仲の2万騎が駆けつけ無事勝利。

ちなみに、有名な牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけて敵陣に放ったという戦術は、疑問視する声が大きいようです。

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(画像は「火牛像」倶利伽羅峠の戦い – Wikipediaより)

これが、「倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)」です。

7月:源義仲の上洛

源義仲たちは平氏を追って、京都に攻め入ります。平氏は安徳天皇を連れ三種の神器を手に、六波羅に火を放って都落ち。九州を目指し、西に逃れます。このとき、後白河上皇は比叡山に脱出しました。

ついに都に入った義仲。しかし、都は飢饉の直後。ただでさえ食糧不足で苦しむ民から、義仲のつれてきた兵たちは略奪乱暴狼藉を働きました。義仲に政治的な配慮が乏しかったこともあり、後白河上皇にも嫌われます。

ちなみに、後白河上皇に謁見する際、義仲と行家は二人並ばず、序列を争ったそう。その後、与えられた任国についても、行家は文句を言ったそうです(wiki調べ)。

安徳天皇不在の中、後鳥羽天皇が(神器なき)即位。

10月:寿永二年十月宣旨

流れが変わります。後白河上皇は義仲”平氏追討”を命じ、西に向かわせました。

その間、源頼朝は後白河上皇に丁寧な申状(文書)を送ります。義仲と比べて頼朝を気に入ったのか、上皇は赦免と同時に東国の支配権を頼朝に与えました。「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」。

同月:水島の戦い

平氏追討のため平氏軍の拠点、讃岐の屋島へと向かった義仲軍。しかし、その手前の備中国水島あたりで平氏軍に敗れます。勝利した平氏軍は、これを機に力を蓄えました。「水島の戦い(みずしまのたたかい)」です。

その後、義仲の耳に、頼朝の弟「源義経」が兵を率いて都へやってくるとの情報が入ります。後白河上皇の手引きだと知った義仲は、上皇に怒りの抗議

11月:法住寺合戦

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(画像は法住寺合戦 – Wikipediaより)

11月、後白河上皇義仲に対して「西に行って平氏軍を追討してこい。なに、頼朝軍と戦うだと?命令に背くということは、謀反でいいのだな?」と脅しをかけます。

このとき、上皇はしっかりと寺社などから僧兵を集め、武装化していました。上皇が呼んだ義経の軍も、すぐそこまできています。

義仲は「相手が法皇でも、敵に背中は見せられん」と、ついにバトル開始。義仲は後白河上皇、後鳥羽天皇を幽閉政権を握り、40人以上の官人を解任させました。

1184年

1月:源義仲、征夷大将軍となる。

都は義仲の思いのまま。彼は自身を征夷大将軍に任命させ、かたちの上では官軍(朝廷に属する正規軍)となります。しかし、義経率いる鎌倉軍は、もうすぐ目の前に迫っていました。

同月:宇治川の戦い

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(画像は「宇治橋より宇治川上流を望む」宇治川の戦い – Wikipediaより)

後白河上皇から義仲追討の命を受けた頼朝。頼朝は「源範頼(みなもとののりより)」、「源義経(みなもとのよしつね)」を大将とし、軍を派遣します。

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(画像は源範頼 – Wikipediaより)

義仲も戦いを決意。義仲四天王と呼ばれる者の一人「今井兼平(いまいかねひら)」に500騎を与え、瀬田の橋を守らせます。同じく四天王の「根井行親(ねのいゆきちか)」、「楯親忠(たてちかただ)」らに300騎を与えて、宇治を守らせました。

義仲は院で待機。頼朝の派遣した範頼軍は3万騎で瀬田に、義経軍は2万5千騎で宇治へ向かいます(数はwikiより。他と同じく誇張と思われる)。

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(画像は「宇治川の戦い」宇治川の戦い – Wikipediaより)

平家物語によると、義仲勢は橋板をはがし川底にトラップ(縄?)を仕掛ける作戦をとりました。

宇治橋へとやってきた義経軍。橋板を外され、雪解け水で増水した宇治川。迂回するか、流れが収まるのを待つか考えていたところ、ふと若者が「自分、川の浅いところを調べます」と川を渡り始めようとしました。

