鎌倉時代についてわかりやすく【1】与える者と報いる者、武士政権の成立

前回↓

平安時代についてわかりやすく【1】平安京と桓武天皇

平安京に落ち着いた平安時代。約400年続いた時代を、わかりやすく説明します。まずは桓武天皇による遷都と蝦夷討伐。

に続いて、今回から「鎌倉時代」です。

いよいよ武士政権の誕生。

教科書を読んでいると麻痺してきますが、ほとんどのページで人が死にます。死が目の前にある時代。人は何を信じ、生きていたのか。

今回は「源義経(みなもとのよしつね)」の話と、(鎌倉時代を理解するための)用語の説明が主です。

目次

鎌倉時代とは

少しだけ平安時代に遡ります。

弟・義経と兄・頼朝

前回登場した、皇位継承確立0%の「以仁王(もちひとおう)」。

彼が「反逆者、平氏を倒すぞ!皆立ち上がれ」的な内容の「令旨(りょうじ)」を出し、各地で立ち上がった武士。

その中で、最終的に内乱を終わらせたのが「源頼朝(みなもとのよりとも)」でした。

(画像は源頼朝 – Wikipediaより)

そして、もう一人。

「源平の争乱」で大活躍した「源義経(みなもとのよしつね)」。

(画像は源義経 – Wikipediaより)

彼の物語は意外な結末へ。

争乱の後、義経は兄・頼朝に許可無く、「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」から官位をもらいます。

(画像は後白河天皇 – Wikipediaより)

関東で独立した武士の政治を行おうとしていた頼朝にとって、義経の勝手な行動は見過ごせないものだったそう。更に、独断で合戦後の処理を行うなど、義経の自由な行動が目に付くように。

どうも、後白河法皇は頼朝の力を恐れていたらしい。
法皇が兵略に優れた義経を重用したので、頼朝と後白河法皇の関係はピリピリ。

1185年5月、義経が鎌倉に帰ってくるも、頼朝は凱旋を許さず。結局彼は鎌倉に入れず、京都へ引き返すことになります。

そして同年10月、頼朝はなんと義経討伐を決断。

京の義経の邸宅が、六十余騎に襲撃されます。しかし、応戦した義経はこれに勝利。

頼朝の命令だと知った彼は、あの「源行家(みなもとのゆきいえ)」と共に頼朝打倒を決意。

(画像は源行家 – Wikipediaより)

法皇から頼朝追討の許しを得るも、頼朝討伐に賛同する武士は少なく、孤立。

そしてあろうことか、今度は法皇が「義経追討の院宣」を頼朝に出します(頼朝が法皇に圧をかけたらしい)。

1185年12月、頼朝は「義経らを捉えるため」として守護・地頭の設置を朝廷に認めさせました。※頼朝(鎌倉幕府)が支配権を広げる上で重要な出来事なんだとか。

追われる義経は、最終的に「藤原秀衡(ふじわらのひでひら)」を頼って奥州に逃れます。が、秀衡が病死。

後を継いだのは子の「藤原泰衡(ふじわらのやすひら)」でしたが、「義経を大将軍として頼朝の攻撃に備えろ!」という父の遺言を無視。

頼朝に圧力をかけられたこともあって、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)「衣川の戦い(ころもがわのたたかい)」で、義経を自害に追い込みます。義経、享年31。

勝利した泰衡は、義経の首を酒につけ、鎌倉に送りました。

しかし「義経をかくまった罪は重い!」「義経を許可なく討伐しやがって!」など理由を付けられ、逆に頼朝から攻められる事態に。結果、奥州藤原氏は滅亡しました。1189年「奥州合戦(おうしゅうかっせん)」(wikiより)。

侍所

頼朝は、さまざまな機関を設置していきます。

1180年、前回説明した「富士川の戦い」の後、「侍所(さむらいどころ)」を設置。侍所は今でいう警察にあたる組織で、頼朝の家人を統制(招集・指揮)、罪人の収監などを行いました。

