奈良時代の政治についてわかりやすく-藤原氏と律令-

前回の奈良時代-平城京編-に続いて、今回は藤原氏が力を振るった政治編。藤原氏と天皇家との密接な関係に、四兄弟の登場。徐々に民の現状を理解していった聖武天皇、巨根の道鏡に、最後まで皇族の掟は破らなかった女帝の孝謙天皇など、この時代の人間ドラマもなかなかのもの。

奈良時代の政治

律令制

飛鳥時代に出てきた「大宝律令(たいほうりつりょう)」の仕組みと、ほぼ同じです。律(りつ)は刑法、令(りょう)は行政法・民法にあたります。

奈良時代までの律令の歴史をまとめると、

近江令(おうみりょう) 668年?に天智天皇の命令で中臣鎌足が編纂。原本は無く、存在が疑問視されている。

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう) 681年編纂開始。689年に持統天皇が施行。現存せず。

天智天皇の「息子(大友皇子)」vs「弟(大海人皇子)」でバチバチ争った壬申の乱で、勝利した弟の大海人皇子(天武天皇)の命令で編纂されました。

大宝律令(たいほうりつりょう) 701年制定。編纂に関わったのは刑部親王藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂など。詳しくは「大宝律令」参照。

養老律令(ようろうりつりょう) 757年に施行。藤原不比等により大宝律令が編修されたもの。

大宝律令との違いは、実はよくわかっていないそう。大宝律令も編纂していた藤原不比等が編修していたのですが、彼が720年に亡くなったため、後の藤原仲麻呂によって757年に施行されます。

奈良時代の律令・税・身分などは、飛鳥時代と大体同じだろう・・ということで、

・律令と官職などについては「大宝律令
・税・口分田・兵役制度については「税などの負担
・身分については「身分

を参考にしてください。

蝦夷に対する政策

7世紀中頃から、蝦夷(えみし)と呼んだ東方(関東?・東北・北海道)に住む人々を、支配下に置く政策が進められます。日本海沿いに置いた蝦夷対策の拠点周辺地域は、政府の支配下となりました。

8世紀にも継続して征東政策が進められ、712年に現在の山形・秋田県にあたる出羽国(でわのくに)を設置、733年に秋田城を築き、724年には現在の宮城県に多賀城(たがじょう)が築かれ、蝦夷対策の拠点となります。

以後、何度も戦いを繰り広げ、特に774年~811年までの戦争を「三十八年戦争」と呼びます。途中、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と阿弖流爲(アテルイ)のバトルも。

昔、中学の授業で「蝦夷」の”夷”は”大きな弓を持った人”、つまり、野蛮人を表す侮蔑を込めた呼び方だ!蘇我蝦夷も歴史の敗者なので、後から名前を付けられたのかもしれない・・と習った記憶があります。

検索してみると、蘇我入鹿と馬子を足すと「馬鹿(バカ)」になる、という記事を発見。罪を犯した者の名前が変えられるという風習もあったようで、蘇我氏の一族も、後から変えられた名前なのかもしれません。

蝦夷と聞くと、何と言っても『もののけ姫』を思い出します。・・前も書きましたっけ?

時代設定は室町時代でしょうから、まだまだ先の方ですね。もしかしたら奈良時代には、アシタカの一族もバリバリ栄えていたかもしれません。

話を戻し、南九州(現在の鹿児島・宮崎県)で暮らしていた隼人(はやと)と呼ばれた人々に対しても、713年に大隅国(おおすみのくに)がおかれ、こちらは政府の支配下に入ることとなりました。

藤原氏とその他の政治

ついに登場、藤原氏。中臣鎌足が亡くなる直前に、相棒の天智天皇から賜った「藤原」の姓を持つ氏族が、藤原鎌足の一族。以後長きにわたって、勢力を持ち続けます。

少し都市伝説的な話でいうと、佐藤、後藤、加藤、工藤、安藤、内藤など藤のつく苗字は、藤原氏に由来するなどと言われています。でも実際には、本当の藤原氏に近い血筋は別の姓を名乗り、全国の藤原さんは明治初期に勝手につけた名字であることも多いとか。

