奈良時代の政治についてわかりやすく【2】藤原氏と律令、お坊さんと煩悩

続きです。

藤原氏とその他の政治

③藤原四兄弟(権力者) / 聖武(天皇)

(写真は藤原氏 – Wikipediaより)

彼ら四兄弟は、藤原不比等の息子。
「武智麻呂」「房前」「宇合」が同母兄弟で、「麻呂」が異母兄弟です。

四兄弟はそれぞれ4つの家に分かれました。こうすることで、それぞれが重要なポジションにつくことができます。

藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」(680~737年)
藤原南家(ふじわらなんけ)開祖。

(写真は藤原武智麻呂 – Wikipediaより)

藤原房前(ふじわらのふささき)」(681~737年)
藤原北家(ふじわらほっけ)開祖。

※画像見つからず

藤原宇合(ふじわらのうまかい)」(694年~737年)
藤原式家(ふじわらしきけ)開祖。

(写真は藤原宇合 – Wikipediaより)

藤原麻呂(ふじわらのまろ)」(695年~737年)
藤原京家(ふじわらきょうけ)開祖。

※画像見つからず

彼らが行った政治を「藤原四子政権(ふじわらししせいけん)」と呼びます。

この兄弟、皆737年に亡くなっています。正式な記録は残っていないようですが、どうやら、天然痘(てんねんとう)で亡くなったそう。「海外(新羅など)からウイルスが持ち込まれたのではないか?」と言われています。

737年:藤原四兄弟、天然痘(=疱瘡)により死亡

④橘諸兄(権力者) / 聖武(天皇)・孝謙(天皇)

次は「孝謙天皇(こうけんてんのう)」(在位749-758年)。

聖武天皇と光明皇后の娘です。

(写真は孝謙天皇 – Wikipediaより)

女性として初の皇太子となり、出家。後に「称徳天皇(しょうとくてんのう)」(在位764-770年)として重祚(ちょうそ:一度退位した君主が再び即位すること)しています。

この時代の権力者は「橘諸兄(たちばなのもろえ)」。
系図で見ると

(写真は子孫が語る藤原不比等の顕彰シンポジウムより)

藤原不比等の奥さん「県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」の、前の旦那さん「美努王(みのおう)」の息子、葛城王(=橘諸兄)です。

(写真は橘諸兄 – Wikipediaより)

彼は元皇族。そしてなんと、母・県犬養三千代は藤原光明子の母親。藤原四子のおかげで皇后になれた光明皇后の、父違いの兄が橘諸兄です。うーん、繋がってる。笑

橘諸兄は、唐から帰ってきた学者「吉備真備(きびのまきび)」と、僧の「玄昉(げんぼう)」をアドバイザーとして起用。

(写真は左(上)が吉備真備 – Wikipedia/右(下)が玄ボウ – Wikipediaより)

しかし、聖武天皇の時代は疫病や干ばつによる飢饉により、荒れに荒れまくっていました。さらに、一族の反乱なども重なり、聖武天皇は追い詰められていきます。

740年:藤原広嗣の乱

天然痘で藤原四子が亡くなり、藤原氏の勢力が落ちていた頃。

橘諸兄が急に政権をとり、唐帰りの吉備真備と玄昉が出世したので、不満を抱いていたのが「藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)」。彼は、藤原四兄弟の一人の宇合(式家)の長男です。

彼が吉備真備・玄昉らの排除を求めて、九州の大宰府で起こした反乱が「藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)」。排除を求めたのは二人でしたが、もちろん諸兄に対する不満もあったのでしょう。

(写真は藤原広嗣の乱 – Wikipediaより)

結果的には、中央から派遣された兵によって鎮圧されました。

が、聖武天皇の一族である「藤原広嗣の反乱」「長屋王の謀反(とする藤原氏による陰謀)」「藤原四子の死」「疫病の流行」「飢饉」と相次ぐ不幸で、聖武天皇と光明皇后の不安は増すばかり。

その後、聖武天皇は恭仁京(くにきょう)、難波宮(なにわのみや)、紫香楽宮(しがらきのみや)、そして平城京へと遷都を繰り返すことになります。

仏教にもドップリとはまり、全国に寺を作り、あの奈良の大仏さんを作ることとなるのです。せんとくん誕生の裏には、悲しい歴史がありました。

741年:国分寺建立の詔

仏教によって国の安定を図ろうという「鎮護国家の思想(ちんごこっかのしそう)」の元、聖武天皇が各国に「国分寺(こくぶんじ)」(国分僧寺)と、「国分尼寺(こくぶんにじ)」を建てるよう命令を出した「国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」。