すると、「おい、ちょっと待て」と後ろから走ってきた2人。名馬「スルスミ」に乗った梶原源太景季と、名馬「イケヅキ」に乗った佐々木四郎高綱です。

高綱より少し前に出た景季。しかし、「お前、馬の腹帯緩んでるぞ」という高綱の言葉を真に受けて、締めなおしたところ、そのスキに高綱が川へザブン。その後を追って、景季もザブン。

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(画像は「宇治川の先陣争い」宇治川の戦い – Wikipediaより)

高綱は名馬「イケヅキ」の足に絡まった縄を切って進み、無事対岸に。先陣を切り、名乗りを上げて敵陣に突撃することができました。一方、景季はかなり下流まで流されたというお話(宇治川の先陣争い)。

2人に続いて義経軍も宇治川を渡り、根井行親、楯親忠ら率いる義仲勢を倒して勝利。そのまま都に上洛します。

これが、「宇治川の戦い(うじがわのたたかい)」です。
※瀬田の今井兼平軍は未だ戦闘中。

上洛後、義経後白河上皇を確保。上皇を諦めた義仲は、瀬田の今井兼平と合流し、根拠地である北陸への逃走を試みます。が、近江国粟津にて矢に射られ、義仲は討死しました。

2月:一ノ谷の戦い

勢力を立て直した平氏は、1月には摂津国福原あたりまで進出。同じ頃、後白河上皇は、頼朝に平氏追討を命令。勢いに乗っていた範頼義経が、平氏が待つ福原へと向かいます。

ここからは、平家物語などを交えたお話。
平氏は福原に陣を構えます。北は山、南は海に囲まれた地で、東の入り口が生田の森、西の入り口が塩屋口、北の入り口が夢野口。防御陣を築き、待ち構えます。

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(画像は「一ノ谷の戦い関係図」一ノ谷の戦い – Wikipediaより)

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(画像は聴いて、わかる。源平合戦 三草山合戦より)

鎌倉勢の範頼は5万6千騎、義経が1万騎(wiki調べ)。平氏軍を東西から挟み撃ちにするため、大手(正面から攻める)の範頼は東から、搦手(からめて。後ろ側を攻める)の義経は西からと、二手に分かれて進むことに。2月4日、京を出発。このとき、矢合せ(決行日)は2月7日と定めました。

2月5日、義経軍は播磨国三草山あたりで平資盛軍と対峙。わずかな距離をとって陣をおきます。

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(画像は三草山の戦い – Wikipediaより)

夜、義経軍は民家に火を放って(その明かりで進軍)夜襲をかけ、あっという間に勝利(三草山の戦い)。

途中、義経軍は土肥実平7000騎と義経3000騎の二手に分け、さらに鵯越(ひよどりごえ)で二分。安田義定、多田行綱ら主力隊は夢野口へ。義経はわずか70騎で山の中を進み、平氏軍の裏手を目指します。

このとき、いくつかの有名な逸話で知られる義経の従者「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)」が、猟師を見つけてきて道案内をさせました。

猟師いわく「鵯越(ひよどりごえ)は馬では越えられない。鹿(しか)はまあ通ってるかな」とのこと。「鹿がいけるなら馬もいける」と確信した義経。

やがて、平氏が陣を構える一ノ谷の裏手に到着。崖の上の義経。

開戦

このタイミングで、熊谷直実・直家父子ら5騎が義経軍から離脱します。「崖から落ちるのでは、先陣もくそもない」と感じたのか、塩屋口の西城戸まで走り、先陣を名乗って開戦。敵に囲まれもう無理かと思ったそのとき、土肥実平率いる7000騎がかけつけ激戦に。

生田の戦い

武士にとって、先陣を切ることがそれほど名誉だったのか、源氏側の河原兄弟も行動に出ます。まだ星がちらつく時間帯、彼らは勝手に抜け出し、敵陣に乗り込み、名乗ります。結果、矢に射られ首を取られました。

午前6時、平氏軍の主力隊と、鎌倉勢の主力隊、範頼軍との戦闘開始。

河原兄弟が討たれたと知った梶原は、生田の森の逆茂木(さかもぎ)を除き、500騎で先駆け攻め入りました。

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(画像はお散歩・旅など – 詳細表示 – 美往来 – Yahoo!ブログより)