●系図

いつもの系図を。

●藤原氏

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(写真は子孫が語る藤原不比等の顕彰シンポジウムより)

●天皇家

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(写真は歴代天皇系図(神代六)/家系図作成本舗より)

①藤原不比等(権力者) / 元明(天皇)&元正(天皇)

奈良時代の政治は、「権力者」と「天皇」を別で考えます。

まず幕開けを飾る権力者は、「藤原不比等(ふじわらのふひと)」。

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(写真は藤原不比等 – Wikipediaより)

同時期の天皇は、「元明天皇(げんめいてんのう)」(在位707-715年)と「元正天皇(げんしょうてんのう)」(在位715-724年)。

ここまでの流れは、天武天皇→(天武の妻の)持統天皇→(天武&持統の孫の)文武天皇→(文武天皇の母の)元明天皇→(文武天皇の姉の)元正天皇です。

元明天皇は、息子の文武天皇が707年に亡くなったので、その後を継いで即位しました。その次の元正天皇は、元明天皇の娘であり文武天皇の姉。

藤原不比等は、飛鳥時代の頃からちょこちょこ名前は出てきていました。彼は、藤原鎌足(中臣鎌足)の息子(次男?)です。

最初の疑問は、「中臣鎌足(藤原鎌足)って中大兄皇子(天智天皇)とタッグを組んで、乙巳の変で蘇我氏を倒してブイブイいわせてたけど、壬申の乱(天智天皇の弟vs息子)で天智天皇の弟(大海人皇子→天武天皇)が勝利した後、没落したんじゃねぇの?」ということ。

どうやら、そんなことは無かったようです。不比等は持統天皇(天武天皇の皇后)にかなり信頼されていたようで、大宝律令の編纂にも関わっていますし、養老律令も不比等です。

不比等が活躍するのは、天武天皇が崩御して持統天皇が実権を握るようになってからのこと。

藤原氏のターニングポイント。天武&持統夫婦の孫である文武天皇の夫人として、藤原不比等の長女「宮子(みやこ)」が入内します。出世コース定番の外戚関係です。その文武天皇と宮子の子が、後の聖武天皇。藤原京から平城京への遷都も、藤原不比等が中心となって行います。

この「外戚関係」ですが、「天皇の奥さんが自分の血筋だからって、なんで力を持てるの?」という疑問を持った方もいるでしょう。

当時のシステムとして、妻問婚(つまどいこん)というものがあり、男が女家に夜な夜な通うという形態をとっていました。更に時代が進むと婿入婚(招婿婚)となり、夫婦でできた子供は妻の家で育てることになります。

時期天皇となる子供を、わが家で育てられるとなれば、外戚の影響力は相当なものだったと考えられます。その代わり、女性側の財政負担は莫大なものだったそう。

不比等で検索すると「実は天智天皇の息子だった説」「竹取物語でかぐや姫に求婚した車持皇子のモデルかもしれない説(不比等の母が車持与志古娘)」など興味深い話が見つかります。

話を戻し、具体的な政策や出来事などを見ていきます。710年より数年遡りますが、分けるとややこしいので奈良時代ということで。

708年:和同開珎

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(写真は和同開珎銀銭/和同開珎 – Wikipediaより)

683年に日本初の銭貨である「富本銭(ふほんせん)」が登場しました。「和同開珎(わどうかいちん)」は、日本初の流通貨幣。お金として流通させようとした貨幣です。

708年に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡(当時は武蔵国)から銅が産出し、それを記念して元号を「和同」とし、和同開珎が鋳造・発行されます。1文で米2kgが買えたとか(wiki調べ)。

708年~963年にかけて鋳造された12種類の銅銭を、本朝(皇朝)十二銭(ほんちょうじゅうにせん)と呼びます。

710年:平城京へ遷都

説明したので省略。

711年:蓄銭叙位令

和同開珎を流通させるために「蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)」を出します。「一定の銭を蓄えた人には位階を与えるよ!」という方針ですが、結局のところ、京や畿内以外の地域では現物交換が中心で、あまり流通しなかったとか。

