鎌倉時代の年表【2】征夷大将軍に、おれ(源頼朝)はなる!1180~1192年

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鎌倉時代についてわかりやすく【1】与える者と報いる者、武士政権の成立

鎌倉時代、日本史上初の武士政権へ。源義経の最期と奥州藤原氏の滅亡。源頼朝が設置した各機関の説明。土地を通じて結んだ主従関係、封建制度についても説明します。

に続いて、今回は「鎌倉時代-源頼朝編-」です。

源頼朝が征夷大将軍になるまでの流れを、年表で見ていきます。

鎌倉時代の年表①

まずは天皇系図。

天皇系図

(画像は「天皇系図」宮内庁より)

前回までの範囲(源平の争乱)

詳細は、前回「平安時代」で説明しましたので、流れだけ書きます。

1177年:鹿ケ谷の陰謀
1179年:治承三年の政変
1180~1185年:治承・寿永の乱(≒源平合戦、源平の戦い)
1180年
 5月:以仁王の挙兵
 6月:福原京へ遷都
 8月:源頼朝、伊豆で挙兵
 同月:石橋山の戦い
 10月:富士川の戦い
 12月:南都焼討
1181年
 2月:平清盛、熱病に死す。
 4月:墨俣川の戦い
1183年
 5月:倶利伽羅峠の戦い
 7月:源義仲の上洛
 10月:寿永二年十月宣旨
 同月:水島の戦い
 11月:法住寺合戦
1184年
 1月:源義仲、征夷大将軍となる。
 同月:宇治川の戦い
 2月:一ノ谷の戦い
1185年
 2月:屋島の戦い
 3月:壇ノ浦の戦い

ここまで。

1180年:侍所の設置

8月、源頼朝が「北条時政(ほうじょうときまさ)」、時政の娘で頼朝の妻「北条政子(ほうじょうまさこ)」らと挙兵。

10月には先祖ゆかりの地、相模国鎌倉へ入り、根拠地とします。

(画像はコラム-鎌倉風致保存会・会員ニュースからより)

富士川の戦い(10月)の後、「侍所(さむらいどころ)」を設置。

1183年:後鳥羽天皇、践祚

安徳天皇(あんとくてんのう)」が三種の神器を持ったまま都を離れ、平氏と西へ向かったため、「後鳥羽天皇(ごとばてんのう)」(在位1183-1198年)が「神器無き践祚(せんそ)」。彼は「高倉天皇(たかくらてんのう)」と「坊門殖子(ぼうもんしょくし)」の第4皇子。

(画像は後鳥羽天皇 – Wikipediaより)

同年:寿永二年十月宣旨

後白河上皇が、頼朝に東国の支配権を与えます。
寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」。

1184年:公文所、問注所を設置

一般政務を担う「公文所(くもんじょ)」、訴訟・裁判を担う「問注所(もんちゅうじょ)」を設置。公文所は、後に「政所(まんどころ)」と改称(※他に1185年説と1191年説有り/wikiより)。

1185年:頼朝が守護・地頭の任命権獲得

5月、義経の鎌倉入りを拒否。

10月、頼朝が義経討伐を決定。後白河法皇が義経追討の院宣を出し

12月、「義経らを捉えるため」として頼朝は朝廷から「守護(しゅご)」「地頭(じとう)」の任命権を獲得。

さらに、田畑1反ごとに5升の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収する権利(※貴族の反発により翌年停止)、諸国の在庁官人を支配する権利を獲得。

ちなみに、1反(たん)は米1石(こく)が収穫できる面積で、1石は大人1人が1年間に消費する米の量※現在の1反とは違うらしい)。

1食で1合、1日3合、1年で(およそ)1000合=100升。鎌倉時代だと大体360歩とのこと。※ただし鎌倉時代のマスの大きさは、わかっていないそう。秀吉による太閤検地(1582年~)以降は、大体300歩だとか。

同年:鎌倉幕府の成立(仮)

守護・地頭の任命権を得て、鎌倉幕府成立
※成立時期6説のうち、現在教科書に記載されている年。

1189年:奥州合戦

義経の自害、奥州藤原氏の滅亡「奥州合戦(おうしゅうかっせん)」。

合戦後、頼朝は「奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)」を設置し、奥州の御家人を統制します。

1190年:頼朝、右近衛大将に

11月7日、頼朝は京都へ(wikiより)。

11月9日、後白河法皇より「権大納言(ごんだいなごん)」兼「右近衛大将(うこんえのだいしょう)」に任ぜられるも、12月3日に両職とも辞任。理由は「右近衛大将になると京都で仕事をしないといけなくなり、鎌倉に帰れなくなるから」。「頼朝を近くで監視したい」という法皇の思惑は失敗。

ちなみに、大納言は大臣とともに政務を行う官職。”権””仮”という意味で、定員を超えた場合に権大納言が設置されるそうです。近衛大将は宮中を警固する近衛府の長官で、左・右に一人ずつ。

12月14日、頼朝は京都を立ち、29日鎌倉へ。

1192年:頼朝、征夷大将軍に

頼朝がなりたかったのは「大将軍」でした。

4つあった候補の中で、かつて「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」が東方の蝦夷討伐のリーダとして任ぜられた「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)が良い!」と主張し、就任。頼朝以降「征夷大将軍=武士のトップ」という認識に変化します(wikiより)。

ちなみに、後白河法皇が3月に崩御されたので、後鳥羽天皇により任ぜられました。将軍となり、朝廷公認で東日本の支配権をゲット。

※この「頼朝が征夷大将軍になった1192年」は、鎌倉幕府成立時期6説の1つで、以前までのスタンダード(イイクニツクロウ鎌倉幕府)でした。

鎌倉時代の続き>鎌倉時代「北条氏の台頭編」

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