平安時代についてわかりやすく part7「院政編」

前回の「平安時代-源氏と平氏編-」に続いて、今回は「平安時代-院政編-」です。

中世のはじまり

このあたりから「中世(ちゅうせい)」に突入します。中世は西洋的な考え方で、日本の時代区分だと、平安時代末期(もしくは鎌倉幕府の成立)から室町時代あたりを指します。

武士(騎士)の登場とそれに伴う封建制荘園公領制など、中世ヨーロッパと比較して類似点が多く、世界史と横軸で比べるときに便利です。

中世は院政を中心に、摂関家、武家、寺社など、権力が分散した時代。政治は乱れ、法や権威によらず、実力でのし上がる時代へ。

平安時代の院政

院政とは?

院政(いんせい)」は、天皇を退いた上皇(太政天皇)が、現天皇に代わって政権を握ること。上皇となった後、実際に政治を行った者を特に「治天の君(ちてんのきみ)」と呼びます。

上皇は「院庁(いんのちょう)」と呼ばれる政務機関を置き、院庁の職員は「院司(いんし)」、主に中下級貴族で組織された上皇の側近は「院近臣(いんのきんしん)」と呼ばれ、たびたび摂関家や大寺社と対立しました。

公的な命令は「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」、私的な命令は「院宣(いんぜん)」によって伝達。院御所の北側に、上皇の警護にあたる「北面武士(ほくめんのぶし)」を設置。武士の詰所のことを特に「武者所(むしゃどころ)」と呼びました。

院政期においても摂政関白が無くなったわけではありませんが、実権を握っていたのは上皇で、平安時代末期においては、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇が有名です。

3人とも仏教が大好きで、ついには出家して法皇に。上皇と法皇を区別するのが面倒なので、ここでは基本的に上皇と書きます。

上皇の侍で有名なのが平氏藤原氏(摂関家)の侍源氏。それぞれ出世し、後に戦いに。

知行国と院分国

院政の時代、貴族の給料システムは実質的に崩壊していました。そこで、上級貴族や有力寺社に一国の支配権(知行権)を与え、「知行国主(ちぎょうこくしゅ)」とします。「知行国(ちぎょうこく)」では知行国主が自由に国司を任命でき、収益を得ました。

一方、女院(天皇・上皇と関係の近い女性)は、「院分国(いんぶんこく)」を所有し、そこからあがる収益を(朝廷から支給される)給与の代わりとします。同時に院は荘園も所有し、寄進による収益もありました。

僧兵

白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇とも仏教が大好きでした。

しかし、国から大寺院への支援金が十分でないなどの不満から、僧侶自身が武装し「僧兵(そうへい)」が大暴れ。御神木を人質強訴(強硬手段で訴えること)するなど、僧にあるまじき振る舞いをみせます。

特に影響が大きかったのは、「南都(なんと)」と呼ばれる興福寺(こうふくじ)の奈良法師と、「北嶺(ほくれい)」と呼ばれる延暦寺(えんりゃくじ)の山法師。

白河上皇が語ったとされる「三不如意(さんふにょい)」には、

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(白河天皇 – Wikipediaより)

とあります。私の思い通りにならにことの一つは、賀茂川の氾濫による水害。二つ目は、すごろくのサイコロの目(賭博の禁止令を守らなかったことを嘆いたという説もある)。そして最後が、延暦寺の山法師。当時の僧兵が、いかに上皇を困らせていたかが伺えます。

僧兵の鎮圧に武士が活躍したため、武士の中央政界への影響が、ますます大きくなりました。

平安時代の年表⑧院政

天皇系図 / 院政関係系図

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(画像は「天皇系図」宮内庁より)

院政関係系図

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(画像は「院政関係系図」図説日本史より)

1068年:後冷泉天皇譲位、後三条天皇即位

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(画像は後三条天皇 – Wikipediaより)

後冷泉天皇譲位の後、「後三条天皇(ごさんじょうてんのう)」(在位1068-1073年)が即位。後朱雀天皇と禎子内親王(ていしないしんのう)の第二皇子。摂関政治を行っていた藤原氏を直接外戚としない、170年ぶりの天皇です。

反摂関家の人物を登用、中級貴族だが学識に優れる「大江匡房(おおえのまさふさ)」なども登用し、積極的な親政を行いました。摂関政治から院政へのターニングポイントです。

1069年:延久の荘園整理令

今度の荘園整理は規模が違います。1069年延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」が出されると、公正な審査を行う機関として「記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)」[略して記録所]が設置されます。