712年:出羽国(でわのくに)を設置

蝦夷(えみし)に対しての政策。出羽国は現在の山形・秋田県あたり。

713年には、大隅国(おおすみのくに)を設置。こちらは、隼人(はやと)に対する政策です。大隅国は、鹿児島県の東の方。

712年:『古事記』の完成


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古事記(こじき)』。歴史書であり文学作品でもある古事記。この8年後に作られる『日本書紀』が外国向けに作られたものであるのに対して、古事記は国内向けに作られたと言われます。古事記の方が文学的で、歴史書としては日本書紀の方が優れているそう。

学校で習った記憶では「稗田阿礼(ひえだのあれ)」という、めちゃめちゃ記憶力の良い人がいて、彼が覚えていた『帝紀』や『旧辞』などの内容を声に出して、それを太安万侶(おおのやすまろ)らが編纂したという・・。

ちなみに、稗田阿礼は女性だった説、実は藤原不比等のペンネームだった説もあります。

720年:『日本書紀』の完成

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(写真は日本書紀(平安時代の写本)/日本書紀 – Wikipedia)

日本書紀(にほんしょき)』は、日本最古の正史(公式に編纂された王朝の歴史書)です。「舎人親王(とねりしんのう)」らによって作成。完成は古事記の8年後です。

720年:藤原不比等 没

②長屋王(権力者) / 元正(天皇)・聖武(天皇)

藤原不比等の次は、左大臣の「長屋王(ながやのおおきみorながやおう)」。同時期の天皇は、先ほどの元正天皇と、文武天皇&藤原宮古の子である「聖武天皇(しょうむてんのう)」(在位724-749年)。

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(写真は聖武天皇 – Wikipediaより)

彼は大仏を作らせた天皇として有名です。譲位の直前に出家したという話もあります。そして、彼の皇后が「藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)」・・そう、不比等の娘です。

不比等の死後、政権を握ったのは長屋王ですが、彼は天武天皇の孫。再び天皇・皇族中心の政治である皇親政治(こうしんせいじ)に戻ったか・・と安心したのも束の間。なんと彼は自殺に追い込まれます。

彼を自殺に追い込んだとされる事件が、729年の「長屋王の変」。その首謀者は・・不比等の息子、藤原四兄弟

722年:百万町歩開墾計画

農民に食料と道具を支給し、10日間、田地開墾に従事させる「百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)」。ちなみに、当時の日本で開墾できる土地は、百万町歩も無かったそう。笑

723年:三世一身の法(養老七年の格)

三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」は、後の墾田永年私財法の前段階みたいなやつです。

灌漑施設(池や溝)を新しく作って開墾した場合、3世代までの所有を認め、既にある灌漑施設(古い池や溝)を使った場合は、その世代に限り所有を認めるといった法。だんだんと口分田を与える土地が足りなくなってきたようで・・予想通りというか、失敗します。

724年:聖武天皇即位

729年:長屋王の変

729年、長屋王は密告を受けて邸宅を兵に囲まれ、自殺に追い込まれます。王子も自殺させられましたが、その他の長屋王に関係する者は許されました。藤原四兄弟によって仕組まれた事件です。

事件の原因の一つは、長屋王の正義感にあるのだとか。

聖武天皇と藤原光明子との間に生まれた子が亡くなり、さらに聖武天皇と別の夫人に子が産まれました。皇位継承の危機、藤原氏にとっては大問題です。

(後に紹介する)藤原四兄弟は、自分たちの力が及ばなくなることを危惧し、とりあえず(藤原不比等の娘の)光明子を皇后に立てて乗り切ろうとします。

しかし、「皇后になれるのは皇族だけ」というルールがありました。皇后が女性天皇として即位する可能性もあったからでしょう。そのルールを長屋王は主張したそうで、結果、長屋王の変で自殺させられ、同年に藤原光明子が立后(皇后になることを定めること)を果たしています。

729年:光明皇后

「長屋王の変」の後、光明子を皇后にするとの詔が出されました。これでもう、藤原氏の思い通りです。

③藤原四兄弟(権力者) / 聖武(天皇)

いよいよ藤原四兄弟(藤原四子)の時代。

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(写真は藤原氏 – Wikipediaより)