743年:大仏造立の詔

大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)」で作られた、東大寺の大仏

人も鹿も多い、奈良公園。観光資源を作ってくれた聖武天皇に、日本人は感謝しなければいけません。

仏教をよく知らない民に対して、目でわかる「でっかい大仏」や「荘厳なお寺」は効果的だったのでしょう。ただ、仏教で偶像崇拝ってどうなのでしょうか。

さて、でっかい大仏を造るためには、かなりの人手が必要です。そこで目をつけたのが、カリスマ坊主の「行基(ぎょうき)」。

(写真は行基 – Wikipediaより)

「奈良の大仏」を特集したテレビ番組で、必ず登場します。布教活動に「国家から与えられた資格」が必要だった時代に、禁をやぶって民衆に仏教を広めたのが行基でした。朝廷は行基を弾圧していたのですが、民衆からの人気はすさまじい。

農民に課せられた税「庸」と「調」を都に運ぶ運脚(うんきゃく)は、道中の費用を全て自己負担していました。そんな彼らのために、行基は「布施屋(ふせや)」という宿泊施設のようなものを作って施します。農民のために農業用の灌漑施設、堀、橋、道路、道場、寺院なんかも作りました(wikiより)。

こんな社会事業をやってのけた行基は、当然人気者。今まで行基を弾圧していた政府でしたが、「こんなカリスマ坊主を、使わない手はない!」と方向転換。

行基は(実質的な)大仏造立の責任者となります。

同743年:墾田永年私財法

前回の「三世一身の法」が失敗に終わったので、今度は一定の条件付きで、無期限に私有を認める「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を施行。

荘園制のはじまりです(初期荘園)。

745年:再び平城京へ

戻ってきました。

752年:東大寺大仏の開眼供養会

(写真は東大寺盧舎那仏像 – Wikipediaより)

孝謙天皇の時代。

奈良の大仏さんの眼に「瞳」を描き入れて、魂を入れる仏教儀式です。でっかい筆で描き入れるのですが、筆の後ろに長い紐(縹縷)が繋がっていて、その紐に皆で触れます。

ただでさえ苦しい時代に、大変な思いをして完成させた大仏。この日の感動は計り知れません。

大仏のつくりかた(NHK)↓

大仏のつくりかた | クリップ | NHK for School
大仏の完成には、10年の年月とのべ260万人の労力がかかりました。大陸から伝わった鋳造技術を使った、銅製の大仏本体の作り方などを紹介します。

753年:鑑真が日本に到着

(写真は鑑真 – Wikipediaより)

鑑真(がんじん)」は何度も日本への渡航に失敗し、失明しながらも日本に渡ってきた僧として有名です。753年12月26日大宰府に到着、754年3月2日朝廷に到着(wikiより)。

仏教では、新しく僧となる者に対して「授戒(じゅかい)」を行う宗派があるそうです。キリスト教でいうバプテスマ的なやつでしょうか。

当時の日本では結構いいかげんに行われていたそうで、「正しい授戒」と「より深い仏教の教え」を伝えてくれる僧を、唐で探したそう。鑑真の弟子を数人日本に連れていければ良かったのですが、危険な船旅ゆえ、渡日を希望する僧はおらず。

「じゃあ私が」と手を挙げたのが鑑真。実は鑑真、業界ではめちゃめちゃすごい人らしく、鑑真を失うことを嫌って出航を邪魔されたり難破したり・・で、ようやく日本に付いたときには失明していました。宣教師というものは皆命がけですね。

756年:橘諸兄が辞職

聖武天皇から娘の孝謙天皇へ変わると、再び藤原氏(藤原仲麻呂)の発言権が増します。藤原氏の圧力で、辞職に追い込まれたのかもしれません。

⑤藤原仲麻呂(権力者) /孝謙(天皇)・淳仁(天皇)

淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」。彼は天武天皇の孫にあたる人なのですが、このときまであまり注目されていない人でした。

彼を天皇にしたのが「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」。

注目されていなかった彼を引っ張ってきて、淳仁天皇として即位させます(孝謙天皇はまだ生きています)。藤原仲麻呂としては、淳仁天皇にめちゃめちゃ恩を売ったことになるので、もう親密度はバツグンです。