梶原勢の周りはすべて平氏軍。彼らは戦い駆け回ります。ふと父・梶原景時は、長男・景季(別名:源太)の姿を見失います。探させるも見つからず「先駆けも子どもらのため。源太が討たれ、私が命を長らえて何の意味があろうか」と涙。一度抜けた城に、再び戻ります。

再び戦場に戻った景時は、

「昔、八幡殿(源義家)が後三年の御戦いで、出羽国千福の金沢城をお攻めになった時、生年十六歳で先駆け、左の眼を甲の鉢付のに射付けられながら、返しの矢を射てその敵を射落とし、後代に名をあげた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一人当千の兵であるぞ。我と思う人々は、景時を討って(御大将に)お見せしろ」(平家物語 – 巻第九・二度之懸 『梶原大音声をあげて名乗りけるは…』 (原文・現代語訳)より)

と大声を上げ、敵陣に突進。景季(源太)を探し駆け回ります。すると、馬を射られ敵5人に囲まれた景季を発見。

「源太!父はここにいるぞ!死んでも敵に後ろを見せるな」。親子で3人を討ち取り、2人に傷を負わせ、「武士は進むも退くも戦機による、さあ、源太」(平家物語 – 巻第九・二度之懸 『梶原大音声をあげて名乗りけるは…』 (原文・現代語訳)より)

と、景季をつれて脱出。
梶原の二度懸け」です。

鵯越の逆落とし(坂落とし)

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(画像は「鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』」一ノ谷の戦い – Wikipediaより)

2月7日朝、ついに義経が坂を下ります。

とりあえず馬を落としてみると、無事に下った馬もいたので、「じゃあいこう」ということで、まずは義経が30騎を率いて駆け下り、残りもそれに続きます。

2町(約200m)下り、壇になっていたところでストップ。それよりさきは、十四~五丈(1丈を3mとすると、40m以上)の岩場となっていて「さすがに無理でしょ」という空気が漂います。

が、そのとき、「地元じゃ、こんなのよく駆け回ってたぜ」と佐原義連が言い放ち、先駆けて崖下へ。義経らも負けじと岩場を下り、無事到着。

華麗な登場をきめた義経軍。平氏の屋形に火をつけ、黒煙がもくもく。自陣から煙が上がり、自軍が負けたと勘違いしたのか、平氏軍は我先にと海へと逃げ、船をめぐって乗せる乗せないで切りあいに。血の海となりました。

これが「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」です。

その後、平氏軍は敗走。総大将で平清盛の三男「宗盛(むねもり)」は、安徳天皇を連れて屋島に渡ります。

※まだ平忠度、平敦盛などの逸話がありますが、終わらないので省略します。

この後、平氏の残党たちが蜂起する事件(三日平氏の乱)など反乱がおきたため、その鎮圧、治安維持のため、頼朝は武士を派遣。

義経は後白河上皇より検非違使に任ぜられ、平氏残党に対する警備、治安維持を任されます。

「官位の推挙は頼朝が一括して行うから、勝手にもらっちゃダメだよ。」という言いつけを破り、義経が勝手に官位をもらって喜んだので頼朝が怒り平氏追討メンバーから外した。というのが以前までの定説でした。しかし、近年の研究では、京都治安維持のため義経が必要で、法皇や貴族たちの声で残ったという説が有力だそう(wiki調べ)。

1185年

2月:屋島の戦い

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(画像は「屋島の古戦場」屋島の戦い – Wikipediaより)

「一ノ谷の戦い」からおよそ1年。讃岐国屋島で、源氏と平氏が再びぶつかります。

讃岐国屋島を本拠とし、力を蓄えていた平氏軍。屋島に内裏(だいり)[天皇の私的区域]を置き、水軍を使って海をかためます。

対する鎌倉勢は水軍を持っていなかったため、しばらく休戦状態に。

「一ノ谷の戦い」の後、西でたびたび平氏による襲撃事件が起きはじめると、鎮圧のため源範頼がかり出されることに。九州あたりまで伸びた範頼軍の戦線は、関門海峡を平氏側におさえられ、九州へも渡れず、食糧がつきはじめボロボロの状態に。

