続きです。
源平の争乱
1184年
1月:源義仲、征夷大将軍となる
都は義仲の思いのまま。
彼は自身を征夷大将軍に任命させ、かたちの上では官軍(朝廷に属する正規軍)となります。しかし、義経率いる鎌倉軍は、もうすぐ目の前に。
同月:宇治川の戦い
後白河上皇から義仲追討の命を受けた頼朝。
頼朝は「源範頼(みなもとののりより)」「源義経(みなもとのよしつね)」を大将とし、軍を派遣。
義仲も戦いを決意。
義仲四天王と呼ばれる者の一人「今井兼平(いまいかねひら)」に500騎を与え、瀬田の橋を守らせます。同じく四天王の「根井行親(ねのいゆきちか)」「楯親忠(たてちかただ)」らに300騎を与えて、宇治を守らせました。
義仲は院で待機。頼朝の派遣した範頼軍は3万騎で瀬田に、義経軍は2万5千騎で宇治へ向かいます(wikiより。兵の数は他と同じく誇張と思われる)。
「平家物語」によると、義仲勢は橋板をはがし、川底にトラップ(縄?)を仕掛ける作戦をとりました。
宇治橋へとやってきた義経軍。橋板を外され、雪解け水で増水した宇治川。迂回するか、流れが収まるのを待つか考えていたところ、ふと若者が「自分、川の浅いところを調べます」と川を渡り始めようとしました。
すると、「おい、ちょっと待て」と後ろから走ってきた2人。名馬「スルスミ」に乗った梶原源太景季と、名馬「イケヅキ」に乗った佐々木四郎高綱です。
「高綱(たかつな)」より少し前に出た「景季(かげすえ)」。しかし、「お前、馬の腹帯緩んでんぞ」という高綱の言葉を真に受け締めなおしたところ、そのスキに高綱が川へザブン。その後を追って、景季もザブン。
高綱は名馬「イケヅキ」の足に絡まった縄を切って進み、無事対岸に。先陣を切り、名乗りを上げて敵陣に突撃することができました。一方、景季はかなり下流まで流されたというお話(宇治川の先陣争い)。
2人に続いて義経軍も宇治川を渡り、根井行親、楯親忠ら率いる義仲勢を倒して勝利。そのまま都に上洛します。
これが、「宇治川の戦い(うじがわのたたかい)」です。
※瀬田の今井兼平軍は未だ戦闘中。
上洛後、義経は後白河上皇を確保。
上皇を諦めた義仲は、瀬田の今井兼平と合流し、根拠地である北陸への逃走を試みます。が、近江国粟津にて矢に射られ、義仲は討死しました。
2月:一ノ谷の戦い
勢力を立て直した平氏。1月には摂津国福原あたりまで進出。
同じ頃、後白河上皇は頼朝に「平氏追討」を命令。勢いに乗っていた範頼と義経が、平氏が待つ福原へと向かいます。
ここからは、平家物語などを交えたお話。
平氏は福原に陣を構えます。北は山、南は海に囲まれた地で、東の入り口が生田の森、西の入り口が塩屋口、北の入り口が夢野口。防御陣を築き、待ち構えました。
鎌倉勢の範頼が5万6千騎、義経が1万騎(wiki調べ)。
平氏軍を東西から挟み撃ちにするため、大手(正面から攻める)の範頼は東から、搦手(からめて。後ろ側を攻める)の義経は西からと、二手に分かれて進むことに。
2月4日、京を出発。このとき、矢合せ(決行日)は2月7日と定めました。
2月5日、義経軍は播磨国三草山あたりで平資盛軍と対峙。わずかな距離をとって陣をおきます。
夜、義経軍は民家に火を放って(その明かりで進軍)夜襲をかけ、あっという間に勝利。「三草山の戦い」。
途中、義経軍は土肥実平7000騎と義経3000騎の二手に分け、さらに「鵯越(ひよどりごえ)」で二分。
安田義定、多田行綱ら主力隊は夢野口へ。義経はわずか70騎で山の中を進み、平氏軍の裏手を目指します。
このとき、義経の従者「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)」が、猟師を見つけてきて道案内をさせました。
猟師いわく「鵯越(ひよどりごえ)は馬では越えられない。鹿(しか)なら、まあいけるかな」とのこと。「鹿がいけるなら馬もいける」と確信した義経。
やがて、平氏が陣を構える一ノ谷の裏手に到着。
崖の上の義経。
開戦
このタイミングで、熊谷直実・直家父子ら5騎が義経軍から離脱します。