淳仁天皇は「恵美押勝(えみのおしかつ)」という、いかにも縁起の良さそうな名前を仲麻呂に与え、彼は太政大臣まで昇りつめます。

藤原仲麻呂は、藤原四子の一人で南家・藤原武智麻呂の次男。天皇が孝謙天皇になり、その母である光明皇后(藤原光明子)の後ろ盾もあって、発言権アップ。しかし、依然として孝謙上皇の権威は強かったようで、後に道鏡という謎の僧が絡んで、とんでもない方向へと進んでいきます。

757年:養老律令の施行

藤原不比等が編修した養老律令を、やっと取り戻した藤原氏の政権下で、施行。

同757年:橘奈良麻呂の乱(変)

前の権力者である橘諸兄の息子、橘奈良麻呂が起こした事件。

端的に言うと「(現在の権力者)藤原仲麻呂を倒そうとするも、逆に先制された結果、橘奈良麻呂が殺された」という事件です。

758年:淳仁天皇即位

764年:恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)

藤原恵美押勝、つまり藤原仲麻呂の乱。

(写真は藤原仲麻呂の乱 – Wikipediaより)

ここで「道鏡(どうきょう)」の登場です。天皇の座を退いていた孝謙上皇(女性)でしたが、自分の病気を祈禱によって治してくれた道鏡にドップリはまります。あまりの寵愛ぶりをみて「ちょっとやりすぎですよ」と淳仁天皇を通じて伝えた仲麻呂でしたが、それが孝謙上皇の怒りに触れ対立(本当はもっといろいろあったと思います)。

なんやかんやで仲麻呂は反乱を起こそうとしたのですが、その計画を仲間に密告され、なんやかんやで討死。淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇が重祚して、「称徳天皇(しょうとくてんのう)」となりました。

⑥道鏡(権力者) / 称徳(天皇)

勢いのあった藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)でしたが、後ろ盾の光明皇后が亡くなると、次第に力を失い「恵美押勝の乱」で討死。淳仁天皇は淡路へと流され、孝謙上皇が「称徳天皇(しょうとくてんのう)」(在位764-770年)として重祚。

ここから「道鏡(どうきょう)」のターンです。

(写真は御祭神絵巻/産経WESTより)

「称徳天皇の病を道鏡が祈祷で治し、寵愛を得るようになった」という話でした。

「本当に、祈祷で病気を治すことなんてできるのかよ?」と疑問に思う方もたくさんいるでしょう。実際に道鏡がそういった能力を使えたかはわかりませんが、宗教の布教において、こういった超能力的要素は、ある意味常識です。

「モーセが海を真っ二つに割った」ユダヤ教然り、「イエスがパンを増やした」キリスト教然り、特に才能の無い「ムハンマドが突然美しい詩をそらんじた」イスラム教然り、多くの宗教で超能力者が登場します。

今回は奈良時代なので・・例えば江戸時代にできた(奈良県天理市に本拠地をおく)「天理教」も、”手かざしで病を治す”超能力で広まっていった面もあります(今は能力者がほとんどいないと聞きます)。

しかし、これら超能力を現在の社会でほとんど見ることができないので、なんとも言えません。

話を戻し、称徳天皇と道鏡ですが、ネット上ではラブラブ説が出ています。・・道鏡巨根説も。

いい年になった孝謙天皇。女性天皇ゆえに結婚もできず、親は死に、天皇の座は大炊王(淳仁天皇)とかいうよくわからん奴にうばわれ、おまけに自分は病気にかかって・・。

そこにパッと現れた道鏡は、彼女にとってのプリンス(ある意味エンペラー)だったのかもしれません。相当な恋物語があったのでしょうが、現在日本のネット内では「巨根の道鏡」ということで盛り上がっています。歴史の楽しみ方の一つですね。

765年:道鏡が太政大臣禅師に

太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)」という、後にも先にも道鏡だけが任命された、謎のオリジナル役職。

766年:道鏡が法王に

法王は、宗教における最高指導者のこと(ローマ法王など)。

天皇と並ぶ権威を持ちます。
道鏡は昇りつめました。

769年:宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)