反摂関家の人物や、天皇の側近を重要なポジションに置き、荘園領主と国司の両方から報告書を取って審査しました。

摂関家の荘園も含め不正な荘園が整理され、大きな成果をあげました。天皇人気も回復し、荘園の寄進が増加。以後、荘園と公領の区別が明確になります。

1072年:宣旨枡(延久宣旨枡)の制定

荘園整理で改めて気づいたのか、各地でバラバラだった(ます)の大きさを公的に指定しました(公定枡)。年貢を納めるときの基準となります。

1073年:後三条天皇(72年譲位/73年崩御)、白河天皇即位

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(画像は白河天皇 – Wikipediaより)

後三条天皇は譲位の後、院政を行おうとしていた説もあります。が、近年の研究では、退位の原因は病による説が有力だそう。(wiki調べ)

白河天皇(しらかわてんのう)」(在位1073-1087年)は後三条天皇の第一皇子。関白は置きましたが、政治は天皇主導の親政を目指します。彼が後に、堀河、鳥羽、崇徳天皇のときに院政を行います。

1083年:後三年合戦(後三年の役)

前回説明したので省略します。

1086年:白河天皇譲位、堀河天皇即位

白河天皇が自身の第二皇子「堀河天皇(ほりかわてんのう)」(在位:1086(1087)-1107年)に譲位、院政をはじめます。引き続き摂政関白が置かれ、はじめのうちは摂関政治、後に天皇が成人すると親政のような状態に。

仏教好きの白河上皇は出家し法皇となっていたのですが、若干22歳の摂政、藤原忠実が頼りなかったこともあり、やがて白河上皇の院政へ移行。

白河上皇に重用されたのが「平正盛(たいらのまさもり)」。伊賀国の荘園を上皇に寄進、受領や北面武士となり、「源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)」に派遣され、これを鎮圧。

1107年:堀河天皇崩御、鳥羽天皇即位

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(画像は鳥羽天皇 – Wikipediaより)

堀河天皇の崩御の後、子の「鳥羽天皇(とばてんのう)」が5歳で即位。祖父である白河法皇(上皇)の院政が本格化しますが、祖父の崩御後は彼が、崇徳・近衛・後白河天皇のときに院政を行います。

1123年:鳥羽天皇譲位、崇徳天皇即位

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(画像は崇徳天皇 – Wikipediaより)

鳥羽天皇が自身の第一皇子「崇徳天皇(すとくてんのう)」(在位1123-1142年)に譲位、上皇となります。画像は崇徳院怨霊ver.です。

鳥羽上皇のお気に入りが、正盛の子「平忠盛(たいらのただもり)」でした。貴族、そして院近臣としても重用します。

1141年:崇徳天皇譲位、近衛天皇即位

鳥羽上皇と藤原得子の第九皇子「近衛天皇(このえてんのう)」(在位1141(1142)-1155年)。どうやら、鳥羽上皇が得子を寵愛していたため、崇徳天皇に譲位を迫り、二人の子を天皇にしたとのこと。

1155年:近衛天皇崩御、後白河天皇即位

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(画像は後白河天皇 – Wikipediaより)

鳥羽上皇の第四皇子「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」(在位:1155-1158年)。彼も院政を行った治天の君として有名です。

1156年:保元の乱

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(画像は保元の乱 – Wikipediaより)

鳥羽上皇が崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇が即位。すると、ここで1つ目の問題が起きます。近衛天皇は崇徳天皇の養子となっていたにも関わらず、「弟」とみなされ(直系尊属でないので)、崇徳上皇院政を行えないという事態に。

しかし、近衛天皇は病にかかり、次は崇徳の第一皇子「重仁親王」が即位かと思われていた矢先、次は守仁(後の二条天皇)即位の流れに。結局は守仁の父、後白河天皇が即位し、崇徳の不満は爆発寸前

天皇家以外にも摂関家の対立が加わり、バトル開始。

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(画像は「保元の乱・平治の乱」聴いて、わかる。より)

このとき、「源義朝(みなもとのよしとも)」は、「平清盛(たいらのきよもり)」らとともに、後白河天皇方についたのですが、相手である崇徳上皇側には源為義(みなもとのためよし)」と、為朝(ためとも)がいました。親子同士の戦いです。

東国で戦い慣れしていた義朝は「夜襲をかけましょう」と進言。しかし、戦いを知らない貴族は卑怯なやり方に躊躇します。が、最後は義朝の案が採用され、夜襲をしかけます。火を放ち、後白河天皇方が勝利

乱が終わり、当然活躍に見合った恩賞がもらえると期待していた義朝でしたが、実際に与えられたのは左馬頭(さまのかみ)という、朝廷の馬の飼育や調教を行う役職。一方、特に何もしなかった貴族たちには重要な役職が与えられました。

また義朝は、親兄弟の命だけは助けてもらうようにと嘆願しますが、聞き入れられず、為義らは一族もろとも斬首。これが、後の平治の乱につながった・・と以前まで言われていたそうですが、近年の研究では疑問視する声もあるとか(wiki調べ)。