彼らは藤原不比等の息子で、武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂が異母兄弟。四兄弟は、それぞれ4つの家に分かれました。こうすることで、それぞれが重要なポジションにつくことができます。

藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ):藤原南家(ふじわらなんけ)開祖

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(写真は藤原武智麻呂 – Wikipediaより)

680~737年

藤原房前(ふじわらのふささき):藤原北家(ふじわらほっけ)開祖

※画像見つからず・・。

681~737年

藤原宇合(ふじわらのうまかい):藤原式家(ふじわらしきけ)開祖

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(写真は藤原宇合 – Wikipediaより)

694年~737年

藤原麻呂(ふじわらのまろ):藤原京家(ふじわらきょうけ)開祖

※画像見つからず・・。

695年~737年

彼らが行った政治を「藤原四子政権(ふじわらししせいけん)」と呼びます。

この四兄弟、皆737年に亡くなっています。正式な記録は残っていないようですが、どうやら、天然痘(てんねんとう)で亡くなったそう。新羅など、海外からウイルスが持ち込まれたのではないか?と言われています。

737年:藤原四兄弟、天然痘(=疱瘡)により死亡

④橘諸兄(権力者) / 聖武(天皇)・孝謙(天皇)

次は「孝謙天皇(こうけんてんのう)」(在位749-758年)。聖武天皇と光明皇后の娘です。

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(写真は孝謙天皇 – Wikipediaより)

女性として初の皇太子となり、出家。後に「称徳天皇(しょうとくてんのう)」(在位764-770年)として重祚(退位した天皇が再び即位すること)しています。

橘諸兄(たちばなのもろえ)」は系図を見ると、

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(写真は子孫が語る藤原不比等の顕彰シンポジウムより)

藤原不比等の奥さんである「県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」の、前の旦那さん「美努王(みのおう)」の息子、葛城王のこと。

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(写真は橘諸兄 – Wikipediaより)

彼は元皇族。そしてなんと、県犬養三千代は藤原光明子の母親。ということは、藤原四子のおかげで、やっとこさ皇后になれた光明皇后の父違いの兄が橘諸兄だということ。うーん、繋がってる。笑

橘諸兄は、唐から帰ってきた学者の「吉備真備(きびのまきび)」と、僧の「玄昉(げんぼう)」をアドバイザーとして起用します。

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(写真は左(上)が吉備真備 – Wikipedia/右(下)が玄ボウ – Wikipediaより)

しかし、この聖武天皇の時代は、疫病や干ばつによる飢饉により、荒れに荒れまくっていました。さらに一族の反乱などもあり、聖武天皇は追い詰められていきます。

740年:藤原広嗣の乱

天然痘で藤原四子が死亡して藤原氏の勢力が落ちていた頃に、橘諸兄が急に政権をとり、唐帰りの吉備真備と玄昉が出世したので不満を抱いたのが「藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)」です。彼は、藤原四兄弟の一人の宇合(式家)の長男。

彼が吉備真備・玄昉らの排除を求めて、九州の大宰府で反乱を起こしたのが「藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)」。排除を求めたのは二人でしたが、もちろん諸兄に対する不満もあったでしょう。

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(写真は藤原広嗣の乱 – Wikipediaより)

結果的には、中央から派遣された兵によって鎮圧されました。が、聖武天皇の一族である藤原広嗣の反乱、長屋王の謀反(とする藤原氏による陰謀)、藤原四子の死、疫病の流行、飢饉と相次ぐ不幸で、聖武天皇と光明皇后の不安は増すばかり。

その後、聖武天皇は恭仁京(くにきょう)、難波宮(なにわのみや)、紫香楽宮(しがらきのみや)、そして平城京と遷都を繰り返すことになります。

仏教にもドップリとはまり、全国に寺を作り、あの奈良の大仏を作ることとなるのです。せんとくんの誕生には、悲しい歴史もありました。

741年:国分寺建立の詔

仏教によって国の安定を図ろうという「鎮護国家の思想(ちんごこっかのしそう)」の元、聖武天皇が各国に国分寺(国分僧寺)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てさせるよう出した命令が「国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」。