「崖から落ちるのでは、先陣もくそもない」と感じたのか、塩屋口の西城戸まで走り、先陣を名乗って開戦。敵に囲まれもう無理かと思ったそのとき、土肥実平率いる7000騎がかけつけ激戦に。
生田の戦い
武士にとって「先陣を切ること」がそれほど名誉だったのか、源氏側の河原兄弟も行動に出ます。
まだ星がちらつく時間帯。勝手に抜け出した河原兄弟は、敵陣に乗り込み、名乗ります。結果、矢に射られ首を取られました。
午前6時、平氏軍の主力隊と、鎌倉勢の主力隊、範頼軍との戦闘開始。
河原兄弟が討たれたと知った梶原は、生田の森の逆茂木(さかもぎ)を除き、500騎で先駆け攻め入りました。
梶原勢の周りはすべて平氏軍。戦い駆け回ります。
ふと父「梶原景時(かじわらかげとき)」は、長男「景季(かげすえ)」(※別名:源太。さっき説明した「宇治川の先陣争い」で馬ごと下流に流された人)の姿を見失います。
探させるも見つからず「先駆けも子どもらのため。源太が討たれ、私が命を長らえて何の意味があろうか」と涙。一度抜けた城に、再び戻ります。
再び戦場に戻った景時は、
「昔、八幡殿(源義家)が後三年の御戦いで、出羽国千福の金沢城をお攻めになった時、生年十六歳で先駆け、左の眼を甲の鉢付のに射付けられながら、返しの矢を射てその敵を射落とし、後代に名をあげた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一人当千の兵であるぞ。我と思う人々は、景時を討って(御大将に)お見せしろ」
(「平家物語 – 巻第九・二度之懸 『梶原大音声をあげて名乗りけるは…』 (原文・現代語訳)」より)
と大声を上げ、敵陣に突進。景季(源太)を探し駆け回ります。すると、馬を射られ敵5人に囲まれた景季を発見。
「源太!父はここにいるぞ!死んでも敵に後ろを見せるな」。親子で3人を討ち取り、2人に傷を負わせ、「武士は進むも退くも戦機による、さあ、源太」(「平家物語 – 巻第九・二度之懸 『梶原大音声をあげて名乗りけるは…』 (原文・現代語訳)」より)
と、景季をつれて脱出。
「梶原の二度懸け」です。
鵯越の逆落とし(坂落とし)
2月7日朝、義経が坂を下ります。
とりあえず馬を落としてみると、無事に下った馬もいたので「じゃあいこう」ということで、まずは義経が30騎を率いて駆け下り、残りもそれに続きます。
2町(約200m)下り、壇になっていたところでストップ。それよりさきは、十四~五丈(1丈を3mとすると、40m以上)の岩場となっていて「さすがに無理っしょ」という空気に。
が、そのとき。
「地元じゃ、こんなのよく駆け回ってたぜ」と言い放った佐原義連が、先駆けて崖下へ。義経らも負けじと岩場を下り、無事到着。
華麗な登場をきめた義経軍。平氏の屋形に火をつけ、黒煙もくもく。
自陣から煙が上がり「自軍が負けた」と思ったのか、平氏軍は我先にと海へ。船をめぐって乗せる乗せないで切りあいに。文字通り、血の海となりました。
「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」です。
その後、平氏軍は敗走。
総大将で平清盛の三男「宗盛(むねもり)」は、安徳天皇を連れて屋島に渡ります。
※他にも平忠度、平敦盛などの逸話がありますが、終わらないので省略します。
この後、平氏の残党たちが蜂起する事件(三日平氏の乱)など反乱がおきたため、その鎮圧、治安維持のため、頼朝は武士を派遣。
義経は後白河上皇より「検非違使(けびいし)」に任ぜられ、平氏残党に対する警備、治安維持を任されます。
しかし、この義経の行動に対して、頼朝はプンプン。「官位の推挙は頼朝が一括して行うから、勝手にもらっちゃダメだよ」という言いつけを破り、義経が勝手に官位をもらったことで頼朝が激オコ、平氏追討メンバーから外す事態に。
というのが以前までの定説だったとか。しかし、近年の研究では、京都治安維持のため義経が必要で、法皇や貴族たちの声で京都に残ったという説が有力なんだそう(wikiより)。
1185年
2月:屋島の戦い
「一ノ谷の戦い」からおよそ1年。讃岐国屋島で、源氏と平氏が再びぶつかります。
讃岐国屋島を本拠とし、力を蓄えていた平氏軍。