この状況を知った源義経は、後白河上皇に出陣の許可を得、熊野水軍など、平氏に反感を持ついくつかの水軍を味方につけ、準備完了。

平家物語などによると、暴風大波のため出港したがらない船頭や操舵手に対して「思いもよらないときを狙って攻めるからこそ、敵を討てるのだ」と言い、弓で脅し、出発。

途中、在地の武士などを味方につけ、いくつかの戦いを経て2月19日、屋島の対岸に到着。

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(画像は「屋島の戦い関係図」屋島の戦い – Wikipediaより)

干潮時に、馬で島へ渡れることを知った義経。兵力差を見破られないよう、お馴染み民家に放火し、大軍を装って屋島の城を攻撃。

攻撃は海からだと思っていた平氏軍はびっくり。さらに、義経の策により大軍に襲われたと勘違い。安徳天皇も含め、皆あわてて船で海上へと逃げ出しました。

しかし、しばらくすると平氏軍は、義経軍がたった七、八十騎で攻めてきたことに気がつきます。少し焦りすぎたと反省。少し距離をとり、しばらく弓戦と口喧嘩を挟んだ後、有名なあのシーンに。

日暮れが近づき、義経たちが一旦引き上げようとしたところ、沖の方から飾りの付いた小船が一艘、波打ち際へと漕ぎ寄せてきました。

すると、中から十八、九の美女が登場。日の丸が描かれた紅一色の扇を竿先につけ、船の側面に挟み立てています。

義経が「あれはどういうことだ?」と尋ねると、「弓の名手に、あの扇を狙って射落とせ。とのことかと思われます」と答える後藤実基。

ここで指名されたのが「那須与一(なすのよいち)」。

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(画像は那須与一 – Wikipediaより)

「射止められるか、かなり微妙です」と一度は弱気になりますが、義経が怒ったため、「御命令とあらば」と勝負を決意。

午後六時。風は激しく、波で船は揺れています。沖では平氏軍が船を並べて見物、陸では源氏軍が見守る中・・

那須与一は目を閉じ、心の中で念じます。

「南無八幡大菩薩、我が下野国の神、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させてくださいませ。これを射損じるものならば、弓を切り折り、白害して、人に再び顔を向けないつもりです。もう一度、本国へ向かわせようとお思いならば、この矢を外させなさるな」
(平家物語 – 巻第十一・那須与一『矢頃少し遠かりければ…』 (原文・現代語訳)より)

再び目を開けると、風は少し収まっています。与一は鏑矢(中が空洞の鏑を付け、射放つと鳴る矢)をとり、つがえ、引き絞り、放ちました。

鏑矢の音が長く響き渡り、扇は空へ。夕日で輝く空をヒラヒラと舞い、海に落ちました。

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(画像は「扇の的『平家物語絵巻』巻十一」屋島の戦い – Wikipediaより)

平氏と源氏、両方から感嘆の声が上がります。

しばらくすると、扇を立てていた船の中から、テンションマックスのおじさんが登場。扇が立ててあった場所で、舞い始めました。義経は射るよう命じ、与一はこの男の首も、射抜きます。

平氏側は静まり返り、源氏側からはどよめきが。
「あ、射落とした」という人あり、「情けない」という人あり、怒った平氏軍は再び攻めかかった・・というお話です。

最終的に、上陸を試みた平氏軍を義経軍は撃退。後にかけつけた鎌倉の大軍に、平氏軍は彦島に退きます。

これが「屋島の戦い(やしまのたたかい)」です。

ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』第六話の「ヤシマ作戦」では、EVA初号機が”陽電子砲”を使い、正八面体の使徒のコアを撃ち抜きます。使徒が下に伸ばした竿(ドリル)は、NERV本部に突き刺さる寸前で止まりました。


(画像はAmazonリンクです)

3月:壇ノ浦の戦い

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(画像は『安徳天皇縁起絵図』壇ノ浦の戦い – Wikipediaより)

「屋島の戦い」で敗れ、四国における拠点を失った平氏軍は、最終的に長門国彦島で孤立状態に。範頼軍は九州に渡り、西を遮断。義経軍は東から迫ります。

平家物語などによると、源氏軍に味方する兵が次々に現れ、源氏の勢力が拡大。

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(画像は「壇ノ浦」壇ノ浦の戦い – Wikipediaより)