743年:大仏造立の詔

大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)」で作られたのが、東大寺の大仏さん。私はたまに奈良公園に遊びに行くのですが、まあ人が多い。観光資源という意味で、日本人は聖武天皇に感謝しなければいけませんね。

当時も仏教をよく知らない民に対して、でっかい大仏や荘厳なお寺を建てることは効果的だったのでしょう。ただ一つ疑問なのは、そもそも仏教で偶像崇拝ってどうなの?ということ。

さて、あんなにでっかい大仏を造るためには、かなりの人手が必要です。そこで目をつけたのが、カリスマ坊主の「行基(ぎょうき)」。

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(写真は行基 – Wikipediaより)

「奈良の大仏」を特集したテレビ番組では、必ずと言っていいほど登場します。仏教の布教は「国家から与えられた資格」を必要とした時代に、禁をやぶって民衆に仏教を広めたのが行基でした。もちろん朝廷は行基を弾圧していたのですが、民衆からの人気はすさまじいものでした。

農民に課せられた税である「庸」と「調」を都に運ぶ運脚(うんきゃく)は、道中にかかる費用は全て自己負担。そんな彼らのために、行基は「布施屋(ふせや)」という宿泊施設のようなものを作って施します。農民のために農業用の灌漑施設、堀、橋、道路、道場、寺院なんかも作りました(wiki調べ)。こんな社会事業をやってのけた行基は、当然人気者。

今まで行基を弾圧していた政府は、方向転換。「こんなカリスマ坊主を、使わない手はない!」。聖武天皇は行基の行いを見習うことにしたようで、実質的に行基は大仏造立の責任者に任命されました。

同743年:墾田永年私財法

前回の「三世一身の法」が失敗に終わったので、今度は一定の条件付きで無期限に私有を認めた「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」。荘園制のはじまりです(初期荘園)。

745年:再び平城京へ

戻ってきました。

752年:東大寺大仏の開眼供養会

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(写真は東大寺盧舎那仏像 – Wikipediaより)

孝謙天皇の時代。奈良の大仏さんの眼に瞳を描き入れて、魂を入れる仏教儀式です。でっかい筆で描きいれるのですが、筆の後ろに長い紐(縹縷)が繋がっていて、その紐に皆で触れます。ただでさえ苦しい時代に、大変な思いをして完成させた大仏・・この日の感動は計り知れません。

大仏を作る工程はNHKの「大仏のつくりかた」を。

753年:鑑真が日本に到着

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(写真は鑑真 – Wikipediaより)

wikiによると、753年12月26日に大宰府に到着、754年3月2日、朝廷に到着されたそう。「鑑真(がんじん)」は何度も日本への渡航に失敗し、失明しながらも日本に渡ってきた僧として有名。

仏教では、新しく僧となる者に対して「授戒(じゅかい)」を行う宗派があるそう。キリスト教のバプテスマ的なやつでしょうか?

当時日本の仏教では、結構いいかげんに行われていたそうで、正しい授戒と、より深い仏教の教えを伝えるために、唐に適当な僧を探しにいきました。鑑真の弟子を数人、日本に連れていければ良かったのですが、危険な船旅ゆえ、渡日を希望する僧はおらず。

「じゃあ私が」と手を挙げたのが鑑真。実は鑑真、その業界ではめちゃめちゃすごい人らしく、鑑真を失うことを嫌って出航を邪魔されたり難破したりで・・ようやく日本に付いたときには、失明していました。宣教師というものは皆命がけですね。

756年:橘諸兄が辞職

聖武天皇から娘の孝謙天皇へ変わると、再び藤原氏(藤原仲麻呂)の発言権が増していきます。橘諸兄は藤原氏の圧力で、辞職に追い込まれたのかもしれません。

⑤藤原仲麻呂(権力者) /孝謙(天皇)・淳仁(天皇)

淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」。実は彼は、天武天皇の孫にあたる人なのですが、このときまであまり注目されていない人でした。何故、彼が天皇になれたのかというと・・「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」です。