侍所の長官である「別当(べっとう)」に、三浦氏の一族で頼朝の挙兵にも参加した御家人「和田義盛(わだよしもり)」が任じられました。

(画像は和田義盛 – Wikipediaより)

ちなみに「御家人(ごけにん)」とは、将軍(頼朝)と主従関係にある武士(家人=家来)に、敬意を表す”御”を付けた呼び方です。

公文所・問注所

1183年、源義仲が京都に攻め入ります。※前回説明済み

飢饉で食料不足の中、都で乱暴狼藉を働く義仲。後白河法皇は義仲に「平氏追討」を命じて、都から彼を追い出すことに成功。

そして、法皇は(後に義仲を追討することとなる)頼朝に、東国の支配権を与えます(寿永二年十月宣旨)。

東国支配の許可を得た頼朝は、1184年公文所(くもんじょ)」と「問注所(もんちゅうじょ)」を設置。

公文所は、後に「政所(まんどころ)」と改称される機関で、公文書の管理に加え一般政務財政事務を担いました。

別当には、元々朝廷に仕えていた下級官吏「大江広元(おおえのひろもと)」が任じられます。

(画像は大江広元 – Wikipediaより)

問注所は、訴訟・裁判を担う機関。長官を執事(しつじ)と呼び、下級官吏の「三善康信(みよしやすのぶ)」が任じられました。

(画像は【高校日本史B】「中央の統治機構」映像授業のTry IT (トライイット)より)

ちなみに、鎌倉時代の武士の教養レベルは低かったようで、公文所・問注所のトップが武士でない理由の一つだとか。

守護・地頭

1185年、頼朝は「義経らを捉えるため」、諸国に「守護(しゅご)」、荘園・公領に「地頭(じとう)」を任命する権利を得ます。

加えて、田1段あたり5升の兵粮米(ひょうろうまい)徴収の権利、国衙(律令制下における諸国の役所)の在庁官人を支配する権利も得ました。

守護は各国に1人、有力御家人が任じられ、国の治安維持・御家人の統制のため「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」という権限が与えられました。

大番催促(おおばんさいそく)
京と鎌倉の警護を行う「大番役(おおばんやく)」を、御家人に命令する権限。
謀反人の逮捕
殺害人の逮捕

の3つの権限に限られているのですが、権限を拡大解釈して御家人を指揮。行政にも口出ししていたようです。

地方には朝廷から「国司(こくし)」も派遣されていましたが、実際の行政は(武士を多く含む)在庁官人が握っていたそう。その武士たちを指揮したのが守護です。※国司が知事だとすると、守護は道府県警察本部長のイメージ

地頭には、頼朝と主従関係を結ぶ御家人が任命されます。地頭は各国の荘園や公領ごとに置かれ、年貢を徴収し、荘園領主または国衙に納め、土地を管理支配しました。

(画像は大犯三箇条「大番催促」「謀反人の逮捕」「殺害人の逮捕」より)

ちなみに、幕府の支配を受けない荘園・公領では、これまで通り御家人以外の(頼朝と主従関係を結んでいない)武士非御家人(ひごけにん)」が、土地を管理し税を徴収していたそうです。

鎌倉幕府の成立時期

鎌倉幕府ができたのは、1192年。
では無いらしい。

「イイクニ作ろう鎌倉幕府」時代は終わり、現在では6つの説があるそうです。

成立時期「6説」の主張
①1180年:鎌倉に頼朝の邸宅を置き、侍所を設置。
②1183年:寿永二年十月宣旨により朝廷は東国支配権を公認。
③1184年:公文所・問注所の設置。
1185年:壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、守護・地頭の任命権を得る。
⑤1190年:頼朝が権大納言・右近衛大将に任命される。
⑥1192年:征夷大将軍に任命される。