屋島に「内裏(だいり)」(天皇の私的区域)を置き、水軍を使って海をかためます。
対する鎌倉勢は水軍を持っていなかったため、しばらく休戦状態に。
「一ノ谷の戦い」の後、西でたびたび平氏による襲撃事件が起きると、鎮圧のため「源範頼(みなもとののりより)」がかり出されることに。
九州あたりまで伸びた範頼軍の戦線は、関門海峡を平氏側におさえられ、九州へも渡れず、食糧がつきはじめてボロボロの状態に。
この状況を知った源義経は、後白河上皇に出陣の許可を得ます。熊野水軍など、平氏に反感を持ついくつかの水軍を味方につけ、準備完了。
平家物語などによると、暴風大波のため出港したがらない船頭や操舵手に対し「思いもよらないときを狙って攻めるからこそ、敵を討てるのだ」と言いながら弓で脅迫し、出発。
途中、在地の武士などを味方につけ、いくつかの戦いを経て2月19日、屋島の対岸に到着。
干潮時に、馬で島へ渡れることを知った義経。
兵力差を見破られないよう、民家に放火。大軍を装って屋島の城を攻撃。
攻撃は海からだと思っていた平氏軍はびっくり。さらに、義経の策により大軍に襲われたと勘違い。安徳天皇も含め、皆あわてて船で海上へと逃げ出しました。
しかし、しばらくすると平氏軍は、義経軍がたった七、八十騎で攻めてきたことに気がつきます。少し焦りすぎたと反省。少し距離をとり、しばらく弓戦と口喧嘩を挟んだ後、有名なあのシーンに。
日暮れが近づき、義経たちが一旦引き上げようとしたところ、沖の方から飾りの付いた小船が一艘、波打ち際へと漕ぎ寄せてきました。
その中から、十八、九の美女が登場。日の丸が描かれた紅一色の扇を竿先につけ、船の側面に挟み立てています。
義経が「あれはどういうことだ?」と尋ねると、「弓の名手に、あの扇を狙って射落とせ。とのことかと思われます」と答える後藤実基。
ここで指名されたのが「那須与一(なすのよいち)」。
「射止められるか、かなり微妙です」と一度は弱気になりますが、義経が怒ったため「御命令とあらば」と勝負を決意。
午後六時。風は激しく、波で船は揺れています。沖では平氏軍が船を並べて見物。陸では源氏軍が見守る中・・
那須与一は目を閉じ、心の中で念じます。
「南無八幡大菩薩、我が下野国の神、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させてくださいませ。これを射損じるものならば、弓を切り折り、白害して、人に再び顔を向けないつもりです。もう一度、本国へ向かわせようとお思いならば、この矢を外させなさるな」
(「平家物語 – 巻第十一・那須与一『矢頃少し遠かりければ…』 (原文・現代語訳)」より)
再び目を開けると、風は少し穏やかに。与一は鏑矢(中が空洞の鏑を付け、射放つと鳴る矢)をとり、つがえ、引き絞り、放ちました。
鏑矢の音が長く響き渡り、扇は空へ。夕日で輝く空をヒラヒラと舞い、海に落ちました。
平氏と源氏、両方から感嘆の声が上がります。
しばらくすると、扇を立てていた船の中から、テンションマックスのおじさんが登場。扇が立ててあった場所で、舞い始めました。義経は射るよう命じ、与一はこの男の首も、射抜きます。
平氏側は静まり返り、源氏側からはどよめきが。
「あ、射落とした」という人あり、「情けない」という人あり、怒った平氏軍は再び攻めかかった・・というお話です。
最終的に、上陸を試みた平氏軍を義経軍は撃退。後にかけつけた鎌倉の大軍に、平氏軍は彦島に退きます。
これが「屋島の戦い(やしまのたたかい)」です。
ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』第六話「ヤシマ作戦」では、EVA初号機が「陽電子砲」を使い、正八面体の使徒のコアを撃ち抜きます。使徒が下に伸ばした竿(ドリル)は、NERV本部に突き刺さる寸前で止まりました。
3月:壇ノ浦の戦い
「屋島の戦い」で敗れ、四国における拠点を失った平氏軍は、最終的に長門国彦島で孤立状態に。範頼軍は九州に渡り、西を遮断。義経軍は東から迫ります。
平家物語などによると、源氏軍に味方する兵が次々に現れ、源氏の勢力が拡大したそう。
舞台は、壇ノ浦の海上。