注目されていなかった彼を引っ張ってきて、淳仁天皇として即位させました(孝謙天皇はまだ生きています)。結果的に、藤原仲麻呂は淳仁天皇にめちゃめちゃ恩を売ったことになるので、もう仲麻呂との親密度はバツグンです。

淳仁天皇は「恵美押勝(えみのおしかつ)」という、いかにも縁起の良さそうな名前を仲麻呂に与え、彼は太政大臣まで昇りつめます。

藤原仲麻呂は、藤原四子の一人、南家の藤原武智麻呂の次男。天皇が孝謙天皇に変わったことで、その母である光明皇后(藤原光明子)の後ろ盾により、発言権アップ。しかし、依然として孝謙上皇の権威は強かったようで、後に道鏡という謎の僧が絡んで、とんでもない方向へと進んでいきます。

757年:養老律令の施行

藤原不比等が編修した養老律令を、やっと取り戻した藤原氏の政権下で施行。

同757年:橘奈良麻呂の乱(変)

前回の権力者である橘諸兄の息子、橘奈良麻呂が起こした事件。端的に言うと、藤原仲麻呂を倒そうとするも、逆に先制された結果、橘奈良麻呂が殺されたという事件です。

758年:淳仁天皇即位

764年:恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)

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(写真は藤原仲麻呂の乱 – Wikipediaより)

藤原恵美押勝、つまり藤原仲麻呂ですね。ここで道鏡の登場です。天皇の座を退いていた孝謙上皇(女性)でしたが、自分の病気を祈禱によって治してくれた道鏡にドップリはまります。あまりの寵愛ぶりをみて「ちょっとやりすぎですよ」と淳仁天皇を通じて伝えた仲麻呂でしたが、それが孝謙上皇の怒りに触れ対立(本当はもっといろいろあったと思います)。

なんやかんやで仲麻呂は反乱を起こそうとしたのですが、その計画を仲間に密告され、なんやかんやで討死。淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇が重祚して(ふたたび天皇になって)、称徳天皇(しょうとくてんのう)となりました。

⑥道鏡(権力者) / 称徳(天皇)

勢いのあった藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)も、後ろ盾であった光明天皇が亡くなると、次第に力を失い、恵美押勝の乱で討死。淳仁天皇は淡路へと流され、孝謙上皇が、「称徳天皇(しょうとくてんのう)」(在位764-770年)として重祚。

ここから「道鏡(どうきょう)」のターンです。

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(写真は御祭神絵巻/産経WESTより)

称徳天皇の病を道鏡が祈祷で治し、寵愛を得るようになったという話でした。

「本当に、祈祷で病気を治すことなんてできるのかよ?」と疑問に思う人もたくさんいるでしょう。実際に道鏡がそういった能力を使えたかはわかりませんが、宗教の布教において、こういった超能力的な要素は、ある意味常識と言えます。

モーセが海を真っ二つに割ったユダヤ教然り、イエスがパンを増やしたキリスト教然り、特に才能の無いムハンマドが突然美しい詩をそらんじたイスラム教然り、多くの宗教で超能力者が登場します。

今回は奈良時代なので・・例えば「奈良」ということであれば、江戸時代にできた「天理教」も、”手かざしで病を治す”ということで広まっていった面もあります(今は能力者がほとんどいないようですが)。

しかし、これらの超能力は、現在の社会ではほとんど見ることができません。

話を戻し、称徳天皇と道鏡ですが、ネット上では案の定ラブラブ説が出ています。道鏡巨根説・・。

何というか、孝謙天皇もいい年になって、しかも女性天皇ゆえに結婚もできず、親は死に、天皇の座は大炊王(淳仁天皇)とかいうよくわからん奴にうばわれ、おまけに自分は病気にかかって・・そこにパッと現れた道鏡は、まさにプリンスだったのかもしれません。相当なドラマがあったのだと思いますが、現在の日本ネット社会では、巨根の道鏡というキャラで人気・・。両方歴史の楽しみ方ですね。

765年:道鏡が太政大臣禅師に

太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)」という、後にも先にも道鏡だけが任命された、謎のオリジナル役職。