現在④1185年説が有力で、教科書も1185年を推してるんだとか。

御恩と奉公

「主人(頼朝)」と「従者(御家人)」が結んだ武士の主従関係、「御恩(ごおん)」と「奉公(ほうこう)」。

主人が従者に利益を与え(御恩)、従者もその利益に報いる(奉公)関係。

頼朝(主人)が御家人(従者)を地頭などに任命し、土地の支配権を与える(御恩)代わりに、御家人は命をかけて頼朝のため戦い、自費で番役(警備)などを務めました(奉公)。

【御恩】

将軍が、御家人を地頭などに任命し、以前から持っていた所領の所有権を保障することを「本領安堵(ほんりょうあんど)」、功績として新たな土地を与えることを「新恩給与(しんおんきゅうよ)」と呼びます。

【奉公】

将軍のため命をかけて戦う軍役の他、京都で朝廷の警備にあたる「京都大番役(きょうとおおばんやく)」、鎌倉で幕府の警備にあたる「鎌倉大番役(かまくらおおばんやく)」などを務めました。

(画像は【高校日本史B】「御恩と奉公」 | 映像授業のTry IT (トライイット)より)

封建制度

土地の給与を通じて成立する主従関係のことを封建制、封建制によって土地や人民を支配する政治・社会制度のことを「封建制度(ほうけんせいど)」と言います。

守護・地頭の設置」が日本における封建制度のターニングポイントだそうで、そういう意味でも1185年が重要(鎌倉幕府の成立時期として有力)なんだとか。

ちなみに、鎌倉時代は一人の武士が(自らの利益のため)複数の主人を持つケースも珍しくなかったそうで、「主様は、あなた一人!」ではなかったそう。

公武二元支配

「朝廷(公家)と幕府(武家)」または「荘園領主と幕府」による「公武二元支配(こうぶにげんしはい)」。鎌倉時代の特徴の一つです。

公領には、これまで通り朝廷が派遣した「国司」に加えて、幕府が「地頭」を任命し、両者が土地を支配しました。

荘園においても、荘園領主(貴族・大寺社など)が任命した「荘官(非御家人)」以外に、幕府が「地頭(御家人)」を任命し、両者が土地を支配。

更に幕府は、国に一人守護を任命し、地頭を監督させました。

(画像は日本史の基本72(16-5公武二元支配)日本史野島博之のグラサン日記より)

鎌倉政権は荘園公領制の上に成り立っていたため、幕府もはじめは国司や荘園領主と上手く関係を築いていました。しかし、荘官が地頭に代わるなど、徐々に幕府の現地支配が強まるにつれ、互いに対立していくようになります。

惣領制

武士の社会では、一族の統率者を「惣領(そうりょう)」、それ以外の武士を「庶子(しょし)」と呼び、惣領と庶子は基本的に血縁と主従関係で結ばれていました。

そして、「将軍」と「御家人(=惣領)」も主従関係で結ばれていたので、将軍が惣領に命令すると、惣領は一族を指揮し、庶子がそれに従う(戦闘や祭祀等への参加)という形になります。この体制を「惣領制(そうりょうせい)」と呼びます。

(画像はもののふの鎌倉-惣領制-より)

ちなみに、所有する土地は、庶子も含めた一族で分割相続(ぶんかつそうぞく)していた為、代を重ねるごとに一人当たりの所領が激減。鎌倉時代後期には、悲惨な状態になります。

鎌倉幕府の経済基盤

鎌倉幕府の経済基盤となっていた将軍の荘園・公領のことを「関東御領(かんとうごりょう)」と呼びます。

関東御領は、地頭職を与えられた御家人が支配しました。中でも(朝廷が)平氏から没収し、頼朝に与えた所領「平家没官領(へいけもっかんりょう)」は、500ヵ所もあったとか。

将軍(鎌倉殿)が支配した知行国(所領の支配権を持ち、収益などを得る国)を特に「関東知行国(ちぎょうこく)」または「関東御分国(かんとうごぶんこく)」と呼びます。多いときには9カ国あったそう。

そして、将軍が地頭を任命できる荘園・公領のことを「関東進止所領(かんとうしんししょりょう)」と呼びます。

鎌倉時代の続き>鎌倉時代「源頼朝編」

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