平氏軍の指揮を取ったのは「平知盛(たいらのとももり)」。
途中、「梶原の二度懸け」で登場した梶原景時と義経による、先陣を巡っての”同士討ち寸前の喧嘩”をはさみ、3月24日の正午、両軍が壇ノ浦で衝突し、開戦。
潮の流れが激しい関門海峡。はじめは水軍の扱いに長けた平氏軍が潮の流れに乗り、優勢に。
やがて潮の流れが変わり、義経軍が平氏軍の船に乗り移って、刀でバサバサ切り倒します。
さらに平氏軍の阿波水軍が、源氏軍に寝返り、他にも平氏軍から源氏軍へ寝返る者が続出。
波が高くて岸にはあがれず、砂浜には矢を構えた源氏軍。平氏軍は、船に乗り移ってきた源氏軍によって、バサバサ殺られます。
ヤバイと感じた平知盛は、小船に乗り換え、安徳天皇のいる船へ。
※以下、平家物語 – 巻第十一(原文・現代語訳)より。
「世の中は、今やこのようであると見えてございます。見苦しいような物は、みな海へ投げ入れてくださいませ」
と言うと、船内を掃除する知盛。
世の中の流れは、もはや平氏から源氏へ。海に投げ捨てる見苦しいものとは何なのか。
戦況はどうかと尋ねる女房たちに対して、知盛は「珍しい東国の男を御覧になられることでしょう」と、今にも乗り込んできそうな源氏を指して、笑えない冗談。
知盛は覚悟ができたのでしょう(※wikiによると、「目にする」というのは「情を交わす」ことの婉曲表現で、女官たちが源氏の武者に強姦されることを示唆しているとのこと)。
いよいよ、クライマックス。
安徳天皇の祖母、二位尼(平時子)は、三種の神器である「八尺瓊勾玉」を脇に、「天叢雲剣」を腰に、6歳の安徳天皇を抱えます。
「尼さま、朕をどこへ連れて行こうとするのだ」と尋ねる孫に、涙をこらえて祖母が返します。
「陛下はまだご存じないのでございましょうか。前世の十善を持つための戒を行われたお力によって、今、万乗の君主としてお生まれなさっておられますけれども、悪縁に引かれて、御運は既に尽きてしまわれました。まず東にお向きになられて、伊勢大神宮にお暇申し上げなさり、その後、西方浄土の仏によるお迎えをお受けしようとお思いになり、西にお向きになって、お念仏をお唱えください。この国は、粟散辺地(ぞくさんへんち)[辺鄙な地にある小国]といって、不快な土地でございますので、極楽浄土といってすばらしい所へお連れ申すのです」
涙を流しながら、祖母の言ったとおりになされた安徳天皇。
「波の下にも都がございますぞ」
祖母は再び孫を抱き、海へ身を投げました。
それに続き、知盛を含む平氏一門の者たちも、次々に入水(女性は重いものを身につけ、男性は鎧の重みで海底へ)。
平家物語によると、安徳天皇の母「建礼門院(けんれいもんいん)」(平徳子)は海に身を投げ入れるも、髪に熊手をかけられて引き上げられたそう。
平氏勢力は滅亡し、源氏の勝利に終わりました。
これが「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」です。
そして、ここまでの6年にわたる内乱が、「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」でした。
『平家物語』祇園精舎
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
『平家物語』冒頭より
平安時代の続き>平安時代「弘仁・貞観文化編」
コメント
めがねたぬき
大変判り易く分解して開設されているとおもいます。私自身日本史が好きで中卒の浅知識で、市販の歴史書などを参考にしていますが、御氏の内容記事は大変参考になりました。お礼申し上げます。
ただ、できれば御氏の歴史観としての「私考」があればとおもいました。
今後も良い参考記事をお願いします。 和歌山県65才 年金生活者。
とても、わかりやすかったです!
定期考査の前日まで、源氏と平氏の戦いの内容が頭に入って来ず、諦めかけていた時に、こちらのサイトを見つけました。
丁寧に、図ものっていて、すごく頭に残って、なるほどと思えました。
おかげで、テストの点数も良かったです!
鎌倉時代からも、こちらで勉強していこうと思います。
これからも応援してます。