この戦ではじめて合戦を見た都の貴族たちは、大きな衝撃を受けます。慈円(じえん)という僧は、自身の著で、「保元の乱(ほうげんのらん)」が「武者の世」の始まりになったと記しています。

1158年:後白河天皇譲位、二条天皇即位

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(画像は二条天皇 – Wikipediaより)

二条天皇(にじょうてんのう)」(在位1158-1165年)は後白河天皇の第一皇子。引き続き、平清盛後白河上皇に重用されます。

1159年:平治の乱

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(画像は平治の乱 – Wikipediaより)

「保元の乱」の後、政治の主導権を握ったのは「信西(しんぜい)」[=藤原通憲]でした。彼は1156年に「保元の新制(ほうげんのしんせい)」を出し、荘園の整理をはじめます。

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(画像は「保元の乱・平治の乱」聴いて、わかる。より)

権力を独占する信西に対して、同じく後白河上皇の院近臣だった「藤原信頼(ふじわらののぶより)」や、その他貴族たちは不満を抱いていました。

そこで、源義朝は反信西の彼らと手を結び、信西打倒の計画を立てます。平清盛が熊野詣(熊野古道にお参り)に出かけている隙を狙って反乱を起こし、信西は地中に埋めた箱に隠れるも、掘り起こされる音に怯えて自害(wiki調べ)。

信頼側は、二条天皇と後白河上皇を幽閉

平清盛はこの事件を知ると、若干迷った末、都へ戻ることを決意。後白河上皇は脱出し、二条天皇は清盛の六波羅邸へ。天皇の命を受けた清盛は兵を上げ、信頼は処刑義朝は子の頼朝らを連れて東国へ。彼は馬も失い、なんとか尾張国野間で家来の家にたどりつくも、褒美に目のくらんだ彼らによって殺害されました。

入浴中に襲撃を受けた義朝。彼は最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだといいます。

これが「平治の乱(へいじのらん)」です。

「平治の乱」後、義朝の子である「源頼朝(みなもとのよりとも)」も捕まり処刑される予定でしたが、清盛の継母(父の再婚相手)である池禅尼(いけのぜんに)らの嘆願で助命されます。

彼は平安京から遠く東、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流されました。※蛭ヶ小島は実際には島ではありません。

頼朝は後に、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となります。

1165年:二条天皇譲位、六条天皇即位

六条天皇(ろくじょうてんのう)」(在位1165-1168年)は、二条天皇の第二皇子(第一皇子という説もある)。

1167年:平清盛が太政大臣に就任

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(画像は平清盛 – Wikipediaより)

武家(軍事貴族)として初めての太政大臣。しかし、この時点では、実権の無い、ただの名誉職に過ぎなかったとか(wiki調べ)。清盛は3ヶ月で辞任。

1168年:六条天皇譲位、高倉天皇即位

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(画像は高倉天皇 – Wikipediaより)

高倉天皇(たかくらてんのう)」(在位1168-1180年)は、後白河上皇の第7皇子。

同年、清盛は病に倒れ、出家します。

1173年:大輪田泊をを拡張

平忠盛の時代から行っていた、平氏の資金源の一つ、日宋貿易。現在の神戸港の一部にあたる「大輪田泊(おおわだのとまり)」を港とし、宋銭などの取引で莫大な利益を得ました。

九州から瀬戸内海を通って、畿内へと通じる航路の安全を願い、「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」を信仰するように。

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(画像は「世界遺産で人気がある厳島神社へ行こう(広島県・宮島)」旅の目的地に合った周辺のホテルガイドより)

清盛によって大規模な社殿が造営されました。

1177年:鹿ケ谷の陰謀

※詳細は後でまとめて紹介します。

1179年:治承三年の政変

※こちらも詳細は後でまとめて。

1180年:高倉天皇譲位、安徳天皇即位

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(画像は安徳天皇 – Wikipediaより)

安徳天皇(あんとくてんのう)」(在位1180-1185年)は高倉天皇と平徳子(たいらのとくこ)の第一皇子。1歳で即位しました。徳子は平清盛の娘で、外戚関係となります。

同年:福原京へ遷都?

現在の兵庫県神戸市中央区あたり、大輪田泊を見下ろす位置に「福原京(ふくはらきょう)」の造営計画があがります。6月に天皇、上皇たちが福原を訪れ行宮(一時的な宮殿)が置かれますが、結局もとの平安京に戻ることに。

1183年:後鳥羽天皇即位、(1185年)安徳天皇崩御

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(画像は後鳥羽天皇 – Wikipediaより)

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)」(在位1183-1198年)は、高倉天皇の第四皇子です。

続きは>平安時代「源平の争乱編」

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