766年:道鏡が法王に

法王は、宗教における最高指導者のこと(ローマ法王とか?)。天皇と並ぶ権威を持ちます。ついに、道鏡はここまで昇りつめました(ただし日本国内に限る)。

769年:宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)

ここまで昇りつめた道鏡ですが、さらに上にいくとなると、残るは天皇です。ある日、大分県にある宇佐八幡宮より「道鏡を皇位につければ、天下は太平となる」というお告げが伝えられます。それを聞いた道鏡は、やる気満々(←煩悩まる出し)。しかし、称徳天皇はさすがに皇族ですから、すぐに道鏡を皇位につけることはせず、まずは確認を取ろうとします。

そこで選ばれたのが、「和気清麻呂(わけのきよまろ)」。

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(写真は和気清麻呂 – Wikipediaより)

彼は急いで宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)に向かいます。そこで神託を聞いた・・のかはわかりませんが、大和に帰り、ビシッと言い放ちます。

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」(wikiより)

残念ながら、道鏡は皇位につくことはできませんでした。おまけに「無道の人は掃除すべし」とも言われ、案の定カンカンに怒った称徳天皇は、和気清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という、ギャグマンガのオチのような、ウソみたいな名前を付けて島流しに処しました。

ちなみに称徳天皇は、道鏡の故郷である現在の大阪府八尾市に、「由義宮(ゆげのみや)」という都を作ろう(作った?)としたそうです。

清麻呂のおかげで、道鏡が天皇になることは防げました。この裏では、式家の「藤原百川(ふじわらのももかわ)」らの、道鏡に反対する動きがあったとも言われています。

770年:道鏡、去る

770年、称徳天皇が崩御されます。ほどなくして、道鏡は下野薬師寺別当として左遷され、赴任先で生涯を終えました。因果応報でしょうか。

同770年:光仁天皇即位

⑦藤原百川(権力者) / 光仁(天皇)・桓武(天皇)

藤原氏が戻ってきました。「光仁天皇(こうにんてんのう)」(在位770-781年)は、天智天皇の孫。天智系の復活です。

ただし、称徳天皇の父である聖武天皇の娘、つまり称徳天皇の腹違いの姉妹にあたる「井上内親王(いのうえないしんのう)」が光仁天皇の皇后。つまり、光仁天皇の奥さんに、聖武天皇の血が流れていると言うこと。血統に対する称徳天皇の想いを感じます。

昨今では、女系天皇問題でいろいろあるようですが、正直、歴史に興味の無い人や、信仰、信念などが無い人にとっては「男でも女でもいいじゃん、男女平等!」という意見になるのは当然と言えば当然。

でも、歴史を見て、ご先祖様がどのように血統を守ってきたかを考えると、軽はずみに答えは出せません。今回の藤原光明子は、皇族以外から初の皇后となりました。もちろん現在の美智子様や、雅子様も元皇族ではありません。一方で、女性天皇である孝謙天皇には跡継ぎはおらず、道鏡という運命?の相手が現れたにもかかわらず、結婚はしませんでした(道鏡の子は残さなかった)。

価値のある(と思っている人がいる)歴史は、大切にしていきたいですね。

同性婚問題も似たようなもの。「同性同士でも、愛があればいいじゃん!人権無くて可哀そう!」と、同性婚を認めた欧米はもうグチャグチャ。愛の形を容認するのと、結婚制度として認めるのは違います。

話を戻し、天武天皇系は称徳天皇で終わり、壬申の乱で負けた側の天智天皇系が復活しました。淳仁天皇のときのように、光仁天皇は藤原氏に感謝するようになるのでしょう。

政権を握ったのは「藤原百川(ふじわらのももかわ)」。

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(写真は藤原百川 – Wikipediaより)

彼は藤原四兄弟の一人であり、式家の祖でもある宇合の八男。

781年:桓武天皇即位

桓武天皇(かんむてんのう)」(在位781-806年)は、光仁天皇の息子。

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(写真は桓武天皇 – Wikipediaより)

母は渡来人系の「高野新笠(たかのにいがさ)」。ここで、聖武天皇の娘の血も途切れることに。

続きは>奈良時代「文化・生活編」

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