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(画像は「火の山公園から見た関門海峡」壇ノ浦の戦い – Wikipediaより)

舞台は、壇ノ浦の海上
平氏軍の指揮を取ったのは「平知盛(たいらのとももり)」。

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(画像は平知盛 – Wikipediaより)

途中、「梶原の二度懸け」で登場した梶原景時と義経による、先陣を巡っての”同士討ち寸前の喧嘩”をはさみ、3月24日の正午、両軍が壇ノ浦で衝突し、開戦

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(画像は「壇ノ浦の戦い戦況推移図」壇ノ浦の戦い – Wikipediaより)

潮の流れが激しい関門海峡。はじめは水軍の扱いに長けた平氏軍が潮の流れに乗り、優勢に。やがて潮の流れが変わり、義経軍が平氏軍の船に乗り移り、刀でバサバサ切り倒します。

さらに平氏軍の阿波水軍が、源氏軍に寝返り、平氏軍から源氏軍に寝返る者があとを断ちません。

波が高くて岸にはあがれず、砂浜には矢を構えた源氏軍。平氏軍は、船に乗り移ってきた源氏軍によって、バサバサ殺られます。

ヤバイと感じた平知盛は、小船に乗り換え、安徳天皇のいる船へ。

※以下、平家物語 – 巻第十一(原文・現代語訳)より。

「世の中は、今やこのようであると見えてございます。見苦しいような物は、みな海へ投げ入れてくださいませ」

と言うと、船内を掃除する知盛。世の中の流れは、もはや平氏から源氏へ。海に投げ捨てる見苦しいものとは何なのか。

戦況はどうかと尋ねる女房たちに対して、知盛は「珍しい東国の男を御覧になられることでしょう」と、今にも乗り込んできそうな源氏を指して、笑えない冗談。

知盛は覚悟ができたのでしょう。(※wikiによると、「目にする」というのは「情を交わす」ことの婉曲表現で、女官たちが源氏の武者に強姦されることを示唆しているとのこと)

いよいよ、クライマックス。
安徳天皇の祖母、二位尼[平時子]は、三種の神器である八尺瓊勾玉を脇に、天叢雲剣を腰に、6歳の安徳天皇を抱えます。

「尼さま、朕をどこへ連れて行こうとするのだ」と尋ねる孫に、涙をこらえて祖母が返します。

「陛下はまだご存じないのでございましょうか。前世の十善を持つための戒を行われたお力によって、今、万乗の君主としてお生まれなさっておられますけれども、悪縁に引かれて、御運は既に尽きてしまわれました。まず東にお向きになられて、伊勢大神宮にお暇申し上げなさり、その後、西方浄土の仏によるお迎えをお受けしようとお思いになり、西にお向きになって、お念仏をお唱えください。この国は、粟散辺地(ぞくさんへんち)[辺鄙な地にある小国]といって、不快な土地でございますので、極楽浄土といってすばらしい所へお連れ申すのです」

涙を流しながら、祖母の言ったとおりになされた安徳天皇。

「波の下にも都がございますぞ」

祖母は再び孫を抱き、海へ身を投げました。

それに続き、知盛を含む平氏一門の者たちも、次々に入水。(女性は重いものを身につけ、男性は鎧の重みで海底へ)

平家物語によると、安徳天皇の母「建礼門院(けんれいもんいん)」[平徳子]は、海に身を投げ入れるも、髪に熊手をかけられて引き上げられたそう。

平氏勢力は滅亡し、源氏の勝利に終わりました。

これが「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」です。
そして、ここまでの6年にわたる内乱が、「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」でした。


(画像はAmazonリンクです)

『平家物語』祇園精舎

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

(『平家物語』冒頭より)

続きは>平安時代「弘仁・貞観文化編」

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コメント

  1. 名無しの高校生 より:

    とても、わかりやすかったです!
    定期考査の前日まで、源氏と平氏の戦いの内容が頭に入って来ず、諦めかけていた時に、こちらのサイトを見つけました。
    丁寧に、図ものっていて、すごく頭に残って、なるほどと思えました。
    おかげで、テストの点数も良かったです!
    鎌倉時代からも、こちらで勉強していこうと思います。
    これからも応援してます。