ここまで昇りつめた道鏡ですが、さらに上となると、残るは天皇です。

そんなある日、大分県にある宇佐八幡宮より「道鏡を皇位につければ、天下は太平となる」というお告げが伝えられます。それを聞いた道鏡は、やる気満々(←煩悩まる出し)。

しかし、称徳天皇はさすがに皇族ですから、すぐに道鏡を皇位につけることはせず、まずは確認を取ろうとしました。

そこで選ばれたのが「和気清麻呂(わけのきよまろ)」。

(写真は和気清麻呂 – Wikipediaより)

彼は急いで宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)に向かいます。そこで神託を聞いた・・のかはわかりませんが、大和に帰り、ビシッと言い放ちました。

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」

(宇佐八幡宮神託事件 – Wikipediaより)

残念ながら、道鏡は皇位につくことはできず。

おまけに「無道の人は掃除すべし」とも言われ、案の定カンカンに怒った称徳天皇は、和気清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という、ウソみたいな名前を付けて島流しに処しました。

ちなみに称徳天皇は、道鏡の故郷である現在の大阪府八尾市に「由義宮(ゆげのみや)」という都を作ろうとした(作った?)そうです。

穢麻呂もとい清麻呂のおかげで、道鏡が天皇になる事態は防げました。この裏で、式家「藤原百川(ふじわらのももかわ)」らの、道鏡に反対する動きがあったとも言われています。

770年:道鏡、去る

770年、称徳天皇が崩御されます。ほどなくして、道鏡は下野薬師寺別当として左遷され、赴任先で生涯を終えました。因果応報でしょうか。

同770年:光仁天皇即位

⑦藤原百川(権力者) / 光仁(天皇)・桓武(天皇)

藤原氏が戻ってきます。

光仁天皇(こうにんてんのう)」(在位770-781年)は、天智天皇の孫。天智系の復活です。

ただし、光仁天皇の皇后は、称徳天皇の父・聖武天皇の娘。つまり、称徳天皇の腹違いの姉妹にあたる「井上内親王(いのうえないしんのう)」。

光仁天皇の奥さんに、聖武天皇の血が流れていると言うことです。血統に対する、称徳天皇の想いが伺えます。

昨今では、女系天皇問題でいろいろあるようですが、正直、歴史に興味の無い人や、特別な信仰、信念などが無い人にとって「男でも女でもいいじゃん、男女平等!」という意見になるのは、時代的にも自然な流れ。

ただ、歴史を知って、ご先祖様がどのように血統を守ってきたかを考えると、軽はずみに答えは出せないのかなとも思います。

跡継ぎのいなかった女性天皇・孝謙天皇は、道鏡という運命?の相手が現れたにもかかわらず、結婚はしませんでした(道鏡の子は残さなかった)。

もちろん、歴史を知った上で天皇家の存在に疑問を持つ方もいるでしょう。「長期に渡って政治の中枢にいる」ということは「他の勢力を排除して(殺して)いる」ということです。天皇という身分があれば、人間以下の身分もありました。

蝦夷や非人(被差別民)が多く登場する『もののけ姫』は、天皇制のタブーに挑んでいる印象を受けます。

「平成天皇が徳のある人だったから」「昭和天皇が戦争に突き進んだから」という”記憶”だけでなく、記録(歴史)を踏まえて考えていきたい問題ですね。国の歴史に関わる「神話」って、アイデンティティ的にも重要だと思います。

話を戻し、「天武天皇系」は称徳天皇で終わり、壬申の乱で負けた側の「天智天皇系」が復活しました。淳仁天皇のときと同様、光仁天皇は藤原氏に感謝するようになるのでしょう。

政権を握ったのは「藤原百川(ふじわらのももかわ)」。

(写真は藤原百川 – Wikipediaより)

彼は、藤原四兄弟の一人で式家の祖・宇合の八男。

781年:桓武天皇即位

桓武天皇(かんむてんのう)」(在位781-806年)は、光仁天皇の息子。

(写真は桓武天皇 – Wikipediaより)

母は渡来人系の「高野新笠(たかのにいがさ)」。
聖武天皇の娘の血は、ここで途切れます。

奈良時代の続き>奈良時代「文化・生活編」

コメント

  1. 匿名 より:

    字のまちいがいありました。

  2. 匿名 より:

    ⑥道鏡(権力者) / 称徳(天皇)

    勢いのあった藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)も、後ろ盾であった光明天皇が亡くなると、次第に力を失い、恵美押勝の乱で討死。

    光明皇后 ですよね⁈

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